「春の光の遅ければ」青木 和

(PDFバージョン:harunohikarino_aokikazu
 筧の水の出が悪い。何か詰まっているかもしれない。様子を見てきてくれと女房のツタが言うので、仁吉は水を引き込んでいるもとの川まで、筧をたどって裏の山を登った。家の前で倅の太郎が遊んでいたので、声をかけて連れてきた。
 川まではほんの少しの距離だったが、かんじきには湿った重たい雪がこってりとまといついてきて、仁吉はすぐに歩くのに難儀するようになった。
 子供を連れてきたのは失敗だったかと後ろを振り返ると、太郎は、藁の雪靴しか履いていないというのに、まるで雪に足を取られることなどないかのようにさくさくと歩を進めていた。
 立ち止まってもたもたとかんじきの雪をはたき落としている父親を、五歳の小さな体が軽々と追い抜いていく。まとった蓑が大きすぎて、足の先しかのぞいていない。まるで蓑虫が歩いているようだ。
「お父う、遅せえぞう」
 蓑虫は、幼い声で生意気を言う。
「あんま先さき行くなよ。あぶねえぞ」
 どんどん遠くなっていく蓑虫の背中に声をかけると、
「こんなくらい平気だい」
 いちにんまえの返事が返ってきた。
 仁吉は苦笑いをして小さな背中を見送る。前の冬、太郎はまだ家の中で歩いてさえころころとよく転んだ。それが今は軽々と急な山道を登っている。足が達者になったものだ。子供というのはたった一年でこれほど成長するものか。
 それともここが雪道だからだろうか。
 去年の冬、太郎が雪の上でどんなだったかを思い出そうとして、仁吉は、昨年の冬はふもとの里にいて、この山の家にはいなかったことを思い出した。
 山の家は、東と西から峰はさまれた深い谷の底にある。仁吉はふもとの里での野良仕事のかたわら、夏になるとここにやってきて山仕事をしてなりわいの足しにしていた。
 冬にこの谷で過ごしたのは初めてだったが、思っていた以上に暮らしは厳しかった。なにせ高い山に挟まれているので日の差す時間が少ない。それでいて雪はよく積もる。風の弱いのがせめてもだったが、おそろしく寒い。仁吉もツタもたくさんのしもやけを手足にこしらえることになった。
 それでも、この冬はここで過ごさなくてはならなかったのだ。
 息を切らしながらようよう川べりまでのぼっていくと、太郎はとっくに着いていて、筧をのぞき込んでいた。冷たい水をものともせず、取水口に手を突っ込んで中をほじっている。
「どうだ?」
 仁吉が声をかけると、太郎は得意げにひとつかみの落ち葉をかかげてみせた。水の取り入れ口にはごみよけの網がかけてあるはずだが、どうなったのか。
「なるほど。こんなもんが詰まってちゃいけねえな」
 仁吉は太郎の手から落ち葉を受け取ろうと手をのばした。塊が触れた瞬間、手に刺されたような鋭い痛みが走る。川の水に浸った落ち葉は凍りついていた。思ってもいなかった冷たさに、仁吉は思わず手を離した。凍った落ち葉はぼとりと音を立てて、足下の雪に沈んだ。
 仁吉はみるみる真っ赤になっていくおのれの掌をこすり合わせながら、息子の手に目をやった。
 仁吉が近づいていく間、かなり長い間氷の塊を手にしていたはずなのに、ぷっくりとやわらかそうな太郎の手は赤みがかってさえいない。
 父親が固まったまま自分を見つめているのに気がついたのか、太郎は居心地が悪そうに首をすくめ、
「お父う?」
 とつぶやいた。丸い黒い目がじっと見上げている。仁吉はふと我に返った。
「ありがとよ。あとはお父うがやる。おめえはそっちで遊んでな」
 仁吉はうろたえた心を隠すように、ぶっきらぼうに太郎を押しのけると、筧に腕を突っ込んだ。
 水はやはり身を切るように冷たかった。太郎の真っ白な手がいやでも頭に浮かぶ。仁吉はそれを無理やりに追い出し作業に没頭した。
 落ち葉を取り除き、はずれて沈んでいた網を元通りにし終わると、水はまた勢いよく筧に吸い込まれ始めた。
 濡れて痺れた手を手ぬぐいで拭きながら立ち上がり、仁吉は太郎を探した。
 太郎は少し離れたところでしゃがみこんでいた。足下の雪に小さな裂け目ができており、それをめずらしげにのぞき込んでいる。
「お父う、これ何だ?」
 太郎が見つめていたのは、白い花をつけた小さな草花だった。きらきら光る雪の結晶をいちめんにまとって、あざやかな緑の葉が顔をのぞかせている。雪の白と枯れ色一色の景色の中で、そこだけ春の光が空から落ちてきたようにみずみずしく輝いて見えた。
「ああ、これァ雪割草だ──」
 こいつが顔をのぞかせたら、もうじき春だぞ。
 そう続けようとして、言葉を呑み込んだ。
 谷間の春は遅い。これまでの年ならば待ちに待った季節のおとずれに心が浮き立ったに違いなかった。が、仁吉はどんよりとした、重苦しい塊を胸の奥に感じた。
 この春はいつもの春ではない。
 春が来たら──。
 背筋に冷たい震えが走った。仁吉はかんじきのままの足を上げ、雪をならして乱暴に雪割草を埋めた。
「なんで埋めちまうの?」
 太郎の声には、いささかの不満と非難がこもっている。
 仁吉は答えず、かわりに息子を引き寄せてその頭を掌で撫でた。
 息子にそんなふうに触れるのを、仁吉はずっと避けてきた。太郎がいぶかしそうに見上げてくるのが分かる。仁吉は目を合わせないまま、手だけ動かした。
 しゃくしゃくと掌が冷たく湿る。この手触りにはいつまでたっても慣れない。

