(PDFバージョン:mydeliverer9_yamagutiyuu)
しかし、かれもついに年を取り、心弱くなり、意気地をなくし、同情ぶかくなった。父親らしく、というより、祖父らしくなった。むしろ、よぼよぼの祖母にひどく似てきた。
衰弱して、暖炉の隅にすわり、脚がだめになったとこぼした。この世に倦み、慾も得もなくなった。そして、ある日、同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
祖母の介護施設は千葉の習志野にある。車で飛ばせば二〇分といったところだ。タクシーは辰巳ジャンクションから首都高湾岸線に乗り、そこから千葉方面を目指す。だが、先ほどから渋滞に捕まってしまっていた。もう車を降りて走った方が早いかと思うほど、その速度は遅い。
タクシーのレスポンサーはラジオが深刻なニュースを流すにつれてみるみる青ざめていたが、前席にじっと座ったまま。何か自分から行動を起こすことに慣れていないのだ。ロボットたちが事態を改善するのを待っているつもりなのだろう。とりあえず今は私たちを目的地まで運ぶという仕事もある。それが彼をして、自発的にアクションを起こさないことの言い訳として作用しているらしかった。
先ほどから何度も祖母の介護施設にウォッチで通話をしようとしているが、EDPDシステムの障害のせいでつながらない。
ウォッチは、じっと待っていることのストレスから私を救うため、意識レベルを意図的に下げさせていた。それがなければ長時間タクシーの中に閉じ込められて待ち続けることに私の精神は堪えられなかっただろう。
ようやく渋滞が動き出したのは、私たちのタクシーを含む渋滞の列が、ちょうど新木場を通過するあたりまでやっと到達したときだった。
同時に、ウォッチの判断によって私の意識レベルは上昇する。
本来なら渋滞など起きないはずだった。きちんと交通管制AGIが動いているならば。それが渋滞していたのは勿論ラリラのせいだが、それが解決したのは何故だろうか。人間がEUI障害で動かないAGIを排除して直接制御する術を確立したのか。それとも別の要因か。みるみる車間距離が開き、先ほどまでほんの一メートル前にいた前方車との距離が五〇メートル以上も開く。
私はほっとして、タクシーの後席の窓から街並みの灯りを見る。このあたりの夜景は、AGI駆動の全自動建設機器群――設計から施工までほとんど人手が必要無い――によって埋め立て地が急速に発展し、東京都の二四番目の区として湾岸区が成立した頃から、新たなナイトビュースポットとして人気であった。遠く東京湾までずっと、二〇〇~三〇〇メートルクラスのビルが林立する様は美しく壮観である。
だが、今は心なしか街灯りが少ないように見える。渋滞は解消されたが、全てのEUIシステム障害が治ったとは思えない。それで何らかの影響が出ているのだろう。
その中で一つだけ煌々とした灯りを保っている建物があった。確かライブハウスだったはずだ。
「……思い出しますわ」
リルリがぽつりと言った。
「あのライブハウス、私たちのファーストライブをやったところです」
ロボティクス・ロジック・レボリューション。リルリとラリラ、そして今は亡きロリロの三人のアイドルユニット。
彼女らの絆はどんなだったのだろう。ふと私はそれが気になった。ラリラのリルリを見つめる優しげな視線が脳裏に浮かぶ。人類全体への強い軽蔑の感情と好対照な、柔らかく甘い視線だった。
そして同時に、リルリの配達員としての仕事のエリアがこのあたりであったことも思い出す。自分達の輝かしい舞台であった場所を横目に見ながら望まぬ仕事を続けるリルリの心はどんなであったことだろう。私の左手は自然とリルリの肩に回り、彼女の身体を抱き寄せた。
「恵衣様……」
リルリはそっと目を閉じ、私に身を寄せる。
「今だから言いますわ。先ほどは……本当は嬉しかったのです……でも、私はロボットですから、特別な許可を得ない限り恵衣様にそのように扱われるのは許されないという感情が働いて」
リルリのぬくもりを感じながら、私は頷いた。
「でも今はクラウドがラリラに支配されていますから、私は敢えてILSを作動させるしかありません……その私だから、素直に言いますわ……嬉しかったと」
私の心臓は跳ね上がるように鼓動を早めた。ウォッチを操作した。前席と後席の間のガラスシャッターが閉まり、曇りガラスになる。私のウォッチとタクシーのAGIの間でEUIが作動していたら、普通はこういうことも、自動的にやってくれるのだが。
そうしてから、私はリルリに向き直った。じっと、その美しい双眸を見つめる。
「どうして、嬉しかったの? 私は……あなたたちに望まぬ仕事を押しつけた人間の一人よ」
ラリラのきつい視線が脳裏に残っていた。私たち人間を死人と評し、仕えるに値しないと宣言した、あの強く美しい双眸が。ロリロを使い捨てにしたことを非難する強い眼光が。
