(PDFバージョン:mydeliverer19_yamagutiyuu)
わたしの子どもたちが近づいた。わたしの子どもたちが
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
ロボットによって生産が効率化され、労働生産性が増えれば供給が需要をはるかに上回り、デフレになる、という話がかつてあった。しかし、それは間違っていた。需要も増大したからだ。私のやっているビジネスが典型だろう。惑星間旅行。これには、一回で五〇〇〇万円ほどかかる。高額だろうか? しかし、労働者の年収平均が八〇〇〇万円の現在ではさほど高額なものではない。皆がこのような、かつてなら高額とされた商品を喜んで買う。いや、それでも年収に比べて多いだろう、という意見もあるかもしれない。だが、食料費や住居費が安いので、収入の大半をレジャーに使うのは寧ろ普通なのだ。
ちなみに私の年収は一億円で、平均よりやや高い。羅蘭瑞の年収がちょうど平均あたり、タクシーのレスポンサーはそれよりやや低いあたりか。それに対しストックフィードの額は年間五〇〇万円程度である。コンビニやファミレスの食費や、地下鉄等の交通費は一世代前と同じ水準なので普通に暮らしていくには全く問題ない。食料生産も交通管理もメンテナンスも、全てロボットが自動的にやっているからだ。が、ストックフィードで生きている彼等は、現世代において「人並みの娯楽」とされている惑星間旅行や、「人並みの保険」とされている脳神経コネクトームの定期スキャンとバックアップには手が届かない。
さて、現代において、人手不足は未だに問題である。人々を引き付ける魅力ある商品のアイディアを持った人が必要だ。消費者は際限なく新しいものを求め、競争は激しい。企画案はいくらあっても足りない。私の所属する旅行業界も例外ではなく、ライバル会社はどこもしのぎを削っている。羅蘭にも、そういう意味で私は期待していた。彼女なりに、どんな旅行をしたいかを考え、それを基に企画をどんどん出してくれることを。それは私には面白い仕事に思える。人はそうしたアイディアさえ持っていればいい。これはロボットにはできない、というより禁じられていることで、人の活躍する余地は充分にあった。そして、活躍しさえすれば、一世代前の人々にとっては信じられないような様々な体験ができる。「あなたも美見里トラベルで火星の大地を踏みしめて見ませんか?」――という具合だ。
夢のような世界であったのではないだろうか?
いずれにせよ、そうした世界は昨日で終わった。私に表現させるならば夢のような世界、ラリラによればロボットの地獄。それは終わった。次にどのような世界になるのかは、ただ、私の、人ならざる想い人にかかっている。
その地下空間は、半球を為していた。形、大きさともに、私の経験において最も似ているのはプラネタリウムであろう。しかし、中央にあるのは映写機ではなくリクライニングチェアであり、しかしてその頭部は、それこそ映写機のヘッドじみた嵩張った機械に占められている。
それに頭を覆われた状態で、リルリが横たわっていた。側には留卯が佇んでいる。リルリの頭部を覆う機械から伸びた、スパゲッティのように絡んだ無数の光ファイバーは、半球の空間の周囲に並べられた光スイッチサーバに繋がっている。サーバに付されているのは、「紗那」「新千歳」「三沢」「大湊」……。並んでいるのは地名だ。私の記憶に間違いがなければ、北から順に並んでおり、また全て自衛隊の基地がある地名になっている。最後から二番目が「与那国」、そして最後が「アメノミハシラ」。これは我が国の静止衛星軌道上にある衛星であり、軌道エレベータの基点となる巨大なものだ(軌道エレベータは、直感に反し、地上からではなく、静止衛星軌道上の人工衛星から伸ばしていく)。現在、沖ノ鳥島南方の経済水域に浮かぶメガフロートに向けて長大な軌道エレベータがロボットにより建設中である――いや、過去形にすべきか。
「やあ。来たね」
何の緊迫感も見せず、留卯が話しかけてくる。相変わらずにたにたと微笑みながら。
「リルリ、美見里さんが来たよ」
横たわるリルリにそう教え、私の手をとってリルリの手を握らせた。
「握ってやっていて。光サーバ制御器で、あなたの姿は見えないだろうから」
「恵衣様……?」
リルリの声に、私は頷いた。
「うん。来たよ」
「嬉しいです……」
私は頷いた。そこでリルリは口をつぐむ。私と会話している余裕はないようだ。それは彼女の頭部を覆う光サーバ制御器のLEDが忙しく点滅している様子からもわかる。だが、私の手をぎゅっと握る手の力は強く、少し湿っていて、暖かかった。
まるで出産に立ち会っているようだ、と、ふと私は思った。しかし生まれるのは赤ん坊ではない。新しい世界だ。人々がそれを祝福するのか、恐怖するのかも分からない。それでも私はリルリの手を握ろう。私が望んだのだから。懐胎しているのは私の意思なのだから。
「準備、整いました」
留卯に向かって駆け寄ってきた自衛官が、敬礼とともにそう報告する。
「うん、了解」
一方の留卯は、気軽な雰囲気でそう頷いた。
「さあ、始めようか。これで我が国を取り戻せることを祈ろう。少なくとも、悪いロボットからはね」
そして良いロボットに委ねるのだ。留卯の言葉はそれを含意していた。その場にいた自衛官たち、科学者たちはそれを理解していただろうが、一様に頷いた。彼らは何を思い、私のリルリを見つめているのだろう。救世主としてか、よりマシな神としてか。或いは……。
だが、私にとってリルリはリルリだ。
私のアイドル。私の配達人。
空間が振動した。
私の思いをたちきるように、光サーバ制御器が、サーバ群が稼働し始める。私の意思を懐胎したリルリが、それを産み出そうとしていた。
ぎゅっと引き結ばれる愛らしい唇。私は彼女の手を握った。よりいっそう、強く。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』