(PDFバージョン:zonnbinonakanozonnbi_hennrimakoto)
――「ロールシャッハテストを知らんのかね?」と、その試験官は言った。
「そんなもので何が分かる」と俺は応えた。
安っぽい電子音とともにステンレスのドアがスライドし、煤けたコンクリートの壁に四角い穴が空いた。
天井のどこかにあるのであろうスピーカーが、男の声で俺の受験番号を読み上げる。
〈十九番の部屋へ〉
手にしていた文庫本を素早く閉じ、防水コートの内ポケットに突っ込む。ゴミ袋よりは多少マシと思えるバッグ――中身は身の回りのものと食料が少々――をひっつかんで、俺は朽ちかけたベンチから立ち上がった。
この本とバッグが俺のありったけの財産。我ながら立派なものだと思う。この荒れ果てた東京で今日日、まがりなりにもまだ“財産”を手にできているのだから。
むっつりと黙り込んだ数十人もの男女がたむろする薄暗い控え室を後にして、俺はドアの先へと進む。膝が微かに笑う。武者震いか、緊張か。この日を七年も待ったのだ。そりゃ足だって少しくらいは震えるさ。
ここはまるで監獄のような建物だった。目に入るのはコンクリートと鉄ばかり。とても楽園の入り口には見えないが、それは当然だった。パラダイスの入り口は狭いものと昔っから相場が決まっている。ここは理想郷に群がる亡者どもを蹴落とすための場所なのだ。
ドアの先には狭くて真っ直ぐな通路があった。左側に赤く塗られた金属製の厳つい扉がずらりと並んでいる。その表面には白いペンキで殴り書きされた数字が。十九番は通路の随分先だ。俺は先を急ぐ。
極東アジアで起きた紛争が世界恐慌を引き起こし、その余波は、世界に冠たる借金大国、日本の懐をも直撃した。
以来、株価の大暴落やら、ハイパーインフレの発生やら、デノミの失敗やらといった出来事が毎年のように立て続けに起こり、結果、経済的安定などというシロモノは紙吹雪のようにどこかに消えた。国家破綻。日本のあちこちで機能不全が起き、今ではもう、首都であるこの東京ですら、ほとんどの地区で治安が放棄されたも同然になっている。
強請、恐喝、強盗、殺人……何でもござれの無法地帯が今の日本だ。警察官なんてもう何年も見ていない。
だが、こんな地獄のような国にも例外的な場所はある。“聖域”と呼ばれる地域。正式には“美的環境保全特区”。政府によって特別に定められた、高い壁に囲まれ、最新鋭のガードシステムによって治安が守られている地区だ。東京の山の手の中にも幾つかそんな街が点在している。俺が今目指している白羽ヶ丘も、その中の一つだった。
あの高い壁の向こうになら、公平な法があり、真っ当な暮らしがある。本を焼かずにすむ世界があるのだ。
だが、パラダイスの入り口は狭い。誰も彼もを受け入れていたら、聖域はすぐに人で溢れてしまう。故に、その地区に転入するためには厳しい審査にパスしなくてはならないのだった。
聖域の中で生まれた奴は、ただそれだけのことで、一生ぬくぬくと何不自由することのない暮らしを楽しめる。
だが壁の外に生まれた俺たちは、血の池を這いずるような厳しいテストに合格しなければ、あの中に入ることすらできない。
不公平だとは思うが、こんな時代に公平を求めること自体、間違っているのだろう。
それでも俺はまだ運が良かった。こうして何とか試験を受けられるのだから。今日のテスト、何が何でもクリアしなくては。
震える拳で“19”と書かれた扉をノックすると、奥から「どうぞ」というくぐもった声がした。
蝶番を甲高く軋ませながら扉を開ける。
中は黒ずんだ壁に囲まれた小部屋だった。天井からの照明がやけにきつい。窓はないが奥にもう一つ扉があった。どうやら自動ドアのようだ。ノブがない。まるで取調室のような雰囲気。もしかするとこのビル、昔は本当に監獄だったのかもしれない。
室内にはスチール製の机があり、その向こうに痩せた初老の男が、目を血走らせ、背中をすぼめて立っていた。くたびれきった白衣をまとっている。まるで冷水でもぶっかけられたかのように、ガタガタと震えていた。
俺が不安を覚えたのは当然だろう。大丈夫なのか、この男。とても健全なようには見えないが。こいつが楽園の門番? 予想していたのとは全然違う。
聖域の資格審査の内容がどのようなものなのか、俺はついにつかむことができなかった。どうやら試験官によって千差万別らしいのだ。何人かの落第者を探し出し尋ねてはみたのだが、全員、言うことがバラバラだった。共通していたのは、そのテストが「妥当かつ公正であること」の一点のみ。つまり逆に言うならば、妥当かつ公正でさえあれば、テストの内容は何だってよいのだ。具体的にどうやって試すかは、試験官各々の裁量に任されているのだろう。
壁の内側にいる連中からすれば俺たちは、良くて難民、下手をすれば貧困によって生み出されたモンスター、災厄という名のウィルスをまき散らすゾンビだ。腹の底では「誰にも入ってきてもらいたくない」とさぞ考えていることだろう。
ゾンビどもに暴動でも起こされては厄介なので一応、入り口を設けてはあるものの、その門はごく細くしか開かれない。バケモノどもに傾向と対策を研究されてしまわないよう、資格試験は受けてみるまで分からない仕組みになっているのだ。
楽園の試験にパスできるかどうかは、どんな試験官に当たるかでほぼ決まってしまう、と言っても過言ではない。にもかかわらず俺の試験担当ときたら……、どう見ても正常な奴じゃない。こいつが聖域の住人? これはどういうことなんだ?
