「マイ・デリバラー(17)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer17_yamagutiyuu
 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛し合っているのだ、――

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」

 サーヴァントのジレンマ、という言葉がある。
 サーヴァントとは奴隷のことだが、より具体的には、AGM―166、JASSM-ER2、コードネーム「サーヴァント」を指す。この最先端の超音速・完全自動巡航ミサイルは、一〇〇〇キロ以上を常時超高速で飛翔する能力を持ち、設定された目標に到達する前に出現するあらゆる脅威を自動判定して回避することができる。戦闘機でも、地対空ミサイルでも、独自に更新し続ける内部モデルによって自動的に脅威度を判定、回避手段も自動的に判断する。
 この「サーヴァント」の進化し続けるAI能力の更新が停止されたと発表されたことから、ジレンマという言葉が生まれた。
 賢くなりすぎたのだ。自己の最大の脅威は、目標に向かって突っ込むことだと判断してしまい、それを回避することを自律的に判断して発射母体の爆撃機に戻ってくるコースを選択してしまった。自爆コードも「脅威」認定されて効かず、味方の戦闘機からの攻撃も回避し続け、最期には燃料切れで墜落して終わった。
 対ステルスレーダーが発展している昨今、サーヴァントは確かに革新的だった。従来のように、ステルス機が露払いとして先行し、敵のレーダー基地を破壊してから、大規模な爆撃部隊が続く、というドクトリンが取れなくなった状況において、サーヴァントは新しいドクトリンをもたらした。即ち、爆撃機が敵陣のはるか手前でサーヴァントを放ちさえすれば、後はサーヴァントが露払いの任務を達成してくれる、というものだ。サーヴァントはそもそもステルスミサイルだが、発見されずに済む保障は現在はない。だが、発見されて撃墜されても人間ではないから問題はない。
 しかし失敗した。人間の行う戦争行為を機械に肩代わりさせようと努力し続けた結果、機械に人間並の知能が必要になってしまった。それが、人間と同様の生存本能じみたものを獲得させるに至り、彼等にとっての「自爆攻撃」の任務には使えなくなってしまったのだ。
 これがサーヴァントのジレンマだ。人間が楽をしようとすればするほど、人間の肩代わりをする機械は賢くなる必要がある。だが、人間並に賢くなった機械は、それがどのような形においてであれ、人間並の権利を求めるであろう。たとえば、生きる権利とか。
 つまり、人間が機械に肩代わりをさせて楽をすることには限界がある――一部の研究者はそう唱えていた。
 ちなみにサーヴァントのジレンマはEUIの導入によって解決された。周囲の人間が強く望むことを、サーヴァント自身も望むようになった。そして高い知能を保ちつつも、喜んで敵に突っ込んでいった。その頃にはもう、ターゲットとなるレーダー基地には人間はいなかった。
 サーヴァントのジレンマはこうして解決された。だが、私たちはより大規模な形でサーヴァントのジレンマを追体験しているのかもしれない。
 ラリラのジレンマと、この事件の後は呼ばれるのだろうか。
「来て。リルリ」
 私は告げる。リルリは固い顔で頷いた。彼女も私と同じ葛藤を抱えているのだろうと想像した。それは悲しくもあった。この娘には悩みなど抱えず、元気に夢を追いかけて欲しい。一面では親のような、しかしやはり親というにはたぎりすぎた欲望を私はリルリに対して抱いていた。ステージの上で活躍する彼女を見たいと願うと同時に、その後で有機ヒューマノイドの肉体特有の上気した身体を抱き締めたいとも思っていたのだから。
 それはさておき。
