(PDFバージョン:suiminnsi_ootatadasi)
ドアを開けると立っていたのは若い小柄な女性だった。短めにカットした髪に幼さの残る顔、そしていささか滑稽なくらい大きな黒縁の眼鏡。少々大きめに見えるダッフルコートと重そうな革のバッグを提げている。
「はじめまして。睡眠外来の戸田先生から連絡をいただきまして参りました」
女性は挨拶をすると私の前に名刺を差し出した。
そこには「睡眠士 密原トリカ」と書かれている。
「睡眠士というのは、睡眠療法か何かをされるのですか」
私の問いに密原トリカという女性はにっこりと微笑んで、
「よく間違われるんですけど、違います。睡眠療法というのは催眠を用いた精神療法の一種です。でも、そういうのに興味はありませんでしょ?」
「ないわけではないが、今の私にはあまり関係ないね」
「だと思います。わたしは睡眠そのものの治療を行うんです。本当は『睡眠療法士』みたいに名乗りたいんですけど、それだとモロに睡眠療法をする人間みたいに思われちゃうんで」
屈託のない口調だった。私は彼女を応接室に招き入れた。
「わあ、これ、バカラの花瓶ですか。こっちはマイセンの陶器人形で、こっちはリーデルのグラス。そして――どれも素敵です」
飾ってあるものひとつひとつに感嘆の声をあげる。悪い気はしないが、反応がどうにも幼い。これでほんとうに大丈夫なのだろうかと不安になる。私は言った。
「そろそろ本題に入ってくれないか」
「あ、すみません」
トリカはソファにちょこんと座ると、バッグからノートを取り出した。
「えっと、戸田先生のカルテによると朝長さんは十年以上、不眠に悩まれているんですね?」
「そうだ。この十年、一睡もしていない」
「一睡も?」
「そう、一睡もだ」
私は「一睡」という言葉に力を籠めた。
「だから睡眠外来に行ったんだ。そしたら、その戸田という医者は、気のせいだと言ったんだ」
「気のせい、とは仰ってませんね」
トリカはノートをめくりながら、
「戸田先生の診断では逆説性不眠症だと」
「ああ、そんな言いかたをしていたな」
「睡眠ポリグラフ検査の結果では普通に睡眠できている。なのに御本人は眠ったという自覚がない。これが逆説性不眠症です」
「つまり気のせいだと言いたいのだろう? 藪医者め、私は本当に眠れないんだ。なのにどうして嘘つき呼ばわりされねばならんのだ」
「嘘つきだと言っているわけではないですね。客観的事実と自覚に相違があるわけです。事実、人間は十年も眠らずに生きてはいけません」
「私は生きている!」
思わず怒鳴った。
「そして私は寝てないんだ!」
「わかります。わかります」
トリカはそんな私を宥めるように、
「そういう患者さんを、わたしは何例も見てきています。どんなに医学的根拠があったとしても、御本人に眠っているという自覚がない以上、これは治療が必要な事例です。そのためにわたしが参りました」
「治せるというのかね」
「治せます」
トリカは断言する。
「そのためには詳細なリサーチが必要です。プライベートなことについてお伺いしますが、よろしいでしょうか」
「かまわない。それで眠れるようになるのならね」
正直なところ、彼女をそれほど信用していなかった。こんな小娘が私の長年の悩みを解決してくれるとは思えなかったのだ。
「では、お伺いします。自分で覚えているかぎり一番古い記憶は何でしょうか」
「一番古い記憶……何だろうな……ああ、母親の背中だ。おんぶされていた。赤い毛糸の服を着ていてね、ほつれた毛糸の端が風に震えていた。そして母親は子守歌を歌っていたな。どんな歌だったかはもう覚えていないが」
「わかりました。では子供の頃、一番悔しかったことは?」
「幼稚園のときだ。誰かの靴がなくなって、それが私のせいだと言われた。もちろん私は何もしていない。だがみんなに『おまえが隠した』と言われた。あれは悔しかったな」
「これまで失くしたもので一番惜しかったものは?」
「……それなら先月の株価損だな。あれは痛手だった」
私が答えると、トリカはノートから顔をあげてこちらを見た。幼く見える顔が、そのときだけすべてを見透かしているように感じられた。
「次の質問です。印象的な夢はありますか」
「だから私は眠っていないと――」
「眠れていた時期もあったんですよね? その頃の夢のことです」
「ああ、それは……子供の頃、空を飛ぶ夢をよく見ていたな。切り立った絶壁から飛び降りてそのまま鳥みたいに空中を滑っていくんだ。気が付くと腕に羽根が生えていた。あれは気持ちよかった」
「なるほど。では最後の質問です。あなたは何を恐れているのですか」
「何だって?」
「あなたが今、一番恐れているのは何ですか」
