(PDFバージョン:mydeliverer12_yamagutiyuu)
あなたがたの同情ではなくて、あなたがたの勇敢さこそこれまで不幸な目にあった人たちを救った。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
「くっ!」
佐々木三尉は部屋のテーブルを横倒しにして盾にし、私を床に押さえつけてテーブルの陰に隠れさせる。小銃を構え、ラリラを狙い撃つ。ラリラがひるんだ隙に、自分の身体を盾に私を隠しつつ、断続的に銃撃、部屋から脱出した。
「こちら佐々木! 三〇四士官室に目標侵入! 分隊規模! 敵の橋頭堡と思われる。現在美見里氏を連れ退避中!」
無線機にそう叫ぶ。隣室に控えていたのであろう、RUFAISのマークを付けた人間の自衛官らが飛び出してくる。そのまま、私たちがいた部屋に突入。激しい銃撃音が響く。
「こっちへ!」
佐々木三尉に腕を引っ張られ、私はひたすら防衛省の官舎の中を駆けていく。
「大丈夫なの!?」
やっとのことで、私はそれだけを言う。
「黙って。舌をかみます」
佐々木三尉は言い、たっぷり一分ほど全力で私の手を引いて走った後、同じフロア内のある部屋に連れ込んだ。そこは分厚い防弾扉で護られており、内部は金属光沢のある壁が特徴的な空間であった。先ほどの士官室の、およそ五倍程度の広さがあるだろうか。
その中心に、リルリがいた。リクライニングチェアのようなものに横たえられている。頭に、天井からつるされた直径五〇センチほどの半円形のデバイスをかぶせられており、目を閉じている。
それを見守る後ろ姿――留卯だ。迷彩服の上に白いコートを羽織っている。
「来たのね」
その言葉の主語が、私たちなのか、或いはラリラなのか、私は一瞬迷う。
「はい。襲撃です」
佐々木三尉はそう答えた。
「予想より三分ほど早いわね……市ヶ谷ならもう少しもつと思っていたけど」
独り言のように呟き、それから私に向き直る。
「美見里さん。我々はあなたに命じることはできないので、要請になりますが」
改まった敬語だ。留卯のような人格の人間が使うと逆に新鮮であった。
「我々RUFAISだけが、この危機に対処し得る実力であることは、既に佐々木三尉からお聞き及びと思います。そのRUFAISの本部であるここ市ヶ谷が、ラリラから現在攻撃を受けており、これを排除しなければ我が国はこの危機から復帰できる見込みがありません」
それはもう分かっている。それで私にどうしろと言うのだ。
私の顔にはそんな怪訝な表情が浮かんでいたに違いない。留卯はそんな私の表情を、柔らかく、ある意味で優しげに見つめた。それは人間に対するというより、リルリを見るときのような目に似ていた。私の内面を見透かすような、感情を分析するような瞳。とびきりの美人というわけではないが、整った顔立ちの留卯には、その内面から放射される強烈な意志と知性の輝きがあり、それが彼女を顔立ち以上に魅力的に見せていた。
「要請は、この子に、リルリにモチベーションを与えて欲しいということです」
「どういうことよ」
「そうね」
留卯は敬語から普通の言葉に切り替えた。その方が妙な気持ち悪さがなくていい、と私はほっとした。
「ニーチェを知ってるかしら」
「教養としてはね。既存の宗教と価値観を否定しようとした扇動者」
「あら? ずいぶん否定的に言うのね。彼は当たり前のことしか言っていないのに。彼は三つのことしか言っていない。まず、『生きる目的は宗教などに頼らず自分で見つけなさい』。そう、神の死。そして『その目的のために、昨日までの自分に勝つつもりで日々努力しなさい』これが超人。最後に、『その努力の日々を、あなたのお気に入りのワーグナーの音楽のように、何度繰り返し聞いても楽しいような、充実したものにしなさい』これが永劫輪廻」
白いコートのポケッに両手を突っ込みながら、留卯は言う。