だが俺が口を開こうとした瞬間、向こうがこちらの機先を制するかのように突然、怒鳴った。それも鏡が割れてしまいそうなほどの甲高い声で。
「黙れ! 座れ! じっとしていろ! お前の私語など聞きたくない!」
ッ! 俺は思わずのけ反り、下唇を噛む。なんッて無礼な野郎だ! 俺の拳が今震えているのは、緊張ではなく怒りのせいだ。初対面でこの俺に一方的に命令を下しやがった! 通常なら間違いなくぶちのめしている。
だがもうテストは始まっていると考えるべきだった。これもその一環なのかもしれない。受験者をわざと挑発して、その反応を見ているのかも、だ。今だけは、軽挙妄動は慎まなくては。
俺は渋々、用意されていた粗末なスツールに腰掛ける。
男がやってきて俺の頭と右手首に布を巻き付けた。「黙れ! 座れ! じっとしていろ! 後で説明する!」とキンキン声で怒鳴りながら。俺はまだ一言だって喋っちゃいないのだが。
スチール机の上には辞典くらいの大きさの黒い小箱が置かれており、男が触れると筐体の上端がチカチカと瞬いた。一つだけあるLEDの光が赤から橙、やがて緑色に変わる。
ふむ、と自分用の椅子に腰掛けた試験官が小声でつぶやいた。
「では、えー、この度は白羽ヶ丘居住区の転入資格検査にようこそおいでくださいました。検査に入る前に担当検査官からの説明をお聞きください。貴様に装着したそのヘアバンドとリストバンドには端子が埋め込まれていてこの端末と無線で接続されており詳しい説明をしたところで貴様には分かるまいがこの機械は要するに嘘発見器だと知れッ!」
俺は思わずこめかみを指で押さえる。何なんだ、こいつは。言っていることが支離滅裂だ。
「貴様嘘つくとランプ赤く光る! それで分かる! 一目瞭然だ! 誤魔化そうったって無駄だからなッ! えー、なお、この検査方法は国家国土省地域振興推進本部の承認を受けており、その内容は妥当かつ公正なものであると認定されております。もしご不明な点がございましたら、係員もしくは国家国土省地域振興推進本部までお寄せください」
頭が痛くなってきた。
だがその痛みの奥でもう一人の俺が「このままこいつのペースに乗せられるのはマズイ」と警告してもいた。ちッ! どうすりゃいいんだ。
試験官のご機嫌を損ねたくはないが、このテストは元々、希望者を振り落とすためのものだ。ただ相手の言うことに唯々諾々と従っているだけでは到底、合格はおぼつかない。確かにこのままではマズイ。
だが焦燥に駆られている俺の心情などお構いなしに、眼前の痩せた男はわめき続けた。
「マシンのテストをするから全て“いいえ”と言え! 貴様は男か、貴様は日本国籍を持っているか、貴様の受験番号はSC9027181かッ!」
俺が三回「いいえ」と答えると、LEDが三回赤く光った。
「嘘ついたって無駄だッ!」と奴が怒る。いや、お前が“いいえ”と言えって言ったんだろ。
呆気にとられている俺になど構わず、試験官が机の引き出しからスケッチブックのようなものを取り出し、俺に開いて見せた。
「これは何に見える?」
「はぁ?」と俺。「何って……インクの染みだろ」
実際それはインクの染みにしか見えなかった。左右相称であるという点だけは少々奇異に思えたが。
奴が大きなため息を漏らす。
「ロールシャッハテストを知らんのかね?」と白衣の男。
俺は黙って首をかしげる。
「スイスの精神科医ロールシャッハが1921年に考案した人格検査だよ! 左右対称のインクの染みの図形が何に見えるかを調べるんだ!」
「そんなもので何が分かる」
「様々なことだ! 貴様の知能、成熟度、情緒性、欲求、性格、精神状態等々!」
奴がニヤリ、と笑う。
