「片山真理展 セルフポートレートとオブジェ」関 竜司

(PDFバージョン:katayamamaritenn_sekiryuuji
1・片山真理と人形的身体

 義足のアーティスト・片山真理は、日常生活に自身の人形的身体を溶け込ませるセルフポートレイト(自撮り写真)で有名だ。瀬戸内国際芸術祭(2016)の際にとられた夕焼けをバックに凛と立っているポートレイトは、背景の赤と被写体の黒が対照的な秀作だ(図1:片山真理「bystander」(第三回瀬戸内国際芸術祭)(2016))。2016年11月25日、筆者は岡山ルネスホール(金庫棟ギャラリー)で開かれた「片山真理展 セルフポートレートとオブジェ」を訪れた。初期の作品から全部出しという触れ込みにも興味がわいた。
 私たちは普段、自分の身体を機械的なもの・物質的なものと思っていない。むしろ感覚的・感情的・精神的なものと思っている。それらを統合したのが「人間的」とよばれる感覚だ。健常者である私たちが身障者をみて違和感を感じるのは、自身の身体が実は物質であることに否応なく気づいてしまうからだ。
 しかし、と片山のポートレイトは問いかける。身障者の身体と健常者の身体に差異などあるのだろうか。むしろ社会の中で私たちは多かれ少なかれ、何がしかの役割を演じて生きている。そのことを考えれば、私たちは人形として――ロボットにできないことをするロボットとして――生きているに過ぎないのではないか。日常生活の中にスタイリッシュに差し込まれた片山の人形的身体は、そのことをごく自然に自覚させる。
「義足している私ってかわいいでしょ? 女の子なんだから自分をかわいく見せるのは当たり前!」と、写真の中の片山は言い切っている。そしてその姿は確かにかわいいし、かっこいいのだ。

2・ヴィクトリアン・エイジと生命の根源

 今回、片山の展覧会を訪れて改めて気づいたのは――もっとも、もっと早く気づくべきだったのかもしれないが――、彼女がヴィクトリアン・エイジ(ヴィクトリア朝時代)のイメージ群を非常に重視していることだった。
 貝殻や砂を詰め込んだ妖艶な光を放つガラス瓶。ぼろ切れで作られた枕や人形のインスタレーション。古い写真やレシートをコラージュした壁紙。アンティークな椅子や家具の数々。その空間は、ヴィクトリア朝に流行った雑多な骨董趣味を彷彿とさせた。
 ヴィクトリアン・エイジは、産業革命に始まる機械文明が巨大な力で、旧時代の文化や価値観を撹拌し、新世紀へと押し流している時代だった。世界最初の万国博覧会(1851)が開かれ、新・旧だけでなく国籍的にも相乱れた珍奇なものが並べられ、上流階級のアパルトマンがヴンダーカンマー(驚異の部屋)化したのもこの頃だ。
 もちろん旧文化の側も黙ってはいなかった。物質に対抗して生命を重視する機運が生まれ、芸術ではアール・ヌーヴォー、宗教ではシュタイナーの神智学、哲学ではニーチェやアンリ・ベルクソンの生の哲学が登場した。特にベルクソンの哲学は、片山のポートレイトを理解するうえで重要な参照項となる。
 一般的にポートレイトは、物質的な背景に生きた被写体が浮かび上がるように撮影される。言い換えれば、「図」(被写体)が生命で、「地」(背景)が物質という構造をもっている。しかし片山のポートレイトは、被写体がいったん背景の中に同化し、完全に物質化する。そして写真の中の違和感、片山の人形的身体に気づけたものだけに、その生命力を開示するという仕組みになっている。被写体である片山は、じっと気づかれるのを待っているのだ。
 この片山のポートレイトにみられる生命と物質の関係を読み解くうえで、有効なのがアンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(『創造的進化』)の概念だ。ベルクソンは精神と物質を、生命の飛躍(エラン・ヴィタール)の両極にあるものと考える。そのうえで物質の側からは生命や精神を定義できないのに対し、生命や精神の側からは、物質を「最小の記憶しかもたない意識」と定義できるとする。つまり生命は物質を認識できるが、物質は生命を認識できない。その意味で生命や精神は、常に物質を超えたものであり、その本質は過去を記憶し、未来に生かすことにある。言い換えれば、生命や精神は、記憶というクラッチを介して物質世界や未来を操作しようとしているのだ。これがベルクソンの「エラン・ヴィタール」の骨子だ。
 片山の最新作は、瀬戸内国際芸術祭(2016)で撮られた「蟹」と同化したポートレイトだ(図2)。ややグロテスクなこのポートレイトは、人間と生物、生物と物質の境界を侵犯し、融合している点で、生命と物質が記憶を介してつながっているというベルクソンの思想の体現であると言っていい。
 さらに言えば、片山は生命を生命たらしめているのは、究極的には記憶であり、その記憶も単独で存在しているのではなく、人類史的、生命史的背景をもっていると考えているようだ。砂や貝殻を詰め込んだガラスの瓶。古い写真やレシートのコラージュ。片山自身の幼年時代を模した古い人形。物質が記憶を支え、記憶が物質の価値を規定する相補的な展示空間は、記憶というものが一つの生命の中に留まるのではなく、もっと広範な広がりをもつものであることを感じさせる。生命の根源に迫ろうとする思索がここにはある。ネットの画像だけではうかがえない片山の思慮深さに触れることができたのが、本展覧会最大の収穫だった。

(2016年12月10日)

関竜司プロフィール


関竜司 参加作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』