「始発バス」飯野文彦

(PDFバージョン:sihatubasu_iinofumihiko
 六月の長雨が降りつづく、どんよりと気怠い朝だった。英美子は、高校に入学してはじめて、バスにした。
 いつもは自転車通学だった。雨の日も雨合羽を着て、自転車に乗っていた。事実、十日ばかり前に梅雨に入ってからも、そうしていたのだ。ところが前日の帰り、もうすぐ家というところで、落ちていた硝子の破片を踏んづけ、タイヤがパンクしてしまった。
 英美子はテニス部に入った。中学時代からやっており、県大会にも出たことがある。それもあって、高校入学と同時に、入部したのである。
 高校の部活は、中学時代とは比べものにならないほど厳しかった。毎日、午後七時まで練習があり、一年生はその後に後片付けやコートの整備をしなければならない。英美子の家から学校まで、自転車で十五分程度である。比較的近いほうだ。同級生の通学時間はほとんどが三十分位だったし、中には電車と自転車を乗り継いで、一時間かかる者もいる。
 前夜の帰宅も、午後八時を過ぎていたため、自転車屋に行けなかった。また朝は早朝練習がある。午前六時半スタートだったが、一年生は準備のため午前六時には登校しなければならない。そのような事情もあって、この日はバスに乗ることにした。
 乗り慣れないこともあって、五時十分過ぎには家を出た。傘を差して歩いて五分ほどのところにあるバス停に向かった。
 まだ時間が早いうえ、強くはないが雨が止みそうもないこともあってか。バス通りに出ても、ときどき車がスピードをあげて行き過ぎるだけで、通行人はおろか、自転車やバイクに乗る者も見られなかった。
 うろ覚えだったが、五時半前後に停車するバスがあり、それに乗れば、十分ほどで学校に着けることは知っていた。しかし、勘違いということもある。バス停に着くと、まっ先に雨ざらしの時刻表を見た。だいぶ古びて、字が薄れていたけれども、五時二十八分のバスがある。
 バス停の後方には、ベンチがあった。掘っ立て小屋のように、板で三方を囲まれているので見えなかったのだが、正面から見ると、先客がいた。年老いた女が、ベンチの片隅に坐っている。
 見知らぬ女だったが、目が合い、微笑んだので、英美子も会釈した。
「どうぞ、お座りになったら」
 断りづらく、傘を折りたたみながら隣に腰を下ろした。
「息子を待ってるんですのよ」
 老女が云った。黙っているのも悪く、
「どこかに行かれたんですか?」
 と訊ねた。
「私が洗濯をしていたら『それじゃあ』って、山へ柴刈りに出かけたの。ね、おもしろい子でしょう」
 老女はそう云って、含み笑いする。
 相づちを打つように笑みを浮かべたものの、ばつが悪くなった。眠気が覚めない時刻、雨降る淋しいバス停で、そんなジョークを云われても、おもしろいどころか逆に気持ちは冷え冷えするばかりだった。
「でも、そろそろ帰ってくるんじゃないかと思って、待ってるのよ」
「たいへんですね」
「ううん。慣れたわ。だってもう毎日毎日のことなんですもの」
「そんなに長いあいだ、待ってるんですか?」
「ええ、もう何年になるかしら。五年、十年。それともあなたが生まれる前からかしら。ええそうよ、あなたが生まれるずっとずっと前からよ。だって山に柴刈りに行ったんですもの。ほほほほほほほほほほほほほほ」
 皺だらけの唇から零れる笑い声に、鈍いブレーキ音が重なった。バスが停車したのだった。下りる者はいなかった。代わりに開いた入り口の向こうで、運転手が血相を変えて、手招きしている。
「それじゃ」
 英美子は老女に会釈して、小走りにバスに乗った。切符を取るか取らないうちに、バスは急発進したので、危なく転びそうになり、運転席脇のパイプにしがみつく。
「あんた。見えるのか?」
 運転手は運転同様に、落ちつきのない口調で云った。
「見えるって、何がですか?」
