「鳥になりたい」高橋桐矢


(PDFバージョン:torininaritai_takahasikiriya
 トカゲが一匹、重くこわばった身体をひきずるようにして歩いていました。
「ああ、おれも死んでしまいたい」
 ときおり、苦しげなためいきをつきながら、それでもただひたすらに西へ向かいます。
 トカゲは、大事なつれあいをうしなったのでした。
 食事のときも、寝るときも、いつもずっと一緒だったつれあいを、河原で並んでひなたぼっこしていたとき、ヘビに食われてしまったのでした。
 ひとり残されたトカゲは、頭を石に打ち付け、爪が折れるほど地面をかきむしり、目がつぶれるほど泣きました。
 どれほど泣いても、つれあいと再び会うことは出来ないのだと知ったとき、その泉のうわさを聞きました。
 西の果てにあるという、その泉。
 それから眠ることも食べることも忘れて、ひたすら歩き続けてきました。
 トカゲは方角を確かめるように、鼻先を上に向けました。
 もうずいぶん遠くまで来た気がします。もしや、道を間違ってはいないでしょうか。
 すると、羽ばたきが聞こえて、小さな鳥が近くに降り立ちました。ツバメのようです。
 トカゲは、重い身体を起こし、精一杯首を伸ばして話しかけました。
「もし、ツバメさん」
 泣きすぎて、喉がつぶれてしまったので、しゃがれ声です。
「はい、なんでしょうか?」
 ツバメの声は、軽やかで透き通った風のようでした。重く疲れた身体をふわりとなでるように、心地よい声でした。
 喜びの歌だけを歌う声とは、こんな声なのだろうと思われました。
「おたずねします。西の果ての泉まで、あとどのくらいでしょうか」
 ツバメが首をかしげました。
「そうですねえ。きっともうすぐと思いますよ。西の果ての泉には、一度しか行ったことがないので、あまり覚えていないのですが」
 トカゲはハッとして、ツバメを見つめました。
 すんなりと伸びた身体に、爪のついた足、小さな頭、黒くて丸い目。
「もしかして、ツバメさん、あなたも昔はトカゲだったのですか!」
 ツバメは丸い目をまばたきしました。
「ええ、多分。よく覚えていないのです。トカゲだったころのこと。でも」
 クチバシの先で羽先を、つうっとなぞります。
「ご存じでしょう? 鳥はみんなかつて、トカゲだったのですからね。ほら、この目も足も、羽さえなければ、わたしたちはそっくりですよ」
 ツバメは、さわやかに香る夏の風のように笑いました。
 西の果ての泉に行けば、鳥になれるといううわさは本当でした。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
 トカゲは何度も頭を下げました。
「どういたしまして。あなたも、重いものを泉に捨てて、身軽になるといいですよ」
 なにげないツバメの言葉を、トカゲは聞き流すことができませんでした。
「ツバメさん」
 一瞬、ためらいましたが、たずねずにはいられませんでした。
「あなたは、泉に何を捨ててきたのですか?」
 トカゲの問いに、ツバメはすぐに答えませんでした。
 やっぱり聞いてはいけなかったのかと思ったそのとき、ツバメが晴れやかに笑いました。
「本当におかしなトカゲさん。忘却の泉に捨ててきたんですから、忘れちゃいましたよ」
 ツバメはふわりと羽を広げました。
「きっとつまらないものだったんでしょう」
 トカゲは大きく目を見開きました。
 無邪気な笑顔のツバメは、本心からそう言っているのでした。
 羽ばたきとともに、ツバメは飛び立ち、トカゲの頭上を、くるりくるりと回って、青空に飛んでいきました。
 まるで重みを感じさせないほどの、優雅さで。
 軽やかなはずです。
 ツバメはすべて捨ててきたのですから。
 だから、あんなにも身軽なのだと、今こそ、トカゲにもわかりました。
 トカゲはめまいがしました。身体が重く、地面に押しつけられるようです。
 身軽になりたかったのです。
 つれあいを亡くしたことがあまりにも悲しくて辛くて耐えがたくて、ここまでやってきたのでした。
 悲しみのかわりに、翼をさずけてくれるという泉。鳥になれる泉。知り合いのトカゲから聞いた、そのウワサだけをたよりに。
 悲しみのかわりの翼、という意味が、今初めてわかりました。
「おまえとの思い出をすべて捨てろと……」
 トカゲはよろよろとたおれこみました。
「出会ってから最後の日まで、いや、出会ったことさえ、忘れてしまうというのか」
 一気に思い出があふれてきました。
 つれあいの姿、声、小さな手、思い出すそのひとつひとつが、鋭い刃物のように、トカゲの心を切り裂きました。
 頭を打ち付け、枯れるほど泣いても、忘れることは出来ませんでした。
 トカゲは天をあおいで、慟哭しました。
「おれのせいだ!」
 ヘビは、トカゲとそのつれあいのどちらを狙っていたのでしょうか。なにかが近づいてきた気配を感じた瞬間、とっさにトカゲは逃げたのでした。彼女を置いて。
 ずっと一緒にいようと誓ったのに。
 つれあいは、ヘビに飲み込まれ、トカゲは、命拾いしました。
 なかったことにできるなら。
 悲しみのかわりに。
 つれあいの、小さな手も、丸い瞳も。
 ひなたぼっこをするときのつれあいの口ぐせが、耳元によみがえりました。
「幸せですねえ、わたしたち」
 トカゲは、苦しみのあまり、うめき声をあげました。
 どうして、鳥があんなにも軽やかに空を飛ぶのか。
 重い体をひきずって地べたをはうトカゲが、どうすれば、軽やかに空を飛ぶ鳥になれるのか。
 トカゲはようやく分かったのでした。
「おれは、鳥には……なれない」
 トカゲは、つぶやき、そのまま、気が遠くなりました。
 それから、どのくらい時間がたったのでしょうか。
 重いまぶたを開くと、いつのまにか日が暮れていました。夜露の草むらで眠っていたのでした。
 トカゲは、トカゲのままでした。なぜか、ほっとしている自分がいました。手足はこわばっていましたが、なんとか目も見えるし、歩くこともできました。
 どこからが夢だったのか、あるいは夢ではなかったのか、今となっては分かりませんが、トカゲは、鼻先を空に向けました。
 鳥になれるという、その泉。
 軽やかに空を飛び、喜びの歌だけをうたう鳥に。
 西の果てに、その泉が本当にあるとしても、もう行きたいとは思いませんでした。
 トカゲは、お日様がのぼる、東の方向に向かって歩きはじめました。
 鳥にはなれなかったので、一歩一歩、地面をはい歩きながら。
 自らの体の重みと、もうひとつの忘れられない重みをしっかりと抱いて。

終り

高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちの居場所:
イジメ・サバイバル』