 仁吉とツタが一緒になってから、もう十年になる。夫婦仲はけっして悪くなかったつもりだが、どうしたわけか二人には長い間子ができなかった。五年前にようやく太郎が生まれたが、そのあとも続かなかった。太郎は二人のたった一人の子供だった。
 産湯から上げたばかりの赤ん坊を産婆から手渡されたときのことは五年たった今でもよく覚えている。おっかなびっくりで抱いた息子はまだ真っ赤で、熾き火のように温かった。片腕に収まりそうな体の中で、脈がことことと速く、力強く打っていた。
 太郎の体に耳をよせたのは、その脈の音を聞こうとしたからだ。けっして頬ずりしようとしたわけではない。なのにツタは、ずっとのちまでその時の仁吉がどれだけとろけそうな顔をしていたか、何度も持ち出しては笑った。自分は難産で気を失いそうになっていたくせに、そんなことだけ変なふうに覚えているのだ。
 普通の赤ん坊より小さく産まれた太郎は、育っても同じ年頃の子供より小さいままだったが、元気は人一倍あった。
 肌は餅のように柔らかく白くなったが、いつも走り回っているので頬だけがいつも赤らんでいた。黒いきらきらした目で何かを一心に見つめては、つたない言葉で父や母に新しい発見を語った。田んぼの虫だのそのへんの草だの、ありきたりのものについてばかりだったが、幼い太郎にとってはこの世の何もかもが面白かったのだろう。
 心ひかれるものを追い回して一日を過ごし、日が落ちると囲炉裏の端で、母親の膝枕で眠りに落ちる。炎に照らされた長いまつげがぴくぴく震える下で、一体どんな夢を見ているのだろうと、仁吉とツタはよく語り合ったものだった。
 仁吉もツタも、太郎が可愛かった。命にかえてもかまわない──そんな言い回しを知ってはいたが、太郎を前にして初めてその意味が本当に分かったような気がした。
 太郎を初めてこの山の谷間の家に連れてきたのは昨年の夏のことだ。筧のようにふもとの里では見られないものがここにはいっぱいある。太郎が喜ぶに違いないと、ツタと相談して仁吉が決めた。太郎は小さくても丈夫な子ではあったし、何も心配はないと思ったのだ。
 だが、二人とも思い違いをしていた。太郎は病気になったりはしなかった。
 太郎の命を呑み込んだのは、山のお社の裏の崖だった。
 仁吉とツタの宝物は、信じられないほどあっけなく二人の元から去ってしまった。
 太郎を失ってからのツタは、はたで見ていられないほど荒れた。倒れるのではないかと心配になるほどがむしゃらに働いていたかと思うと、突然うずくまって泣き出したり、そうかと思うとひどくうつろな笑い顔を見せた。仁吉のために飯は作るが自分では食べず、見る間に痩せ衰えた。
 やはり女親の愛情の深さは、男親のそれでは及びもつかないものなのだろうか。
 このままではツタも死ぬ。男の自分がしっかりせねば。
 そんなふうに仁吉は思った。だがおそらく仁吉自身も、ツタとは違う形で壊れかかっていたのだろう。
 仁吉は山のお社に足を運んだ。
 お社にまつられているのは山と谷を守る神とだけ伝えられており、名のある神様ではない。
 ただ、山に入るものだけにひっそりと語り継がれている言い伝えがあった。この神に願をかければたった一つ望みのものを与えてくれるのだと。
 仁吉は、谷で死んだ息子を帰してくれと祈った。あまりにも幼く、あまりにも突然にいってしまった息子にもう一度合わせてくれと願った。
 その願が叶うと本当に信じていたのかどうか、仁吉自身にも分からない。それでもこの冬──積もった雪が根雪に変わるころ、太郎は帰ってきた。
 氷水に腕を浸しても凍えもしない。触れると手が冷たく濡れる──そんな体を持って。戻ってきた太郎は雪でできていた。