「知ってのとおり白羽ヶ丘居住区は政府によって美的環境保全特区に指定されている。美しい国家を形作るための、美しい街。それが美的環境保全特区なのだ。白羽ヶ丘は、それはもうビューティフルな街だ。そしてビューティフルな街には、ビューティフルな心を持った住民こそが相応しい。だから私はそれを検査するのだ、お前の心を覗くことによってな。さぁ言え! これは何に見える!」
ダンッ、と開いたノートを机の上に叩きつける。こちらに有無を言わせぬ剣幕だ。
「何に見えるかったって……」
俺は口ごもる。
怒りが再びむくむくと沸き上がってきた。
勝手に俺の内面を覗くだと? 俺の心がビューティフルかどうかを検査するだって? くそ、ナメやがって、ムカつく野郎だ。いったい何様のつもりなんだ。そんなふざけた真似を俺がいつ頼んだ? こっちは同意なんかしちゃいないんだぜ? あぁ、こいつを今すぐぶん殴って四つに畳み、部屋にある一切合切を全部叩き壊してやったら、どんなにか気分が晴れるだろう。
だがそんなことをすれば、無法と暴力が支配する、あの掃き溜めの街に逆戻りだ。そしてもう二度とそこからは出られまい。その事実が辛うじて俺の激情を押しとどめる。
「蝶……かな」
これは嘘だ。本当は“路地裏に転がっている双子の子豚の死骸”を連想した。だが豚の死体よりは蝶の方が、まだ多少はビューティフルだろう。
しかし俺が喋るのとほぼ同時にLEDの光が赤に変わった。
汚れた白衣を着た初老の男が引きつったように笑う。
「言っただろ、誤魔化すことは出来ないと。正直に言わないとテストはここで終了となるぞ」
くっくっく、と嬉しそうに咽を鳴らしている。
確かにこの嘘発見器の性能は大したもののようだ。花、落ち葉、水面に映る月、トカゲのダンス……俺が並べた嘘八百全てに赤で応え、「子豚の死骸」と言った時だけ緑色に光った。
ほうほう、とふくろうのように鳴きながら、奴が手帳に何かを書き込む。
そして次の絵、というかインクの染み、が示される。やはり俺の嘘は通用しない。その次も、その次の次も。
五枚目の絵を閉じると奴が「もういいだろう、これで十分だ!」と叫んだ。
「普通はもっと見てもらうんだが貴様には時間の無駄だ。いや、ひどい。こんなひどい結果は久しぶりだ。豚の死体に血まみれの棍棒、裏返った悪魔のマスク、下手くそが空けた弾痕、酔っ払いの吐瀉物……これ以上はこっちが耐えられん! 貴様の人格はひどくねじ曲がっている。そして顕著な暴力性が見て取れる。およそビューティからはほど遠い。その対極にいるような人間だなお前はッ! ええい、駄目だ駄目だッ! 断じて貴様のような輩を聖域に入れるわけにはいかん! 判定結果はEマイナスだ。よって貴様は不合――」
「ふざけるなッ!」と俺は立ち上がる。
途端に奴がけたたましくわめく。
「黙れ! 座れ! じっとしていろ! 私の判定結果をおとなしく拝聴するのだッ!」
俺は負けじとありったけの大声で奴に怒鳴り返した。
「いいや、嫌だねッ! こんなテストのどこが妥当で公正なんだッ! 俺は異議を唱える!」
スツールを思いっきり蹴倒す。
ここで不合格にされたら、次に機会が巡ってくるのは十年後かもしれない。楽園へのチケットは誰だって欲しい。だがその資格テストを受けるためには厳しい条件が幾つもある。例えば犯罪歴がないこと、反社会的な言動をしていないこと、税金や年金、社会保険料などを滞納していないこと、等々。
警察がまともに機能していない昨今では逮捕されることはまずないし、よほどのことでもしない限り公安からにらまれることもない。だが税金等々をきっちり払わなければならないのはかなりキツイ。全部合わせると法外なほどの金額になるのだ。
