(PDFバージョン:natunoowari_madokawakaname)
「ユウ君?」
歩道と溜め池を区切る防護柵にもたれ、池向こうの青山をぼんやり見上げていると、不意に名を呼ばれた。すぐ傍からだった。驚いてそちらを向くと、野球帽を被った男の子が僕の顔を覗き込んでいた。
「……ユウ君だよね?」
友達に呼びかけるような口振りだった。せいぜい小学三・四年生ぐらいの少年が、そろそろ三十路に差し掛かる僕へ向けるには、いささか不適当な呼びかけに思えた。
――馬鹿にされているのだろうか。
僕には息子も娘もいないし、甥や姪もなかった。子供の知り合いなどいない筈だった。小学生から「君」を付けて呼ばれる心辺りなど、まるでない。
――僕が無職だからか。
――鬱になり、職を失い、実家に連れ戻された負け犬だからか。
そんな卑屈な考えが頭を支配しかけて、しかし僕はある疑問に気付いた。少年が呼んでいる名前は、確かに僕のものだったのだ。
片側一車線の道路には行き交う人も車もなかった。すぐそこには児童公園がある。四〇〇メートル東へ進むと、役場と小学校がある。同じだけ西に進むと町唯一のスーパーマーケットがある。それらの間には水田があり、民家がある。ここはこの町の中心部といって差し支えない筈だったが、僕たちは二人きりだった。
帽子のつばが濃い影を落とす少年の顔に、僕は改めて目を凝らした。そうしてよく見れば、確かにその顔には見覚えがあった。胸の奥がきゅっと締め付けられ、気付けば僕は懐かしい名を口にしていた。
「……ケンちゃん?」
口を突いて出た僕の言葉に、少年はぱっと表情を明るくした。
「やっぱりユウ君だ! 久しぶり!」
屈託のない笑顔を見せる少年に、僕はもごもごと相槌を打った。
実家に帰るのが嫌だったのは、昔の知り合いに出くわす恐れがあったからだ。今まさに、僕は危惧した通りの状況にあった。ケンちゃんは、僕が小学三年生の頃――つまり二十年も前の同級生だった。
共に生活を送ることで子供達の心身に健やかな成長を促す――そんなお題目の下、児童向け情操教育用ロボットが全国各地で導入され始めたのは、今からちょうど二十年前のことだった。
「ねえユウ君!」
まるで二十年間の空白などなかったかのように、当時と同じ調子で、当時と同じ姿で、彼は僕の名を呼んでいた。寂れきった町並みもまた二十年前からさして変わっておらず、僕を余計に困惑させた。
ケンちゃんはきらきらした笑顔で僕に迫った。
「児童公園行こう! ザリガニ釣りしよう!」
その手はすぐ傍の児童公園を指し示していた。
小さな児童公園は記憶の中よりも一層寂れていた。中央に位置する噴水はもう停止して久しいらしく、がらんとした空間はただ光に満ちていた。人影はなかった。
幸い、園内の端を通る水路は依然として水を湛えていた。水質は濁っており、見通せなかったが、そこには小さな生物たちの気配があった。ケンちゃんは水路の傍に座り込み、釣り竿を作成し始めた。釣り竿とはいっても、手頃な枝の先に凧糸を結わえるだけの簡単なものだ。僕は所在なく立ったまま、その作業を見下ろしていた。人影がないのはありがたかった。勢いに押されて付いて来てしまったが、変質者扱いされるのは御免だった。
「はい、ユウ君の!」
ケンちゃんは二つ作った釣り竿の一つを僕に向けて掲げた。僕は居心地の悪さを感じつつも身を屈め、しぶしぶ受け取って隣にしゃがみ込んだ。
「……餌は。どうすんの」
ぷらぷらと揺れる凧糸の先を見て、僕はそう言った。
「これ」
ケンちゃんはポケットから駄菓子の小袋を取り出した。スルメだった。彼はその中から一本だけを取り出すと、残りを小袋ごと僕に寄越した。僕は相変わらず流されるまま、断ることもできずにそれを受け取り、スルメを一本取り出し、残りを返そうとした。しかし、ケンちゃんは首を横に振った。
「残りはユウ君が食べていいよ」彼はそう言って笑った。「トシちゃんもいないしね」
