(PDFバージョン:mydeliverer13_yamagutiyuu)
わたしはあなたを愛するからだ。おお、永遠よ!
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
私がぎゅっと目を閉じてから、何秒が経っただろう。鋭い痛みも何もなく、私は今か今かと拷問のような一瞬一瞬を生きていた。
私が着ている衣服と一緒に、胃や腸や膵臓や肝臓や子宮や卵巣が一瞬で弾き飛ばされるのを、今か今かと。どうせならひと思いにと。
だが、何も起こらない。
「美見里さん!」
佐々木三尉が私を手榴弾から引きはがし、敵の方に投げ返そうとする。そこで彼女は止まった。
「これは……」
私も転がされた体勢のまま、その手榴弾を見た。爆発していない。ホログラムで何かメッセージが表示されている。
(人間の生命活動を検知。EUIにより爆発回路を遮断)
そう表示されていた。
「これは……」
私も佐々木三尉と同じ言葉を繰り返す。佐々木三尉はあっけにとられた様子のまま、それでも説明してくれた。
「我が自衛隊の全ての兵装にはEUIが実装されています。殺す対象は今では人間ではなく機械の兵隊だけだから、EUIで人間の生命活動を検知したら止まるのです。しかし、こうなるとは思っていなかった。この手榴弾はラリラの支配下にあるから、あなたや私のウォッチではどうにもならないのかと思っていた」
「私の……ウォッチ……」
アパートの部屋を出る前に、リルリが丁寧に、優しく弄ってくれた私の身体の一部。それを私は見つめた。先ほどより強くEUI信号を発信しているように見えた。これは今までにも、ラリラに全てのEUIが支配されている中で、時に私の意を汲んで周囲の機械のEUIに介入し、私を救ってくれた。
それが、こんな形で再び私を護ってくれるなんて。私は寝転がったまま、微笑んでウォッチを見つめた。
「待って……。なぜ……こんな……ことが……」
ウォッチを見つめている私の耳に、佐々木三尉の言葉が聞こえる。身を起こし、慎重にバリケードの陰をはいずって、向こうを見やる。
銃撃が聞こえていないことは無意識に気付いていた。だが、今視覚でその状況を確認し、初めて意識して何が起こっているのか理解した。
「敵が撤退している……?」
確かに撤退していた。留卯の実験室、中央にリルリが座っていたリクライニングチェアを擁した比較的広い部屋を挟んで、私たちが入ってきた扉のあたりにラリラと、ヒューマノイド兵が二、三人、銃を構えてこちらを窺っている。
「試しに撃ってみます」
佐々木三尉はサブマシンガンで二、三連射、向こうに放った。だが、撃ち返す気配はない。ただ身を隠し、こちらを窺っているだけだ。ラリラの悔しそうな顔がきつく私たちを、いや私を、にらんでいる。
「彼我の戦力差は圧倒的……のはずです。海南戦線に我が自衛隊が派遣したヴェイラーは数十機、一個連隊分。それを全て連れ戻してきたわけですから、彼女が連れてきた兵力は最大一個連隊。対して人間側、RUFAISの戦力はそれぞれの拠点に最大でも一個中隊がせいぜい――。その状況で、こんな風に攻撃の手を止める理由には、彼女らがもはや銃を撃てない、ということしか考えられません」
「なぜこんなことが……」
佐々木三尉の質問を今度は私が口にする。
「考えられる要因はただ一つ。あなたのウォッチです」
三尉は語を継ぐ。
「つまり先ほどの手榴弾と同様、生きている人間を狙って弾丸を発射することができなくなったのです」
「さっきまではできたのに? ずっとウォッチのEUIは動いてたわよ?」
「それは……」
佐々木三尉は振り向いた。
エレベーターが動いている。彼女自身が破壊した操作パネルは無様に火花を散らすだけだが、明らかに動作音がする。上がってくる音だ。
そして、箱が停止した音の次に、二重の扉が開く。
「リルリ……」
私は呟いた。心臓の鼓動がはね上がっている。私がその生存だけを願い、先に逃れさせたロボット。私の意図と反した行動に、失望を感じなければならないはずなのに、私の心は、身体は、彼女を目の前にしてはっきりと高揚していた。理性ではない。抗しきれない自律神経の衝動が、私の身体を渦巻き、私の心臓の鼓動を早めさせるための信号を、顔の血流を増大させるための信号を、そして、脳にこれがポジティブな事態なのだと教え、記憶させるための信号を送り、それが脳の辺縁系で展開されて感情が成立する。
心臓、血管、脳を含む全ての臓器がそれぞれのやり方でこの自律神経の方向付けに従属した。
私は一歩を踏み出す。そして二歩。三歩目からは駆け出す勢いで。
「リルリ!」
リルリも私に向けて駆けだしていた。〇・五秒後、私は、そしておそらくリルリも、何かを考えるよりも早く相手をしっかりと抱きしめていた。
「馬鹿……なぜ戻ってきたの」
口ではそう言った。溢れるような喜びの情動の中で、辛うじて残っていた理性――自分の未来を望んだとおりに実現するための情動が、計画に外れたリルリの行動を非難するよう要求したのだ。だが、その声に力強さはない。非難は言葉の上だけのもので、その抑揚とトーンは寧ろ「愛している」という囁きの方が相応しいぐらいだった。
「恵衣様……私は一つ、考え違いをしておりました」
リルリの返答もまた、言葉はともかく、その音に込められた抑揚と艶は、私と同様のものだっただろう。浅ましく期待しすぎた私が聴覚を自分に都合の良いようにゆがめているのでないかぎり。
「私の望みは、恵衣様の命令に従属することではなかったのです。恵衣様と一緒に生きること。それが一番の望みだったのです。そのためには、あなた様のご命令であっても、私の意志に違(たが)うからには、聞けないこともあったのです。ごめんなさい恵衣様。ごめんなさい……」
そうささやく声の甘さは私の情動をいやが応にも高ぶらせた。
なぜここまでこのロボットにのめり込んだのか。問われれば少し考えたあと、私は答えたかもしれない。
――抑えても抑えきれないリルリの輝きが私の情動を惹き寄せた――と。
それは留卯に定義させるならWILSとでも言うべきものだったのかもしれない。そしてそれは、私が今まで生きてきた人生の中で、ついぞ周囲の人間に感じたことがなかったほどの濃さと切実さを持っていた。羅蘭瑞(ららん・ずい)ですら私が会った中ではWILSの濃い人間だった。他は「ふくしの大学」の少女のような人間ばかりだった。
私はそれに惹かれた。それを叶えてやるために何ができるか夢中で考えているうちに、リルリそのものに夢中になっていた。この残酷な世界の中で、アイドルになりたいという彼女の夢を叶えてやりたい。アイドルになった彼女が見たい……と。
ただ、そうした分析的な理性は私の情動の嵐の中ではほんのそよ風ほどの要素にすぎなかった。この感情の理由や由来などもはやどうでもよかった。今はただ、全身でリルリを感じていた。
有機ヒューマノイドの身体特有の、耳元で聞こえる息づかい、抱きしめる華奢でしなやかな身体の暖かさ、柔らかさ、全てを。
私は思った。
この瞬間を永遠に繰り返したいと。
この瞬間のためなら、何回でも私の人生を繰り返したいと。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』