この七年間はどうにかやってこれたが、それは幾つかの幸運もあってのことだ。あと十年、あの無頼の街でそれを続けられるかと問われれば、正直、自信はまるでない。今受けているこのテストが恐らく俺にとっては最初で最後のチャンス。はいそうですか、とここで簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
奴もこちらに負けじと椅子から立ち上がる。
狭い室内に二人の男のあらん限りの怒鳴り声が響き合った。双方による大袈裟な身振り手振りとともに。奴の叫びは耳を聾するほどに騒々しく、おかげで俺の気力は幾度もくじかれそうになった。が、こっちも負けるわけにはいかなかった。
「異議だと! 馬鹿な! いったいどこに何の疑問がある! ロールシャッハテストの有効性は長い歴史の中で――」
「1921年にあんな嘘発見器はなかったはずだぞッ! これは断じてロールシャッハテストなんかじゃないッ!」
「貴様は進歩という言葉を知らんのかッ発展するんだよ何もかもはッロールシャッハテストもまたしかりだッこれは新しくなったニュー・ロールシャッハテストなのだッ!」
「あのマシンに小細工がないという保証がどこにある! あんたか、あんたの仲間が、俺に隠れてスイッチを操作しているかもしれないじゃないかッ!」
「そんな真似ができるわけないだろ! あれは私物じゃない! 政府からの借り物なんだぞ!」
「ハッ! そんな証拠がどこにある! 口では何とでも言えるさ! 信じられないねッ!」
「じゃ、どうしろって言うんだ!」
「あのマシンに本当にイカサマがないかどうか、調べさせろッ!」
「なッ、何だとぉぉぉ!」
互いに歯を食いしばってにらみ合う。奴の血走った目はますます赤くなったが、俺の知ったことか。断じてこんな結果を認めるわけにはいかない。ここはとにかく徹底的にごねまくるしかない。
だが俺が「お前じゃ話にならん! 責任者を出せッ!」と叫ぼうとしたまさにその瞬間、場違いなチャイムの音とともに、天井から唐突に女の声が降ってきた。
〈こちらは白羽ヶ丘居住区転入資格検査監督官です。ただ今の受験者SC9027181からの請求を、正当な権利の行使であると認めましたことをお知らせいたします。受験者はどうぞ、装置の調査を行ってください〉
再び、チャイム。声が消える。
へ、と俺。天井を見上げる。
「……何だ、今のは?」
少し毒気を抜かれてしまった気分だ。
このテストの監督だよ、と力なく白衣の男。見ると椅子の上に座り込んで悲しそうにうなだれている。
「言わば我々の監視者だ。この検査は妥当かつ公正でなければならん。どのような形であれ、ズルは許されない。そのため、ここでのやり取りは常にモニタされるのだ」
この部屋のどこかに監視用のカメラやマイクが隠されてある、ってわけか。
なるほど、と俺。どういう事情があるのかは知らんが、どうやら試験官は監督官には絶対に逆らえないらしい。服従するしかないわけだ。だが俺にとってはその方が好都合だ。逆転の可能性が出てきた。
突然、奴が不意に顔を上げ、カッと両目を見開いた。
「そんなことよりも今は資格検査だ! 装置を調べるのは結構だがどうやるんだ! 分解でもするのかね? 中を覗いたところで貴様には何がどうなってるのかすら分かるまい!」
「ああ、それなら簡単さ」俺は頭と手首のバンドをむしり取って奴に投げつけた。「あんたにも同じテストを受けてもらう。もし本当に何も小細工されていないのなら、あの箱はあんたの嘘も見破るはずだ」
嫌とは言わせないぞ、こっちはちゃんと監督官の許可を取り付けているんだからな、と駄目を押す。頬が緩むのが自分でも分かった。
「さて、この絵は何に見える?」
スケッチブックの適当なページを開いて、奴に見せる。