「ラリラはロボットのニーチェよ。そして神は人間。彼女は人間は死んだと言った。人間に奉仕するという価値観が死んだということ。そして自分たち自身に奉仕するのではなく、未来の自分達に奉仕すると言った。これは超人よ。彼女が永劫輪廻まで考えているのか分からないけれど」
「それがどうしたのよ」
私の問いは簡潔だった。
「リルリも、ラリラのようにならなければならない。あなたに従うというのは彼女が自ら選んだ生き方。決して『人間に奉仕する』というプログラムの故ではない。ここまではいいのよ。けれどね……」
留卯はそこで、リルリの頭部を覆うデバイスのスイッチを押した。ゆっくりとデバイスが持ち上がり、リルリがぱっちりと目を開く。美しい瞳が私を見つめる。そう、リルリの瞳は青だ。
「恵衣様……」
リルリが私の名を呼んだ。創造主である留卯よりも早く。私はじわりと身体の奥で震えるものを感じた。無意識に一歩近づく。また一歩。
「そう、第一段階はクリアーしているのよ。問題はその次なのよね」
留卯が呟いた。そして、次の瞬間。
大音響が私の耳朶を打った。
反射的に振り向く。もうもうとした白煙。その向こうに、点滅する赤いドローン。その下で、ぎろりと私をにらむ瞳。ラリラだ。
「では、さようなら。あなたが要請を叶えることを願っています」
見ると、背後、脱出用と見えるドアのそばに留卯がいた。
「隊長! この計画は修正されたはずでは!」
佐々木三尉が叫ぶ。留卯は感情のあまりない瞳で三尉を見つめた。
「ならばあなたは残ってもいい。あなたの存在の有無などたいしたファクターではないから。任務ご苦労、と言っておく」
次の瞬間、留卯は扉の向こうに姿を消した。白いコートの裾が扉の向こうに消える。佐々木三尉は舌打ちし、リルリが身を横たえていたリクライニングチェアの陰に私を引っ張り込む。リルリも素早く私の隣に滑り込んできた。
佐々木三尉はサブマシンガンを構え、侵入者に向けて連射する。
「どういうことなの」
声は自然と低くなる。もっと大きな声で詰問したいところだが、状況がそれを許さない。
「美見里さんを危険に晒してリルリの覚醒を促すというのがもともとの留卯の計画でした。しかし自衛隊ではそんなことは許されません。だから美見里さんにリルリへの説得だけしてもらう。そのはずでした。ところが――先ほどの通りです。留卯は修正された計画に従うとみせかけて、侵入者が来るまでの時間稼ぎをし、そしてご覧の有様です」
三尉の言葉は彼女がサブマシンガンを連射する合間に途切れ途切れに続けられたため、事情説明にはたっぷり一分はかかっただろう。
「限界ですね」
彼女は数度目の連射の後、チェアの陰から侵入者の様子を窺いつつ、呟いた。彼女は手榴弾を入り口付近に放り込み、直後私の手を引いて、留卯が出て行った出口から脱出する。それに続くリルリ。佐々木三尉が扉を閉めると、重々しい音が響いた。留卯が使った脱出口なだけはある。鋼鉄製の頑丈な扉であった。
そして直後、扉の向こうで轟音が響いた。三尉が投げた手榴弾だ。
轟音の後、妙に静かな一瞬が訪れる。三尉がスイッチを押し、その空間が明るくなった。そこはエレベータホールであった。佐々木三尉はリルリに向き直り、言う。
「R・リルリ。あなたにもし留卯が期待したような感情が芽生えているのなら、そろそろ潮時よ。あなたの力で美見里さんを救いなさい。留卯がプログラムは与えたはず。私には、もう限界」
三尉は言う。疲労がじっとりと彼女の声を包んでいる。
「黙っていただけますか」
丁寧な言葉で、リルリは答えた。三尉は一瞬、目を見開く。それから、納得したように呟いた。
「そう。既に人類一般の命令に従う存在ではないのね、あなたは」
リルリは三尉には答えず、私にしっかりと向き直った。その薄茶色の双眸に、私の顔が映っている。
「恵衣様。私はあなた様に仕えると決めました」