トシちゃん――懐かしい響きだった。それは小・中学校当時の同級生の名前だった。恰幅がよく、食いしん坊な少年だった。ケンちゃんや他の子も交え、昔はよく遊んだものだ。余ったスルメは、決まっていつも彼が食べ尽くしていた。今はどこで何をしているのだろう。たぶん高校一年生の夏以来、顔を合わせていなかった。
スルメを適当な長さにちぎって凧糸に結わえ、僕たちはそれぞれに水路へ糸を垂らした。淀んだ土色の水は僕の人生のようだった。後ろ向きなイメージばかりが浮かんだ。いい歳して何をやっているんだろうか、と僕は自嘲的な気分になった。早く適当なところで切り上げるべきだった。
「ユウ君久しぶりだよね。ユウ君たちが中学生になってからは、あんまり遊ぶことなかったもんね」
親しげに話しかけられては無視するのも躊躇われた。
「まあ……。ケンちゃんはずっと三年生だったしね」
ロボットは歳を取らない。彼は永遠の小学三年生として、毎年違う子供たちと机を並べ続けた。彼の住まいは役場だった。毎朝ランドセルを背負い、隣にある小学校へ通った。放課後には普通の――人間の子供たちと遊び回った。門限になると役場へ帰った。情操教育を目的として造られた彼の役目は、「模範的な小学三年生」として地域に馴染むことだった。僕も小学六年生までは、しばしば彼や、その同級生と一緒に遊んでいた。しかし、中学へ進んでからは自然と疎遠になっていった。
「……ケンちゃんさ、よく俺だって分かったよね」
「分かるよ。だって友達だもん」
僕ははっとしてケンちゃんの横顔を見つめた。唐突に、自分たちがケンちゃんを置き去りにしてしまったかのように思われ、罪の意識に囚われたのだ。
「ケンちゃんは……今日は独りなの?」
ロボットに親兄弟はない。夏休みを共に過ごす存在は、友達の他にない筈だった。しかし、今この児童公園に――いやこの辺り一帯に、僕以外の人間などいそうにもなかった。
「うん」肯定する声はひどく寂しげに聞こえた。「最近はみんな、あんまり僕と遊んでくれないんだ」
「みんなって、同級生とか?」
「うん。ロボットなんて今時珍しくもないし、僕と遊んでもあんまり面白くないからね」
ケンちゃんの役目は、「模範的な小学三年生」であることだった。その模範がどのような人々によって規定されるかを考えれば、彼の言葉の意味は痛いほど伝わってきた。導入当初――僕たちと遊んでいた頃でさえ、彼の行動には制約が多かった。してはいけない行動が幾つも規定され、人格ソフトウェアによって禁止されていたのだ。人間で例えるなら、洗脳というしかない。それらの制約は、子供心に「面白くないこと」ばかりだった。制約が厳しくなることはあっても、緩まることはなかった。きっとその後も二十年間、彼はエスカレートし続ける「模範的な小学三年生」像を押しつけられた筈だ。そうして、年を経るごとに出来ない遊びが増え、友達が減っていった。
「それにね。もうお別れ会も済ませたから」
「……お別れ会?」
「うん。僕もう今月いっぱいでみんなとお別れなんだ。だから登校日の日に、小学校のみんなとお別れ会したんだよ」
言葉を失う僕に、ケンちゃんは儚げな微笑みを向けた。
「でも他のみんなにはご挨拶できなかったから……ユウ君に会えて良かった!」
彼のいうお別れが解体――人間でいう「死」であることは容易に推察できた。
かつてロボットは永遠の命を持つ存在だと誤解されていた。実際には、その寿命は人間に比べてひどく短かった。ファームウェアのアップデートも、劣化した部品の交換も、企業が提供するサービスに過ぎない。この世のリソースが有限である以上、いつかはサポートが打ち切られ、解体されて再資源化される運命にあるのだった。
ケンちゃんは二十年も前のロボットだ。技術革新の著しい昨今、寿命が訪れるのも無理はなかった。
「あっ釣れたっ」