「さっき、ベンチで話していただろう」
「ああ、あのお婆さんのこと――」
 ですか、とまで云う前に、
「やめろ、云うな」
 と運転手は声を裏返した。その横顔は、冷たく強張っている。
 変だと思いながらも、それ以上訊ねることもなく、英美子は座席についた。車内に先客はいない、はずだったのだが、目を閉じ、揺れに身を任していると、
「さっき、ベンチで話してたでしょ」
 と声がした。いつの間にか隣席に見知らぬ男の子が座っていた。
 十になるかならないかの、いがぐり頭の少年である。うつむき加減に、じっと前を見つめたままつぶやく。
「あれ、ぼくの母さんなんです」
「でも……」
 お祖母さんじゃなくて、と云おうとしたのだったが、先に少年が口を開く。
「呆けてるんだよ。柴刈りになんか行くわけないじゃないか。母さんが洗濯をしているときに、庭で遊んでたら、知らない男の人が来て、ぼくをさらったんだよ」
「それって、誘拐じゃない」
 英美子の言葉が聞こえなかったかのように、少年は前を見て、とつとつと話をつづける。
「車に乗せられて、山へ連れて行かれたんだ。でもぼくが泣き叫んだから、男はぼくを……」
 急ブレーキがかかった。英美子はバランスを崩し、座席から転げ落ちそうになるほどだった。見回すと、バス停でも赤信号でもなかった。雨降る路上に、バスが止まっている。
 非難の目を運転手に向けた。バックミラー越しに目があった。運転手は興奮した日本猿のような顔で、英美子を見つめながら、
「こ、こっちへ来い」
 と震える声で云うのである。
 何であたしが――無視して座っていたのだったが、運転手はいっそう声を甲高くして、くりかえす。
 唇をへの字に噛みしめながら、腰を上げ運転席に近づいた。
「何なんですか?」
「誰と話していた?」
「誰とって、あそこに乗っている男の子……」
 指さしながらふり返ったが、車内には誰もいない。内側に向かい合った座席がコの字型になっているので、隠れる場所もなかった。
「下りろ」
 運転手は扉をあけた。
「でも、まだ学校じゃ……」
「まだ間に合う。リセットできる。急いでさっきのバス停にもどって、別のバスに乗ってくれ」
「どうしてですか? そんなことしたら、部活に遅れちゃいま……」
「いいから、下りろって云ってるんだ」
 運転手は両手を大きなハンドルに叩きつけて叫んだ。
 不平不満より、恐ろしさが勝った。頭がおかしいのかもしれない。下手に関わり合いになるよりは、逃げたほうが増しとばかり、英美子はあわてて、バスを降りた。
 外に出て傘をさすより先に、バスは急発進した。おかげで跳ねが制服に飛んだ。
「もう、乱暴なんだから」
 走り去るバスに吐き捨て、傘をさしたとき、
「どうぞ、お座りになったら」
 と声がした。顔を上げると、バス停の向こうの、掘っ立て小屋の中にベンチがあり、先ほどの老女がすわっていた。
 脇に立つ時刻表を見た。さっき英美子が乗ったバス停である。ということは、バスはまったく動いていなかったのか。
「どうぞ、お座りになったら」
 老女が云った。
「え、ええ」
 かろうじて愛想笑いを浮かべたものの、座るどころか近づく気持ちにさえなれなかった。車道の脇に立ち尽くす英美子を見やりながら、老女は笑顔で話す。
「息子を待ってるのよ。私が洗濯をしていたら『それじゃ』って、山へ柴刈りに出かけたんだから。おもしろい子でしょう」
 じっとしていられず、英美子は早足で歩き出した。とてもバス停にじっとしていられない。とにかく歩こう。次のバス停まで歩いて、そこでバスを待てばいい。
 そう思って、雨の中を歩いた。飛沫が飛んだが、すでに汚れている。そんなことを気にするよりも、少しでもあのバス停から遠ざかりたかった。
 雨は強くないものの、しとりしとりと降りつづいている。靄ってきたのか、辺りの景色が空からつらなる灰色のベールにおおわれ、視界が利かなくなった。
