(PDFバージョン:otonosima_sekiryuuji)
1・クリスチャン・ボルタンスキーと会う
2016年8月12日、筆者は香川県と岡山県の中間に浮かぶ「豊島」(てしま)を訪れた。クリスチャン・ボルタンスキーの新しいインスタレーションを見るためだ。
クリスチャン・ボルタンスキーは、現代を代表するアーティストだ。現代最高のアーティストと言ってもいいかもしれない。
ボルタンスキーは古着を使ったアートで知られる。大量に購入した古着を天井からつるし、鑑賞者に提示(インスタレーション)するのだ。既製品とは違い、古着にはそれをきた人間の「形」が刻印される。ちょうど新しく買ってきた靴が、履きなれることで自分の足の形に合うようにだ。
こうした既製の服に刻印された人間の姿・形を大量に見ることで、鑑賞者は自分たちが既製の生の中で生きていることに気づく。と同時に、ナマのままの生がいかにおぞましいものかにも気づかされる。ボルタンスキーの作品は、常に合理的なものと不合理なもの、科学技術と生身の身体、生と死の間を浮遊する。
「わたしが常に関心をもっているのは、『disparition(消滅、消去、死)』であり、それは一貫して変わりません。わたしの作品は、人間と直接かかわるもの。人間の『魂』の神秘性のシンボルなのです」(ボルタンスキー)
ボルタンスキーが、豊島(てしま)で作品を公開するのは初めてではない。2008年に豊島の東部に心臓の音を収集するアーカイブを作り、収集した心臓音を音楽として爆音でながすアートを公開している(「心臓音のアーカイブ」)。
希望する人は、ボルタンスキー特製の聴診器で自分の心臓の音を採取し、このアートに参加することもできる。採取された自分の心臓音は、あとで作品空間で聞けるのだが、それは合理的(医学的)に切りとられたナマの生(自分の生)をじかに体感する貴重な経験となる。典型的なボルタンスキーらしい作品(インスタレーション)だと言えるだろう。
それと比べると今回、公開された「アニミタ」という作品は、ずいぶん趣きが違う。
山の中腹のけもの道の向こうに、その作品はある。
枝のような棒につるされた風鈴が、ときおりチリンチリンと音を鳴らす。
短冊はアクリル製で、アクリルに反射した光が、ほたるのように周囲に飛び跳ねる。
静かな、しかし躍動的な空間がそこにはあった。
アクリルの短冊には、希望者にとって一番大切だった故人の名前を書くことができる。
希望者は一番大切だった人物の名前を書き、風鈴につるすことで、その人が生物としての死を迎えてもなお、自分の記憶の中でヴィヴィッドに生きていることを確認するだろう。
ある意味、ボルタンスキーらしい作品を期待して「アニミタ」を訪れた人は、その淡泊さに拍子抜けするはずだ。圧迫して来るようなナマの生の息苦しさ、そうしたものはこの作品には感じられない。むしろナマの生を昇華した「記憶」として生が、表現されている。
記憶と生という問題は、ボルタンスキーにとって重要なテーマだ。人間は死ぬことで風のように消えてしまうのではなく、他の人の記憶(心)の中で生き続ける。その記憶の中でいきる生こそ本当の生なのだ。「人は人の記憶の中でしか蘇らない」(ボルタンスキー)。三島由紀夫や唯識思想にも似た死生観にボルタンスキーは、強く共鳴している。私にはそう思えた。
2・豊島美術館――サウンド・アートの完成形
内藤礼と西沢立衛は、豊島の丸みを帯びた棚田に調和する水滴のような白い建物を作った。豊島美術館だ。イギリスのアート誌では世界最高の美術館と評されている。
中に入ると、なだらかなドーム状の空間に、ぽっかりと二つ大きな丸い穴があいている。そこからは真っ青な豊島の空が見え、夏の日差しが燦々と降り注いでいた。
丸い日差しのわきに立ち、中心をながめる女性の写真は、特に有名でポストカードにもなっている。
この美術館は形態として最高のものだが、音響空間としても完璧だ。
ジョン・ケージ登場以降、世界のサウンド・アーティストたちは競って他の音を聞かせる音――私たちが普段、聞き逃している音に気づかせる音や、聴覚だけでなく他の感覚――視覚、触覚、空間感覚をも刺激する音の開発に躍起になってきた。
ロルフ・ユリウスは、自然の風景の中にあえて人工的な電子音を入れることで、私たちが普段、接している自然の音や風景が、いかに美しく豊かなものであるかに気づかせようとした。鈴木昭男は、「耳」で聞くことの重要性を訴え、自分がよいと思った音のあるところに耳のマークをペイントし、そこに鑑賞者をいざなった。
ケージの提唱した、かすかなものへの愛、かすかな美しさへの愛は、その後継者によって継承・発展させられた。しかしそれは必ずしも、十分に完成されたものとは言い難かった。
ドーム型をした豊島美術館は、意図されたものかどうか分からないが、音がよく響く。事前に、中はたいへん音が響きやすく私語をつつしむようにと注意があるくらいだ。事実、この空間では、人の足音、気配、息づかいすら全体に反響する。当然、窓の外から聞こえる風の音、木の葉のざわめき、アブラゼミの声も、こだまする。丸い窓につるされた白い糸の揺らぎをみながら、鑑賞者の感性は次第に研ぎすまされていくはずだ。
中央の水たまりに浮かぶ波。その水たまりに蛇のように姿を変え、吸い込まれていく水滴たち。瞑想をさそう空間の中で――事実、ヨガのポーズをとっている外国人が何人かいた――鑑賞者の感性は、わずかなもの、かすかなもの、そしてそれらの放つ一瞬の煌めきへと開かれていく。
ケージが発見し、90年代から2000年代にかけて多くのサウンド・アーティストたちが、求めてやまなかった最高の音響空間、サウンド・アートの完成形がここにはある。
同じアートスペースでも直島(香川県)が、安藤忠雄、クロード・モネ、李禹煥など優れたヴィジュアル・アート(視覚芸術)が集められている場所(サイト)であるのに対して、豊島は優れたサウンド・アートの集積地(サイト)と言えるだろう。
激しい雷鳴、豪雨、稲妻を体感できるストーム・ハウス。形態が音響ととともに溶解していくピピロティ・リストの「ソリューション」。
直島が「視覚の島」とするなら、豊島は「音の島」だ。
島の中心部、唐櫃岡(からとおか)で自転車をとめると、真っ青な空と群青色の海が広がっていた。棚田には青々と育ったイネが所せましと植えられ、草刈り機のブーンという音が、周囲にこだましていた。遠くからはさざ波の音がわずかに聞こえ、クルーザーの波をきる音さえ聞こえそうだった。
休憩所のスクラップブックには、英語でこんなことが書かれていた。
「豊島。よい人、よい場所、よい景色。ありがとう」
(追記)
ボルタンスキーの回顧展が、9月22日から12月25日にかけて東京都庭園美術館で開かれる。関心のある方は寄られたい。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/160922-1225_boltanski.html
(リンク)
ボルタンスキー「心臓音のアーカイブ」
豊島美術館
関竜司 参加作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』