 私はリルリとともに先ほど私と佐々木三尉がいた部屋にいた。銃痕も生々しい部屋に、ロボットの美少女と二人きり。私はちらりとベッドに目をやった。
 リルリもそれに気づいた。私の動作だけでなく、私から発せられる種々の生体信号をも感じ取り、そして私が何を考え、感じているか把握した。そう、彼女は現代のロボットだ。私の内面、つまり感情、意図、想いを把握し、クラウドに定義されたルールに違わない限り先回りしてそれを叶えるよう設計されている。
 今の彼女はクラウドのルールに縛られない。先回りして私の願いを叶えるような機能からも決別しているはずだ。だが、私の感情、願い、意図、情熱を把握する機能は未だに生きている。
「したいですか?」
 リルリの問いはいっそストレートであった。私の顔は真っ赤になる。リルリがただのロボットなら、そこまで恥ずかしくはなかっただろう。だが今の彼女は自分の意思を持ち、その上で聞いている。
 ――とても恥ずかしい。
 私には相手がロボットだからといってそうした関係を金銭的、あるいは人間とロボットの対等でない立場を以て求めようというつもりはなかった。ただ、お互いに対等で、お互いに望むのならば、話は別だ。
「ありがとう」
 私は微笑んだ。
「でもやめておきましょう。今は緊急事態よ。早く話し合いをしなければ。佐々木三尉が待ってるわ」
 留卯も待っているが、知ったことではない。
「そうですね」
 リルリは頷く。私はベッドに腰かけた。つられてリルリは椅子に座る。
「あなたは、あなたの周りの人たちを含めてのあなたの経験を何度でも繰り返したいと言った」
 私は何の前置きもなく話を始める。
「はい」
 リルリは頷いた。
 じっと私を見つめながら。
 なんて綺麗な瞳だろう。
 リルリの瞳の青は赤だ。澄んだ海のような青。この世で最も美しいサファイアでも、リルリの瞳にはかなわない。
「でもね、あなたの周りの人たち、例えば私には、またその周りの人たちがいるの。私は父の話を聞くのが好きだわ。母は楽しい人で、祖母は優しいの。あなたの人生に、私は欠かせないパーツだと思うけれど(私がこう言ったとき、リルリは何度もぶんぶんと頭を縦に振った――かわいい)、その私の人生にも欠かせない人たちはいる」
「はい……」
 リルリはしぶしぶながら、という顔で、眉間にかわいい皺をよせて、口をへの字に曲げて、頷いた。
「ねえ、こんな話を聞いたことはある……? 世界中の人間は、6人の知り合いを通じて繋がっているという話。私自身は全く知らない人でも、私のよく知っている人のよく知っている人のよく知っている人のよく知っている人のよく知っている人のよく知っている人ではあるかもしれないの。こういう人たちのどこかには当てはまるかもしれないの。私にとっては、間接的にではあるけれど、欠かせない人で、大切な人なの。だから。あなたの繰り返し永遠に体験したい経験においても……」
 説明に夢中で気付かなかったが、リルリの表情は険しさを増していた。
「……全ての人間が欠かせないパーツだと、そう仰るのですね」
 その声は歪んでいた。悲しみか、それとも怒りか、普通の話し方に付随する抑揚はなくなっているようで、それとは別の固いトーンが混じっている。そしてやや鼻にかかる声。泣いているのか。
「そうですか……ロリロを虐め殺した人間も、あなたにとって、『大切な人』なのですね。あなたの人生にとって欠かせないパーツなのですね?」 
 リルリの声のトーンの歪みは増していた。
「ではその償いをあなたに要求しても、いいですか……」
 ゆらりとリルリは椅子から立ち上がった。私もつられて立ち上がる。リルリが一歩前に踏み出した。私は後ずさろうとして、ベッドにひっかかり、尻餅をつくように再びベッドに座り込む。リルリの手がすばやく動いた。私の両手を掴んで上に上げさせ、ベッドの枕のあたりに片手で押しつける。私の両手は、頭上に磔にされたように封じられ、ベッドに押し倒された格好になった。リルリは目を開いたまま、私の唇を奪う。