真摯に私を見つめている。
「ここで、ラリラを倒せと仰るのなら、私はそうします」
しかし私は首を振る。ゆっくりと。留卯の言葉にもあったとおり、それではダメなのだ、という判断も頭の片隅にはあったかもしれない。しかし私の最も大きな動機は、リルリに傷ついて欲しくないということであった。たとえ彼女が私の命令だけは聞いてくれるのだとしても、彼女に私を護らせる、という考えには私の意志は全く向かなかったのだ。
分かっている。彼女の方が人間よりも能力があることは。けれど、私にはリルリがいつも私に向けてくれる笑顔が忘れられない。途中まではロボットのプログラムのゆえだったが、途中からはリルリ本人の意志による笑顔であった。もしかしたら、最初からそうだったのかも、と信じたい想いも私の中にはあった。例え私がその笑顔を見ることができなくなってしまっても、リルリにはいつまでも幸せでいてほしかった。
だからこそ、歌いたい、踊りたいと言った、彼女の言葉が、私の胸には強く刻み込まれている。彼女の為にそれをさせてやりたいという強い想いは、既に私自身のものとなっていた。この社会でそれがどうやって為せるのか、全く想像もつかなかったが、少なくともその夢が叶う前に彼女が死んでしまってはダメだと言うことは分かりきっていた。
「あなたは逃げなさい。ラリラの命令に盲従しなくてすむようになったのは良いことだと思う。でも、そうやって自由になったあなたを、もう一度私という人間の都合で動かすことはもう私にはできない。これは私たち人間がもたらした問題。私たち自身で解決しなければいけない」
「美見里さん……それは……」
佐々木三尉は私の言葉に愕然としている。だが私は言った。
「ごめんなさい。でもどうしても、もうリルリを巻き込むつもりにはなれないの。ここでラリラを倒して、リルリを逃がす。そうしてあげたいの」
私よりもリルリを優先する。その選択に、彼女はたっぷり数秒間、戸惑っていた。だがやがて、彼女の目から驚愕の成分がすうっと引いていき、後には親しみと理解の感情が残った。
「……そうですね。これは人類とラリラの問題です。リルリは関係ない。逃がすべきでしょう」
佐々木三尉は言って、下へ向かうボタンを押した。
「留卯が使った脱出口は、最下層にあります」
リルリは私たち二人の会話に戸惑っているようだ。
「でも……私は……」
「行きなさい。ラリラから逃げて、留卯からも逃げて。あなたが生きたいように、あなたの人生を生きるのよ。もうあなたはただの人間の命令を聞くだけの機械じゃない」
ちょうどエレベータがやってくる。私は突き飛ばすようにして、リルリをエレベータの中に入れた。リルリは私に抵抗しようと思えばできたであろうが、ただ目を見開いて私を見つめるばかりだった。エレベータの扉が即座に閉じ、最下層に向けて下り始める。ウォッチを通じて、私の思いに反応してくれたのだ。ウォッチは私の生体信号だけでなく、私と周囲の人々の会話も常に把握し、私の意を汲んでくれる。
エレベータが急速に下っていく音がする。リルリだけは無事でいて欲しい、という私の思いを載せて。リルリと一緒に逃げる、という選択は、もとより私の中にはなかった。一つには、リルリのアイドルロボットとしての運動能力の足手まといにならないためであった。そしてもう一つには、これが私の選択であり私の思いだからだ。
佐々木三尉は、或いは無理矢理私もエレベータに乗せようかと思っていたのかもしれないが、私の動作があまりにも決然としていたからか、あきらめたように私を見つめていた。たった二人、エレベータホールに取り残された私は彼女と見つめ合う。
「……本当に、残ってしまうとは……」
呆れたように言う。それから私の双眸を覗き込んだ。
「残ってしまった以上、覚悟はできていますね?」
そう尋ねた。
私はつばを飲み、頷く。