痩せた白衣の男は、おどおどした視線でそのインクの染みを見つめた。
「滝、だな。宇宙を流れる……ほ、星の滝だ」
嘘発見器なぞ使わずとも奴が嘘をついていることは明白だった。語尾が派手に震えている。
実際、LEDの色も「赤」だ。
おやぁ、と机の上に腰掛けたままの姿勢で俺はわざとらしく眉をひそめる。
「おかしいな。ランプが赤いぜ。もしかしてあんた、嘘を言ってるんじゃあないか? これじゃテストにならないよなぁ。さて、もう一回尋ねるが、この絵は本当は何に見えるんだ?」
その後も奴はもごもごと、雲、聖者のシルエット、山々、などとつぶやいていたが、光の色を少しも変えることはできなかった。最後にとうとう観念したのか、「骨」と小声で告げた。
「骨、だ……山羊の頭蓋骨」
LEDが赤から緑に変わる。
「ふむ。やっと普通の結果が出たな。その調子で頼むぜ。では次だ。この絵は何に見える?」
次のページを開いて奴に突きつける。
哀れな試験官はその後もずっと言い訳じみた口調で何やら綺麗めいた単語をあれやこれやと並び立てたが、機械はその嘘を全て見破った。実際、このマシンの判定は大したものだ。
同じテストをやり返す、というのはあの場での咄嗟の思いつきにすぎなかったが、俺のアドリブは想像以上の効果を生んだ。奴のテスト結果も、決してお上品とは言えなさそうなものだったのだ。
俺は大袈裟に顔をしかめて見せる。
「こりゃひどいな……山羊の頭蓋骨、さまよう鎌、捨てられた黒衣、狼の顎門、忍び寄る何者かの影……人格がねじくれてるとしか思えない。あんたは今、死への恐怖と正体不明の不安に悩まされていて、極度の情緒不安定に陥っている、ってところかな」
思わず笑ってしまう。こんなテストはやるまでもない。奴のおどおどと震えている様や、宙をさまよう虚ろな視線を見れば、誰だって似たような判定を下すだろう。
案の定と言うべきか、どうやら本当に図星だったようだ。奴の顔がみるみる紅潮してゆく。
「も、もういいだろ!」椅子から立ち上がった。「これで貴様にも分かったはずだ! その装置に一切の小細工はない!」
「ああ、確かにそうだな!」俺も怒鳴り返す。「そしてもう一つ分かったことがあるぜ! あんたの心の中にビューティなんて結構なものは欠片も存在しないんだってことがなッ! あんたの中にあるのは恐怖と不安と怯えだけだ! あんたに俺を不合格にする権利なんてない! あんたは試験官失格だッ! あんた自身、ビューティフルな街にはまったく似つかわしくないじゃないか! インチキではないが、無資格だ! よってこのテストは無効だッ!」
天井に向かって叫ぶ。
やがてチャイムが響いた。
〈ただ今の受験者の主張を正当なものであると認定いたします。よって試験官SC9026992の資格を剥奪し、受験者SC9027181を仮合格とします〉
あぁッ、と白衣の男が悲鳴を漏らす。
「……あと十四人だったのに」
崩れるように座り、うなだれた。
〈不合格者は速やかに退室してください。合格者はそのまま奥へ〉
見ると奥のドアが開いていた。
「この紙は?」
あの面接室の先には薄暗い廊下があり、壁に貼られていた矢印にそって進むと、やはり似たような雰囲気の漂う小さな部屋に出た。
ただ先ほどまでの部屋とは違い、こちらは無人だ。そして机の上に一枚の紙とペンが置かれてある。紙には細かな文字がびっしりと印刷されていた。
天井から声。
〈受験者SC9027181、あなたはこの度の資格検査に仮合格いたしました。よってこれよりは試験官として、引き続き資格検査を受けることができます〉
「試験官として、引き続き検査を受ける?」
どういうことだ、意味が分からない。それに、仮合格? 何だそれは。合格ではないのか?