 沢で雪割草を見つけたことを、仁吉はツタに話さなかった。
 とはいえ、黙っていれば冬のままであり続けるはずもなかった。深く谷をおおっていた雪雲はいつの間にか消え、青い空に鳥がつがいで姿を現すようになった。まだ時間は短いものの、日の光があきらかに谷底まで届くようになった。
 日が当たると、軒のつららがみるみる痩せてきた。先端からぽたぽたと雫を落として細りはじめ、やがて小さなものから切れて落ちた。
「じき春だね。……ねえ」
 ある夜突然、囲炉裏にかけた鍋をかき混ぜながらツタがぼそりと口にした。
「あの子……」
 言いかけて途中でやめる。鍋の中はぶくぶくと小さな泡が立っているが、火が弱いのでなかなか煮立たない。炎の影がツタの青ざめた頬の上で、その胸のうちを表すように揺れた。
「う──」
 仁吉は、返事とも何ともつかないうなり声を返す。
 太郎が戻ってきた当初、ツタはいぶかり驚きながらもたいそう喜んだ。だが、太郎の命が春までの限りであると分かると、それはさらなる嘆きに変わった。
 その気持ちは仁吉も同じだった。息子との別れを二度までも味わわなくてはならないのか。願をかけたのは、そんなことのためではなかったのに。
 こんなつらい思いをさせるくらいなら、なぜ帰して寄こしたのだ──と、お社の神を恨みさえもした。
 しばらくの間、二人で涙に暮れて過ごした。だが、太郎の前でいつまでも泣き顔はしていられなかった。たとえ雪でこしらえられていても、太郎は太郎だ。
 仁吉は覚悟を決めた。涙も恨みも忘れようとした。これまでどおり笑って暮らすのだ。だが、ともに過ごす時間が長くなるにつれ心が揺らいだ。
 二度と春が来なければいいと思った。いつまでも太郎を手元においておきたいという思いが日ごとに膨らんでくるのを抑えきれなかった。
 雪深く春の遅い谷間の家に来たのも、寒さに耐えてできるだけ火を焚かずに暮らしてきたのも、すべて太郎の命を長引かせるためだった。
 だが、時をとどめることはできない。
 そうやっていくつかの夜を過ごしたある晩、とつぜん太郎の声が沈黙を破った。
 囲炉裏から離し隣の間で寝かせていた太郎が泣いていた。押し殺したような静かな声だったが、黙りこくっていた二人の耳に届くには十分な大きさだった。
「太郎?」
 二人でそっとのぞくと、太郎は布団の上に体を起こし、ひくひくと泣いていた。布団がしっとりと濡れているのが遠目にも見えた。
「泣くな、寝小便くれえで」
 あきらかにほっとした声になって、ツタが太郎を抱き上げる。太郎は小さな手を精一杯に広げ、ツタの着物にしがみついた。
「お父う、お母あ、どこにいたんだよう」
 太郎は小さな手を精一杯に広げ、ツタの着物にしがみついた。
「痛かったよう。寒かったよう。なんで来てくんなかったんだよう」
 仁吉とツタは顔を見合わせた。
 太郎が死んだときのことを覚えているとは思わなかった。戻ってきてからの太郎に、そんな様子はまったく見えなかった。
 それとも、夢で思い出したのだろうか。仁吉はふと思いついて、太郎の濡れた布団に鼻を寄せてみた。小便のにおいはしなかった。ただひんやりと冷たい水のにおいがした。この冷たさが夢を誘ったのかもしれない。
 だが、この水は……。
 顔を上げてツタを見る。
 太郎をなだめていたツタの顔が、笑みを貼りつけたままこわばっていた。太郎に触れている袖が、じわりじわりと濡れていく。ツタの骨張った腕の中で、太郎の体が奇妙な具合にへしゃげていた。