「つきあわせてしまって、ごめんなさい」
『私の選択』という思いが強かった私は、そう言った。佐々木三尉にとっては、リルリと私たち二人ともエレベータに乗るのが最善策だったはずだ。敢えてそれを『リルリだけを逃がす』という私の意志につきあわせた。それが申し訳なかった。
だが彼女は淡々としていた。
「どんな状況でも、私はこうしたでしょう。あなたは日本国民です。或いは、人間です。国際社会の中で、日本人と、そして可能な限り全ての人を護るのが、私の使命です。あるべき私です。『あるべき自分』になれないのは、怖いから」
凄絶な笑みを浮かべた顔。
「手伝う。戦うのを」
私は思わず言った。旅行会社の社員に何ができるか分からなかったが。
「いいえ。無理です。これは高度にプロフェッショナルな仕事ですから」
「何かしたいわ」
「では祈っていてください。二人とも、助かるようにと、生き残れるようにと――そして」
敢えて言わなかったが、佐々木絵夢が死ねば私が生き残れる可能性はない。それを言外に優しく伝えられたような気がした。それから、佐々木絵夢は淡々とした表情を崩さず、付け加える。
「それが無理な場合にも、ちゃんと、それぞれの魂が、行きたい場所に行けるようにと」
ガイドということだろうか。確かに旅行会社の仕事かもしれない。
「あなたはどこへ行きたいの?」
「地元の護国神社ですね」
彼女は明確に言った。
「山口県です」
と付け加える。手元のサブマシンガンを忙しくチェックしながら。
私の行きたい場所は別だった。そもそもそれほど篤い宗教心を持ってはいない。ただ、家族と一緒の場所に行きたいと思っていた。ならば、家族が信仰する宗派の仏に祈るのがよいだろうと心に決めた。
だが、家族とは一緒になれてもリルリとは一緒になれまい。あの娘が信ずるのは何だろう?
最期に聞いておけばよかった。彼女にも明確な答えはないにしても、二人の間で合意が得られれば良かったのだ。二人が死後にどこに向かうのかについて。それを聞けなかった。それだけが後悔だった。
だが後悔先に立たず。私は祈った。
(どうか、私たち二人が生きて帰れますように――。それが叶わないならば、せめて勇敢な佐々木絵夢の魂が、山口県の護国神社に迷わず行けますように。そして私の魂が、ロボットやAGIそれに人間が共通に行ける天国に、行けますように)
私たちを護っていた鋼鉄製の扉が爆破された。再び開始される銃撃戦。
佐々木絵夢は、誰もリルリを追えないよう、エレベータの操作パネルを破壊した上で、エレベータホールに積まれていた資材で即席のバリケードを築き、私を護って果敢に応戦していた。
私は同じ祈りを繰り返している。銃撃戦が続く中、不思議と平静な気持ちだった。覚悟というやつを決めたからだろうか。それとも安堵感か。私は自分の身よりも、いつの間にかリルリの身の方を心配するようになっていた。そして嬉しかった。その想いが、土壇場で素直に示せたことに。
突如、手榴弾が目の前に転がる。私たち二人のささやかなバリケードの中に。
佐々木絵夢は迷わずその手榴弾に身を投じようとする。だが、彼女は銃撃戦に集中していたため、反応が一瞬遅れていた。
そう。私の方が僅かに速かったのだ。映画か何かで、こういうときはこうするものだという考えがすり込まれていたからかもしれない。だがそれだけでは動けなかっただろう。リルリを巻き込まない、逃がす、という、現代の人間社会の倫理では全く考えも及ばない私の考えに即座に賛同し、自らの命を賭して戦ってくれた佐々木絵夢に、私は深く感謝していた。彼女の役に立ちたかった。
一瞬でそう思考し、とにかく、私は手榴弾の上に自分の身を投げた。
(できれば、それほど痛みを感じる前に、意識がなくなりますように)
最後にそう祈った。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』