ケンちゃんが声を上げた。そっと引き揚げられた糸の先には、真っ赤なザリガニがぶら下がっていた。ぴちぴちと身を捩らせながら、大きな鋏で力強くスルメを掴んでいた。ケンちゃんは歯を見せて笑った。こうして誰かと一緒にザリガニ釣りをするのは、彼にとっていつ以来のことなのだろう。もうこの夏でお別れだというのに、一緒に遊ぶ友人はいないのだろうか。
僕は居たたまれなくなり、自分の竿に意識を戻した。気を紛らわすようにザリガニ釣りに没頭した。少しずつポイントを変え、見えない獲物の気配を探った。
「おっ」
しばらくすると手応えを感じた。僕はそろそろと竿を引き揚げた。
「うわ、おっきい! すごいよユウ君!」ケンちゃんが歓声を上げた。
僕が釣り上げたザリガニは、ちょっと見かけないぐらいの大物だった。ケンちゃんは我がことのように喜び、自分の竿を放りだして小さく拍手までしてくれた。
「良かったねユウ君。やっぱりユウ君は上手だね」
「……ありがとう」
僕は気恥ずかしくなって目を逸らした。逸らした視線の先で、放り出されたケンちゃんの竿が目を引いた。水路の方へ向けて、するすると動いていた。
「……ケンちゃんそれ、竿引っ張られてない?」
「うそ!」
僕の指摘にケンちゃんは慌て、しかし慎重な手つきで竿を引き揚げた。負けず劣らずの大物がかかっていた。
「やった! 僕のも大物だよ!」
「でけえなあ。ケンちゃんの勝ちだよ」
「もっとたくさん釣ろう!」
僕は頷きながら、自分の頬がいつの間にやら綻んでいることに気付いた。
今日一日ぐらいは付き合っても良いかも知れない、と僕は思った。
明け方まで物思いに耽っていたせいか、目を覚ますと正午を回っていた。約束した訳でもないのに勝手に慌てて、僕は小走りで児童公園に向かった。青々とした雑草だらけの園内の奥、水路に向かう形で、小さな背中がしゃがみ込んでいた。
「よ」
「ユウ君!」
ケンちゃんは蛙のような機敏さで跳ねるように振り返った。
「僕さっきこんなでっかいの釣ったよ! 昨日のよりおっきかったよ!」
両手の人差し指を立ててサイズを示すジェスチャーは定量的で知性を感じさせるが、はしゃぎっぷりは微笑ましかった。
「嘘吐け。そんなにでかいわけねえだろ」
「本当だよ! 僕嘘吐けないもん!」
ケンちゃんにとっては何気ない言葉だったのかも知れないが、僕は冷え冷えとした心地になった。嘘が吐けないというのは比喩でも誇張でもなく、ソフトウェアの要請により嘘を禁じられているからだった。模範的な小学三年生は嘘など吐く筈がないのだ。
「じゃあ俺はその三倍ぐらいのやつを釣ってやろう」
「なにそれロブスター!?」
僕たちは並んで腰掛け、ひたすらにザリガニを釣り続けた。一匹釣れるごとに大袈裟なほどはしゃぎ合った。ケンちゃんは昨日よりもずっと楽しげに見えた……いや、それは僕の方だったかも知れない。
気がつけば日も暮れかかり、町内放送用のスピーカーからドヴォルザークの「家路」が聞こえてきた。僕たちはどちらからともなく立ち上がった。
「ユウ君、今日も来てくれてありがとう」
ケンちゃんは屈託なく笑っていた。
「……明日も遊ぶか」
「本当!?」
「でも別の遊びにしよう」さすがにザリガニ釣りは飽きてきた。「何かしたいことあるか?」
ケンちゃんは間髪いれずに左手を掲げ、指先で自らの意志を示した。
「ぼく山登りたい!」
汗みずくの体に吹き付ける夕方の風が、急に肌寒く感じた。
「……山か」
ケンちゃんの指し示す青山の頂上を見上げ、僕は呟いた。
「みんなでよく登ったよね! 頂上の近くにあった『秘密の場所』覚えてる!?」
「……ああ。あったな。『お墓』な」