「お母あ、おはなし……」
 囲炉裏の火が赤々と燃えている。ツタの膝まくらで横になった太郎が、目をこすりながら眠たげな声でねだる。
「ん。つぎは何がいい?」
「宝探しのはなしがいい」
「ようし、よう聞けよ。むかしむかしのことじゃった。あるところにじさまとばさまがおってな……」
 太郎はふんわりと小さなあくびをし、目を閉じてツタの腕にもたれかかる。ツタは低い声で、もう何度目になるか分からない太郎のお気に入りのおとぎ話を囁いている。
 眠りに落ちそうで落ちない、太郎の安らかな表情は満ち足りて、不安なことなど何もないかのようだ。
 仁吉はそれをながめながら、囲炉裏に新しい薪をくべる。こんなに火を燃やすのは今年に入って初めてのことだった。
 太郎の姿形にまだそれほどの変化はない。だが、どこからか溶け出した水が広くツタの着物を濡らし、板の間を濡らし、囲炉裏の灰に水たまりをこしらえていく。
 太郎は今宵中に、安らかに眠ったまま溶けて消えるだろう。

 心張り棒を立てかけて戸締まりをすると、仁吉は背負子を抱え上げた。
 傍らで待っていたツタに、行こうかと促す。ツタは峰に囲まれた狭い空を見上げていた。空は青の中にどことなく黄色みを帯び、もうすっかり春の色だった。軒に残ったつららからひっきりなしに雫が落ちて、地面を叩く。雪解け水が増えたのだろう、沢音が大きく響き、まるですぐそばを川が流れているようだ。
 三人で上ってきた道を帰りは二人で辿る。これでよかったのだと、仁吉は思った。
 自分たち夫婦は、ただただ長く太郎をそばにとどめておきたかった。だが、本当にするべき事はそんなことではなかったのだ。
 痛みと寒さに苦しみながら、たった一人で死んでいった太郎はどれほど心細かったことだろう。その太郎に、父と母がおまえをどれほど大切に思っているか伝えねばならなかった。最後にゆっくりと別れを告げねばならなかった。
 お社の神が与えてくれたのは、そのための時間だったのだ。
「お社にお参りしていくか?」
 仁吉が言うと、ツタは黙って頷いた。

 二人はゆっくりと歩き出す。遅い鶯の鳴き声が、どこからか聞こえた。

〈了〉

青木和プロフィール


青木和既刊
『くもの厄介12
 這う女』