 数メートル先をじっと見据えながら、歩を進めるうちに、行く手をさえぎるように時刻表が、野中の案山子のような姿で、英美子の前に現れた。
 ほっと安堵したのも束の間だった。
「どうぞ、お座りになったら」
 と脇から声がした。あの老女である。
「息子を待ってるのよ。私が洗濯をしてる隙に、山へ柴刈りに出かけたんだから。おもしろい――」
「おもしろくなんてないわ。あなたの子どもは、柴刈りになって行ってない。誘拐されたのよ」
 一息に叫んでいた。それまでこらえていたものが、プツンと切れたかのようだった。
「あなた、何を云ってるの?」
「ほんとうの事よ。真実よ。あなたの息子は柴刈りになんか行ってない。誘拐されて、その後――」
 言葉に詰まった。辺りの空気がピンと張りつめた。見えない糸で結んだかのように老女と視線がぶつかる。
「その後、どうしたの?」
 老女が訊ねた。
「その後……」
 云えなかった。いや、知らなかった。少年の言葉は、そこでとだえた。運転手が急ブレーキをかけたので、そこで言葉は中断したのである。その後、どうなったか、英美子は知らない。
「その後、どうなったのかって、訊いているのよ?」
 いつしか老女が、英美子の脇に立っていた。傘もささずに雨に打たれながらも、間近に英美子を見ている。その瞳は奈落のように底が見えない。
 すっと引き込まれそうになったとき、背後から鈍い音が響いた。ふり返ると、バスが停車している。開いた扉の向こうで血相を変えて、英美子を手招きしているのは、あの運転手である。
 英美子は老女に向き直り云った。
「あなたの息子さんは、このバスに乗っているわ」
「ほんと?」
「ええ、さっき会ったもの」
「早く、乗れ」
 運転手が急かす。
「運転手さん、後ろに男の子が」
 英美子の言葉に運転手は、車内をふり返った。その隙に、
「さあ、早く」
 と英美子は老女をうながした。
「ああ、本当だわ。あそこに」
 老女がバスに乗り込んだ。
「早く、発進して」
 運転手に声をかけるなり、英美子はバスから離れた。扉が閉まり、バスが発進した。てっきり英美子が乗り込んだと思ったのだろう。運転手がふり返り、日本猿のように血相を変えたのは、すでに発進した後だった。
 雨の中、バスは遠ざかり、消えていく。と同時に靄が晴れた。雨がやみ、東の空からわずかだったが日差しが見えたとき、バスがやってきた。
 腕時計を見ると、午前五時三十三分になるところだった。すぐには乗らず、空いた扉の向こうに見える運転手を見た。ふり向いた運転手は、五十前後のぷっくらと太った男だった。
 見ると、バスも新しい。このときになって先ほどのバスは、英美子が子どもの頃に走っていた旧型のものだったと気づいた。
 乗らないの、とばかり運転手が英美子を見ている。英美子はバスに乗って、車内を見た。座席はコの字型ではなく、前向きの座席が並んでいた。
「もしかして、何かあった?」
 運転手が云った。
「何かって、何ですか?」
 英美子が訊ねると、運転手は鼻をかむように顔を顰め、
「いや、その、ただ……」
 と前置きしてからは、二重顎を誇張するような硬い表情で云った。
「この時間、あまり早く、あのバス停には行かないほうが良いよ。うちらも五時半前には、絶対に行かないようにしているから、ぎりぎりに行ったほうが良い。そうしないと……」
「だいじょうぶです。もう待っていないと思いますよ。さっきのバスに乗ったから」
「お客さん、何か見たんじゃ……」
 英美子は微笑みながら肯いた。
「だってあたし、昨日の夜、自転車がパンクして、その弾みで川に落ちたんです。この長雨でしょ。水かさが増えていて流されて。どんどん、どんどん流されて、家に帰るのにどれだけ苦労したことか」

(了)

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『飯野文彦劇場
 女体の中に』