児童公園の傍にはちいさな山があり、簡素だが遊歩道も整備されていた。僕たちがかつて「秘密の場所」「お墓」と呼んでいたのは、山頂手前で遊歩道から外れた藪の先にある、開けた場所のことだった。その場所を知っているのが果たして僕たちだけであったかは怪しいが、「お墓」と呼んでいたのは間違いなく僕たちだけだった。その空間には、別に墓石がある訳ではない。ただ唐突に、山からせり出すような形で開けた場所があり、円状にコンクリートが敷かれているばかりだ。大人の知識で考えれば、それは何かの遺構なのだろう。存在を忘れられ、語り継ぐ者もなく、自然と道も消失した。それだけだ。だがそんな知識のなかった僕たちにとってはミステリーだった。展望台と考えるには狭すぎた。遺構という発想がなかった。だから逆の観点で、何か秘密の建設予定地だったのではないかと結論したのだ。誰かが言い出した。「こんな狭いところに建てられるものなんて、お墓ぐらいしかないよ」。ミステリーの答えとして、それは魅力的だった。だからそこは、僕たちにとっては「お墓」だった。僕たちだけの、秘密の思い出だった。
僕は大きく息を吐いた。
「山はまた今度にしようぜ。俺もうおっさんだしさ、ずっとデスクワークだったから体が鈍ってんだよ」
「おっさん?」ケンちゃんは何故だか嬉しそうだった。「ヒゲ生えてるもんね」
「うるせえ。……まあいいや、明日もとりあえずここに集まろう。俺が何か考えてくるよ」
子供の頃のことを思い出した。何をするかも決めず、とりあえずみんなで集まった。何をしようかと話し合うだけで、一日が過ぎ去ることもあった。でも何故だか、それだけでも楽しかったのだ。もはや子供でなくなった僕には、そんなことはできないだろう。
僕たちは児童公園の前で別れ、また明日、と言葉を交わした。
道具一式を携えた僕を見て、ケンちゃんはきょとんとして首を傾げた。
「それでザリガニ釣るの?」
「そんな訳ないだろ……」
僕が用意したのは、竿にリールにルアー……倉庫に眠っていた釣り道具一式だった。
「今日はバス釣りをしよう」
僕の言葉に、ケンちゃんは目を輝かせた。
「バス釣り? 僕したことない!」
それはそうだろう、と僕は内心でほくそ笑んだ。
どうやるの、と興味津々なケンちゃんに、僕はルアーを取り出して見せた。「く」の字型の針金に、ひらひらした金属のプレートと、毛が生えた魚の人形、そして針が付いている。スピナーベイトと呼ばれるものだ。
「これで魚が釣れる。おもちゃみたいだけどブラックバスには小魚の群れに見えるらしい。バスはすぐそこの溜め池にもいる筈だ」
説明を聞いたケンちゃんは俄に悲しげな顔をした。
「ごめんね、それ僕できそうにない……。溜め池は危ないから子供だけで遊んじゃいけないし、針は刺さるから大人の人がいないと」
その通りだろう、模範的な小学三年生は友達と二人で溜め池になど行かないし、釣り針なんて危ないものも使わない。ケンちゃんの反応はあまりに予想通りのもので、僕は笑いを堪えられなかった。
「アホかお前は」
ケンちゃんは不思議そうに僕を見つめた。
「……俺が大人だろ」
ケンちゃんは本気で驚いたらしく、ハッと音がするほど息を呑み、弾けるように叫んだ。
「そっか! 大人がいるから大丈夫なんだ! ユウ君おっさんだ!」
「うるせえアホ」
もし誰かに見られていたら、傍目には異様な光景だっただろう。だが僕はもはや気にしなかった。僕には気にするべきものなどなかった。自分の考えがまんまと図に当たったのが誇らしかった。バス釣りは僕たちが中学生になってから始めた遊びだった。ケンちゃんとは一緒にできない筈の遊びだった。だが、今の僕たちにはそれができるのだ。僕にはもはや、彼を「模範的小学三年生」の呪いから解放するすべが備わっているのだった。
僕たちは日が暮れるまで釣り竿を振り回した。溜め池にはやはりバスが生息しており、面白いほどによく釣れた。ケンちゃんが釣り上げた一番の大物は全長五十センチ近くあり、釣り上げるのに網で掬う必要があった。
全てが楽しかった。全てが上手くいきそうに思えた。僕はかつて失って久しい、無根拠な自己肯定感とささやかな全能感を手に入れていた。
だから帰り際、釣り道具を片付けながら僕はこんなことを切り出したのだ。
「ケンちゃん、俺と一緒に暮らさないか」
言葉の意味が分からないのか、彼は呆然とこちらを見つめていた。