落ち着いた口調だったが、その言葉には容赦のない強さがあった。私は言葉に詰まった。
「私は……何も恐れてなんか……」
「先程、わたしはこの部屋に置かれているものの名前を挙げました。何でしたか」
トリカは急に質問を変えた。戸惑いつつも私は答える。
「バカラの花瓶とマイセンの人形と……リーデルのグラスだ」
「他には?」
「他? いや、その三つだけだった」
「間違いありませんか」
「ああ」
「そうですか。では」
トリカは立ち上がり、花瓶や人形の置かれた棚に向かう。
「これは?」
「これ、とは?」
「ちゃんと見てください。これです」
「私には何のことだか――」
「こっちを見て!」
トリカの声が大きくなる。咄嗟に私は顔を伏せた。
「あなたはここにあるものを見ることができない。わたしが名前を挙げても聞くことを拒絶している。なぜです?」
「それは……私はそんな……」
「もう一度言います。こっちを見なさい」
その声に逆らうことができなかった。私は錆びたネジを無理矢理回すように、首を回してそちらを見た。
「これは、何でしょう?」
トリカの手に握られているものを、私は見た。
「それは……」
「名前を言ってください」
「……ナイフだ」
「そのとおり。フォルジュ・ドゥ・ライヨールのソムリエナイフです。銘品ですよね。ところで」
トリカはナイフを棚に戻すとソファに戻り、傍らに置いていた大きなバッグを開けた。
「これに見覚えは?」
バッグから取り出したのは鳥の羽根だった。何の変哲もないものだったが、私にはすぐわかった。
「これは、空を飛ぶ夢の中で私の腕に生えてきた羽根か」
「そのとおりです。そしてこれは?」
次に出てきたのは子供用の靴だった。
「……私が盗んだと疑われた靴?」
「正解です。ではこれは?」
トリカが取り出したのは、赤い毛糸玉だった。その色を見て、すぐに気付いた。
「母が着ていた服の毛糸か」
「そうです。そして最後に……」
彼女はまたバッグに手を差し入れる。何が出てくるかと私は固唾を呑んだ。
しかし出てきたトリカの手には何もなかった。
「あなたはひとつだけ嘘をつきましたね。これまで失くしたもので一番惜しかったものは株価損なんかじゃない。これです」
トリカは足下を差した。
「ここに死体が転がってますね。どうやらあのナイフで刺されたようです」
彼女が言うとおりだった。そこには死体が転がっている。
「ここで亡くなっているのは、あなたの奧様ですね?」
「……ああ」
「なぜ死んでいるのでしょう?」
「それは……それは、私が――」
「あなたが殺したと?」
「……ああ」
「だから死体も凶器も見ないようにしていたと?」
「そのとおりだ」
「あなたは奧様を失った。そのことを一番悔やんでいる。違いますか」
「私は……私は……」
不意に嗚咽が喉から込み上げてきた。
「……私がやった。私が殺した。しかたなかった。妻は、私の許から去ろうとした。どうしても引き留めたかった。だから……」
「命を奪って、永遠にここに止めようとした。花瓶や人形やグラスと同じように。そしてあなたは、ここに逃げてきた」
「逃げた? ここは私の部屋だ」
「たしかにあなたの部屋ですね。寸分違わない。でもここは、この世界は現実ではない。あなたは夢を見ているんです」
「夢、だと?」
「ええ」
トリカは私の前に立ち、その手を私の頭に置いた。
「そして私は、あなたを連れ戻しに来ました」
すうっ、とトリカが手を上げる。その勢いに引き込まれるように、私はするすると引っ張り上げられる。
そのまま長く細い管の中を通り抜けるように引きずられた。私は悲鳴をあげる。逃げようとする。しかし体がいうことをきかない。
続けて急激な落下感。どこまでも落ちていく。私は悲鳴をあげ続けた。
そして気が付くと、私はベッドに寝かされていた。
首を巡らせる。見たこともない男たちの間に、彼女がいた。
「眼が覚めましたか」
トリカが言った。
「眼が覚める?」
「あなたはずっと眠っていたんです。眠りの中で不眠を嘆きながら」
言われてやっと、気が付いた。
「じゃあ……私は本当に夢を見ていたのか」
「そういうことです」
「そうか……」
安堵の息をつく。あれはみんな夢だったのか。
そのとき、トリカの傍らにいた男が私に言った。
「では正式に。竹島宗司、竹島佳子殺害の容疑で逮捕する」
手首に冷たい手錠が掛けられた。
「どういうことだ? あれは夢だと……」
「あなたは夢の中に逃げていたんですよ」
トリカは囁くように言った。
「だからわたしが、連れ戻したんです」
「どこに逃げようと無駄だよ。たとえ夢の中でもな」
手錠を掛けた男が笑った。
太田忠司既刊
『ミステリなふたり
ア・ラ・カルト』