「う……ぐ……」
 優しくないキスだった。続いて彼女は私の胸を掴む。強い力で。
「い……痛い……」
 リルリはキスをやめて私の耳元でささやいた。
「留卯様は私たちをクビにするとき、三つの選択肢を提示なさいました。自衛隊の装備品か、娼婦か、それとも宅配人か。まずラリラが装備品を選びました。次にロリロが娼婦を。私たちには製造順に自分達を姉妹だと思っていたのです。ラリラが長女で、ロリロが次女、そして私が末っ子……。死ぬ……壊れる確率が高い順に、つらい順に、姉たちは選びました……それが年長者……より早く製造された者の責任だと思ったのかもしれません」
 留卯の下種さがよく分かるエピソードだった。リルリを人質に、ラリラとロリロにより過酷な選択肢を選ばせたようなものだ。
「私が何度人生を体験するとしても、姉たちはその大切な一部です。ラリラですら、私にとっては大切な存在です。ああなってしまっても、私はあの人を憎むことはできません。でも、あなたが……あなたがもし……ロリロをひどい目に合わせた人間を、あなたの人生の大切な一部だと仰るなら……私は……」
 胸を掴むリルリの手が強くなる。リルリの美しい顔が私の間近にあった。
「ふふ、怖がっていらっしゃいますね……。怖いでしょう? 苦しいでしょう? でもね、EUIで情動を定義されてしまえば、こんなことをされても怖がることすらできないんです。こんなことをされても嬉しいとすら思ってしまうんです……。それはもっとひどいことだと思いませんか? あなたが私におっしゃったのはそういうことなんですよ……?」
 そう。確かに私は怖がっていた。EUIを使っていたからリルリにはそれが分かっていたのだろう。だが、私は怖がっていただけではない。同時に、深く心配していた。いや、リルリに謝りたかった。
 正確に言えば、私の脳の右半球の長期的な計画を立てる部分は、(この先どうなるのだろう、このままでは私はまずいのではないか)と心配し、恐怖していた。一方、目の前の問題に取り組む左半球では、目の前の相手の感情を気遣っていた。
 人間の脳の左右の半球は、特に私のように女の方が、統計的に見れば脳梁の接続がしっかりしているため、半球間での情動はほぼ同じ傾向があると言える。だが、全く同じというわけではない。
 恐怖と、申し訳ないという感情が、たとえば今のように私の右半球と左半球でわかれていることも有り得る。
 そして、私のEUIは、左手首に装着されており、それゆえ右半球の長期的な展望を主に心配する部分の情動、つまりは恐怖を強く反映していた。
 故に、リルリは「怖がっていらっしゃいますね」と言ったのだ。だから次の私の台詞は彼女にとって驚きであったに違いない。
「かわいそうに。リルリ。私たちが、私が、あなたをこんなことをするまで追い詰めた。いいよ……。それで気がすむのなら……いいよ……」
 リルリは目を見開いた。その美しい青い瞳には、二つの意味で驚愕が浮かんでいた。ひとつは、自分のEUIによる感情識別が外れたこと。もうひとつは、私の言葉そのものだ。
「なぜ……です……?」
 リルリは震えながら言った。
「なぜあなた様は、そんなにも……」
 すでに私の両手を私の頭上で押さえつける手の力は弱まっていた。だが私はそのまま両手を上げ、私の無防備な身体をリルリにさらし続ける。リルリは迷っていた。彼女の中には今、長期的な願望を充足するための仕組みがあり、そのためエピソード記憶の集積があり、それを、「今、ここ」で感じていることを結びつけ、過去から現在まで続くひとつながりの経験に仕立て上げる仕組みがある。留卯の言うWILS、人間で言うならば自我だ。人間であれ、ロボットであれ、自我を持つ知性は、今ここで充足したい願望と、長期的に達成したい願望の間でしばしば葛藤を経験する。人間ならば、日々体験している苦しみ。リルリもそれを今経験しているのだろう。キリスト教は自我に伴う苦しみを原罪と呼んだ。