「お別れする必要なんかないんだ。昨日帰ってから、ケンちゃんと同型のロボットについて調べたんだよ。メーカーのサポートはまだ終了してなかった。終わるのはサポートじゃなくて、小学校への情操教育用ロボット導入の制度なんだ」
このことに気付いたとき、僕は小躍りしたいほど嬉しくなった。
「つまりさ、ケンちゃんは人間に例えるなら、仕事がなくなるだけなんだよ」
ケンちゃんは戸惑った様子でぼそぼそと呟いた。
「でもお仕事がなかったら生きていけないよ」
「大丈夫」僕の声は震えていた。「普通の子供はさ、家族と一緒に暮らすだろ。誰かと一緒に暮らせばいいんだ。ケンちゃんには俺がいる。俺と暮らせばいい。今時ロボットを一体養うなんて、そう贅沢なことでもないんだ」
ケンちゃんは無表情だった。
「……どうした?」
背中を冷たい汗が伝った。
「ごめんね」乾いた声には感情がこもっていなかった。「それは無理みたい」
「……なんでっ!?」
僕は縋り付くようにケンちゃんの両肩を掴んだ。
「僕の記憶には、みんなの個人情報が含まれてるから……外部に流出するわけにはいかないから、絶対に消さないといけないんだって」
脳内のマニュアルを確認して喋るような、喋らされているような、伝聞調の言い回しに鳥肌が立った。彼の中――人格ソフトウェアに潜む顔のない支配者が、悪意を持った確固たる存在であるかのように感じられた。
「ごめんねユウ君、ありがとう」
これほど無感情なお礼の言葉は初めて聞いた。それは、人格ソフトウェアが感情の発露を厳しく抑制したことを意味していた。
「僕、こんな時でも、泣いちゃ駄目なんだって」
そういえば、僕はケンちゃんが泣くところを一度も見たことがない。当然だろう。模範的な小学三年生が、泣いて周囲を困らすことなどあってはならないのだから。
僕たちはその後、別れについてはお互い一切触れずに過ごした。残された夏休みを謳歌するには、それがもっとも正しい手段だと思えたからだ。
八月三十一日――夏休み最後の日がやって来た。
ケンちゃんと顔を合わせるなり、僕はこう提案した。
「今日は、山へ行こうか」
ケンちゃんは何事か考え込むように一瞬だけ沈黙していたが、すぐに屈託なく頷いてくれた。
この山の名前を僕は知らない。ただ子供の頃から、「山」とだけいえばこの場所のことを指していた。山の向こう側は海になっており、山頂からの眺めは絶景だった。他の子供や大人たちは、みな山頂を目指して歩を進める。僕たちだけは山頂ではなく、「秘密の場所」――「お墓」を目的地として、山を登っていた。
子供の頃は必ず四・五人連なって登った山だが、今日は僕たち二人だけだ。すれ違う人もなかった。僕たちは途中幾つかある休憩所では必ず腰を下ろし、何か見つければ必ず話題にし、最後の一日を精一杯楽しもうとした。
二十年経った今でも、僕の脳内には秘密の地図がしっかりと刻まれていた。僕たちは山頂近くのある地点で遊歩道を外れ、藪の中へと侵入していった。邪魔な枝葉を掻き分け、しばらく進むと唐突に視界が開けた。
金色の海が眼下に広がり、僕たちは思わず息を呑んだ。
「ちょうどいい時間に着いたね、ユウ君」
「……ああ」
夕映えの海は最期を飾るに相応しい情景に思えた。
僕たちは「お墓」のコンクリート塊の上に並んで腰を下ろした。
「ありがとう、ユウ君」
僕は海を見つめたままで訊ねた。
「何が」
「最後にユウ君が遊んでくれて、僕嬉しかったよ」
苦笑するほかなかった。礼を言うべきなのは、僕の方だったからだ。
「こっちこそありがとな。……楽しかったよ」
「無事に最後まで、不審者として通報されなかったし、よかったよね」
「アホか」
「結局ヒゲ剃らなかったね」
「うるせえ」
ケンちゃんはくすくすと楽しげに笑った。
「ユウ君いつもそれ」
「あん?」
「昔から口癖だよね」
「『アホか』、『うるせえ』?」
「そうそれ」