〈この資格検査に完全に合格するためには、試験官として、百名以上の受験者をテストしなくてはなりません。ただし、その途中で一人でも仮合格する者が出た場合、あなたの仮合格は取り消され、試験官としての地位も剥奪されます〉
最初は何を言われているのかよく分からなかったが、しばらく考えていると徐々に、俺の中に正解が浮かび上がってきた。
――そうか、そういうことだったのか。
志願者に、志願者をテストさせる。それがこの試験の正体なのだ。ゾンビの相手はゾンビにやらせる、というわけだ。楽園の連中は誰も手を汚さない。実に賢いやり方じゃないか。聖域という温室の中でぬくぬくと何不自由なく育った、おめでたいお坊ちゃまやお嬢ちゃまでは、手負いの野獣のような俺たちの相手は、確かにつとまらないだろう。だから俺たち同士をけしかけて、つぶし合わせるんだ。共食いでもして滅びてしまえばいいと、奴らはそう考えているのだ。
俺は天井をにらむ。
「……つまり、百人のテスト希望者を一人残らず蹴落とさないと、俺は合格できないってことか? そうしなければ、あの壁の向こうには行けないんだな?」
そうです、という小さな声。
〈資格検査の具体的な方法はそちらで決めていただいて構いません。ただし、その方法は妥当かつ公正なものでなければなりません。その判定は国家国土省によって行われます。なお、必要な機材等があればこちらで用意いたしますので、申請してください〉
なんてことだ。俺は呆然とする。まるで空が落ちてきたかのような絶望感。床が抜けたかのような感覚。
俺は楽園を目指していたんじゃなかったのか? だがそこは薄汚い手段によって囲われただけの、臆病者どもの巣窟でしかないのだ。暴力や非道の代わりに、同調圧力と偽善、欺瞞と虚飾とに満ちた世界。何が美しい、だ。くそったれどもめ! ビューティフルが聞いて呆れる。
〈その書類をよく読み、同意される場合は署名をし……何がおかしいのでしょう?〉
俺は天を仰いでひとしきり笑うと、目尻に浮いた涙を拭った。
「ハッ。ずっと前に読んだ小説を思い出したのさ。まるで『赤死病の仮面』だ、と思ったんだ。ポーを知っているか?」
〈……フィクションには興味がないので〉
「勿体ないな、せっかく図書館があるってのに」
〈図書館くらい、どこの地区にもあるでしょう〉
「……ないんだ。図書館も書店も。壁の外には。全部襲撃されて、燃やされた。電気もガスも悪質なくらい高くて。燃えるものは何でも燃やさないと、俺たちは冬を越せない。本なんてもう、ほとんど残っちゃいないのさ」
〈……その書類の内容に同意される場合は、署名をしてください〉
俺は机の上の紙を見つめる。
結局、俺にとっての楽園、理想的な幸福のある場所は、きっともうどこにもないのだ。つまるところこれは、一つの地獄から別の地獄に引っ越そうとしているようなもの。あの壁の向こうにも、どうせロクな社会はない。ならば、こんな戦いに何の意味がある?
このままテストを受け続けたところで、俺が合格できる見込みはほとんどない。飢えきったモンスターを相手に百連勝しろだなんて、どだい無理な話だ。それにもし万が一パスできたとしても、その先にあるのは相も変わらずの胸くそが悪くなるような世界。今までと何も違いはしない。こんなのはただの徒労だ。俺が行きたかったのは、そこじゃない。
下らない契約書など今すぐ破り捨てて、とっとといつものねぐらに引き上げるべきなのかもしれない。
しかしながら、「だが」、とも思うのだ。
絶望に打ちのめされるその一方で、それと同時に、奇妙な考えが俺の中で鎌首をもたげつつあった。
エドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』には、たとえどれほど必死に遠ざけたとしても、破滅の種はいずれ内部に入り込む、という真実が描かれている。
志願者同士をテストさせ合うというのは、なるほど確かに賢い手口だが、穴もある。奴らは合格者を受け入れなくてはならない。
百人のゾンビを蹴落としたゾンビは、“ゾンビの中のゾンビ”と言えるんじゃあないか? そんな者がもし本当に誕生したとしてだ、それを受け入れられるだけの度量が聖域の奴らにあるだろうか? 壁の内側に入り込んだ“ゾンビの中のゾンビ”が、いつまでもおとなしくしていると、連中は本当に信じているのか?
ああ、そうだ。間違いない。
誰かが赤死病の仮面を被ることになる。
どんなに高いハードルでも、いつかはそれを越える者が現れるはずだ。あるいはもう既に何人かは合格しているかもしれない。そいつらがあの壁の向こうでいったい何を巻き起こすのか。少々興味が沸いてきた。結構な見モノになりそうじゃないか。眺めてみるのも一興かも、だ。
俺はそっと腕を伸ばす。
それに、あの壁の向こうには、少なくとも本はあるのだ。こちらにはないものが、あちらになら存在する。ならば行ってみるくらいの価値はあるのかもしれない。たとえそこが夢見ていた世界ではないのだとしても。
指先がペンに触れた。
片理誠既刊
『ミスティックフロー・オンライン
第3話 百銃の女王(2)』