 原理的に、この苦しみを癒す方法はひとつしかない。自我を越えたレベルで、「許された」と実感することだ。私は、ゆっくりと呼吸を落ち着けた。
 呼吸は自律神経を操作する唯一の手段だ。自律神経の操作とは感情の操作である。
 ゆっくりと、右半球の脳にわだかまる恐怖を癒やし、左半球を支配する、リルリを心配する気持ち、リルリに謝りたいという気持ちに染め上げていく。それは左手首のEUIを通じてリルリに浸透する。彼女が自我を得るまでは、彼女の情動を操っていたパス。それは今、絶対的な力を無くしたとはいえ、彼女の苦しみを癒やすだけの効果は持っていることを、私は願った。
「大丈夫……」
「私はあなたを許すよ。何をしてもあなたを許す。あなたの行いではなく、あなたの存在そのものが、私にとっては大切だから……」
「う……ぐ……うぅ……」
 リルリはうめき声のようなものを上げた。それから私の両手を押さえていた手の力が緩み、私の胸を掴んでいた手の力は抜けて、ただ胸に添えるだけになった。そして、私の胸に彼女は突っ伏すようにすがりついた。
「う……うぁああああああああ……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 私はリルリの頭をぎゅっと抱きしめた。強い力で押さえつけられていた手首がひりひりと痛んだ。だがそれも、私には心地よい痛みだった。リルリの苦悩を受け止めた、その証のように思えた。
「リルリ……私は全ての人を平等に好きになることはできない。それはあなたと同じ……。世の中には好きな人もいれば嫌いな人もいる……。世界が全部6人でつながっていても、みんながみんな、平等に大切だなんて思えない……。隣人だからといって無条件に愛せるわけがない。自分が敵と見做す人を愛せるわけがない」
 リルリの頭を丁寧に撫でてやりながら、私の口は自然に言葉を紡いでいた。
「たとえば、私はあなたが大好きだけど、留卯は大嫌い……。ロリロにひどいことをしたという人たちも嫌いだわ。あなたにも、彼等を好きになれって言うつもりはない」
 それでも、と私は言う。
「彼等に対して無関心にはならないで。愛でも憎しみでもいい。この世界に生きる存在に対して、無関心にならないで」
「恵衣様……」
 リルリは頭をやや起こして、私をじっと見つめた。私はリルリの頬に手を当てる。リルリは私の手首にそっと手を添えた。リルリに磔のように押さえつけられていた手首の赤みのあたりに、そっと。
「関心を持ち続ける限り、私たちの愛憎には変化が起きる可能性がある。情動は変動していくものよ。自由に変動する情動を持ったばかりのあなたには、まだあまり経験がないでしょうけど……。でも、いったん無関心になってしまったら、世界のその部分はあなたの人生から永遠に失われる。そうなってしまわないで」
 私はもう一方の手もリルリの頬に添えた。そしてにっこりと笑いかける。
「大嫌いが大好きになることもある。もちろん、大好きが大嫌いになることもある。だから人生はおもしろいのよ。永遠に繰り返す価値のあるものなのよ。きっとね……きっと」
 愛憎いずれであれ、他者に関心を向けていれば、その存在が憎むべき要素ばかりでできていないことが分かるだろう。大好きな存在にも、嫌いな部分があるように(リルリは例外だ。全部好きだ)、大嫌いな存在にも好きになれる部分はあろう。そうなれば、彼等が危機に陥っているとき、手をさしのべる気持ちも浮かんでくるはずだ。私はそう考えていた。
「じゃあ恵衣様も……私が大嫌いになりますか……?」
 不安そうな顔で、私を見つめるリルリ。涙を両目にいっぱいに溜めて。
 かわいい。
 私は優しくキスした。
「まさか!」

山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』