改めて思えば、確かに子供の頃は口が悪かった気がする。だが、こんな言い草をしたことなど、ケンちゃんと再会するまでは久しくなかったように思えた……思えば「俺」という一人称も、めっきり使わなくなっていた。
「みんながそういう言葉使ってるの、僕羨ましかったな」
そうだろう。彼はどれだけ親しい友人が相手でも、罵倒語や乱暴な言葉は一切使えないのだ。何故なら彼は模範的な……僕は考えるのを止めた。
夕日が沈み、八月三十一日が終わり、夏が終わろうとしていた。
「なあ、ユウ君」
呆けたように海を見つめる僕の奥から、激しい感情が湧き上がってきた。
「なに?」
「俺さ、夏が終わったら――――」
――死のうと思ってたんだ。
続くはずの言葉は声にならず、僕は酸欠に陥った金魚のように喘いだ。金色に揺れる海面がにじみ、ただきらきらした光の玉の他に何も見えなくなっていった。
社会に疲れ、仕事にもいけなくなり、僕の全てが駄目になった「あの街」。先日まで住んでいた「あの街」には、僕が死ぬ場所などなかった。住処だったアパートは借り物で、死ぬには不適当に思えた。何年住んでも僕はよそ者で、街には死に場所などないように思えた。樹海や崖など名所を探そうかとも思ったが、どこであれそれは僕のための場所ではなかった。
そんなある日、楽しかった少年時代のことを、まだ僕が小学生だった頃のことを、不意に思い出したのだ。
――この「秘密の場所」には、いつか誰かのお墓が建つんだ。
僕はそのとき、本当に久しぶりに安心できた。理解したのだ。
――嗚呼、それは、僕のお墓だったのだ、と。
そう気付いたとき、久しぶりに笑うことができた。良かった、僕にはちゃんと、死ぬべき場所があったのだ、と。鏡に映った笑顔を見て泣いた。うれし泣きだったと思う。
なのに、その筈なのに。
ずっと頭の中にあった考えは、何故だか言葉にならなかった。代わりに涙がぼろぼろこぼれた。それどころか思いは形を変え、別の言葉となって溢れ出そうとしていた。
「ケンちゃん、俺さぁ」
みっともない、どうしてこうまで声が震えるんだ。
「うん」
彼の声音は静かで、懐かしく、温かかった。
「俺、夏が終わったらさぁ」
もう僕は大人ではないのか。何故これほど泣き崩れているのか。
「うん」
しばらくの沈黙の後、絞り出すような声が響いた。
「また、仕事を探すよ」
全てが決壊した。これほど声を上げて泣いたのは生まれて初めてだった。
「頑張ってね」彼は僕の肩にそっと触れた。「僕、応援ぐらいしかできないけど」
「俺さ、俺さあ、また笑って、生きていけるかな」
「大丈夫だよ」彼の声は確信に満ちていた。「だって、ユウ君は――楽しいこと、いっぱい知ってるもの!」
ごめんよ、ごめん。君は泣くことすらできないのに。君は嘆くことすらできないのに。君はただ温かくあることしかできないのに。君は素敵な思い出にしかなれないのに。何故なら君は、理想化された僕たちの少年時代だからだ。
「ケンちゃん、俺、頑張ってさ……生きてみるよ」
どうにかそれだけを言葉にした。
下山した僕たちは児童公園の前で向かい合った。これが本当に最後だった。
「ユウ君、今までありがとう」
最後の最後でも、彼は笑っていた。僕たちは抱き合ったりはしなかった。握手を交わしたりもしなかった。ただお互いに短い言葉だけを交わした。
「俺の方こそ、礼を言うよ……ありがとう、ケンちゃん」
「ううん。最後に僕と遊んでくれる人がいてくれて、本当に嬉しかった!」
ケンちゃんは背を向けた。
「じゃあね! ユウ君!」
彼は走り出した。振り返ることはなかった。僕もまた踵を返し、彼と逆の方向へと走り出した。走り出すとまた涙がにじんできた。子供の頃にすら、こんなに泣いたことはなかったのに。
夏が終わろうとしていた。夏が終われば、秋が来る。その秋にも、僕は生きているだろう。秋が終われば、その先が来る。秋のその先でも、僕は生きているだろう。それは、ロボットではなく、もはや子供ですらなくなってしまった僕だからこそ、できることだった。