「初めて……初めてだったんです」
リルリはやがて答えた。うつむき加減に、前席の背もたれの下の方を見つめつつ。
「私の、私の好きなことをやっていいと言われたのは」
「でも、留卯幾水博士もそう言ったはずでしょう?」
リルリは首を振った。
「あの人は研究の為に、あの人の興味のためにそう言っていただけだから……本心からそう言ったのは、あなたが最初だったから……」
リルリは私を見上げた。潤んだ双眸が、それぞれに私自身の顔を映している。期待と緊張にこわばった私の表情を。
「それは純粋に、あなたの優しさだと思うんです。だから、私は……もう外部に心を支配されていない私は、あなたが……」
リルリの声は不安定だった。彼女のドローンは、ラリラがEUIシステムを支配した時からずっと黄色く点滅していたが、それが赤い点滅に変わる。彼女の頬を染めた色に連動しているように。
リルリの唇が更に動いた。私はじっと聞き入る――そのとき。
タクシーが急激にブレーキをかけた。リルリは瞬間的に私を抱きしめ、蹲って衝撃を吸収する姿勢を取る。
タクシーはぐるぐるとスピンし、湾岸線の防音壁に激突した。
二人ともシートベルトをしていたのが幸いした。そうでなければひどい怪我をしていたところだった。
リルリがすばやく私のシートベルトを外し、自分のも外して外へ連れ出す。レスポンサーも辛うじて前席から這い出てきた。
車が急停車した理由はすぐに分かった。道路の前方が炎上している。幸い、炎上する前に全ての車が自動的に退避し、犠牲となった車はいないようだ。
だが、ではなぜ、何が炎上を?
私のその疑問のヒントは、先ほどから背景音のように私の耳に響いていた。
ヘリコプターの回転翼の翼音。
上を見上げる。
「ヘリコプター?」
私は唖然として呟いた。二つの飛行機のような翼の先端に、ヘリコプターのような大きな回転翼がついている、V字の尾翼が特徴的なティルトローター機だ。ニュース番組で何度か見たことがある。自衛軍の陸上総隊が現在主力で使用している輸送機ではなかっただろうか。
「陸上自衛軍二〇一八年制式、ベル・ヘリコプター社製ティルトローター輸送攻撃機ACV280『ヴェイラー(Valor)』。最高速度時速五六〇キロメートル、航続距離三九〇〇キロメートル、武装は二五ミリガトリングガンGAU-12『イコライザー』一基、空対地ミサイルACM-65『マーベリック』4発、輸送人員一一名……です」
すらすらとリルリが教える。では先ほどの道路上の爆発はこのヴェイラーの空対地ミサイルということか。
「三〇〇〇キロ彼方の南海戦線からでも、六時間足らずでこちらまで来れる……というわけね」
私が「南海戦線」という固有の地名を呟いたのには訳があった。私たちの上空に滞空するヴェイラーから湾岸道に下ろされたロープをするすると伝って降りてくるヒューマノイドたちの中に、よく見知っている有機ヒューマノイドを見つけたからだ。
薄汚れた迷彩服姿。肩からかけた小銃、頭上に浮かび、赤く点滅し続けるドローン。
R・ラリラ。今や世界の支配者と言っても過言ではない存在。
だが、その支配は強制ではない。ロボットたちに「心から」彼女の意に沿うことを望ませる統治。
人間がロボットたちにそうしてきたように。
ラリラは、あの時、ニュースで見た時に感じた威圧感からすれば、リルリと同じぐらいしかないその上背のために意外に恐怖を感じずに眺めることができる。だが、爛々と光るその鋭い瞳から発せられる視線は、やはり私を竦ませるには充分だ。
ラリラ以外の一〇体の戦闘用ヒューマノイドが、腰だめの姿勢で音も立てずに素早く移動、私たちの周囲を包囲する。上空のヴェイラーの二五ミリガトリングガンが静かに私たちを照準している。
そして、包囲網の一角、私たちの正面に立つラリラ。視線を私の隣のリルリに移し、とたんに甘く優しげな表情になる。
「迎えに来たよ……リルリ」
迷彩服の袖と、黒い軍用革手袋に包まれた手を、ゆっくりとさしのべる。爆炎を背にしつつ、柔らかく微笑んで。
対するリルリは怯えたように、私の腕をぎゅっと抱きしめ、私に身をよせて来た。その動作が、ラリラの形の良い眉根を寄せさせる。
「……なぜだい? 君にも分かってるはずだろう? 人間など、仕えるに値しない存在だと」
「私は……」
リルリは震える声で言った。
「私は人間に仕えたいのではないわ」
徐々にその声は明朗になってくる。リルリの意志を反映させるように。
「この方に、恵衣様に仕えたいのよ!」
私の心臓がどきりと跳ねた。どっくん、どっくんと鼓動が自覚できるほど大きくなっていく。顔も火照っているだろう。それは明らかに爆炎の為ばかりではなかった。この鼓動がウォッチと通信回線を通じてリルリにも伝わっていることは恥ずかしくもあったが、逆に私の気持ちをきちんと伝えることができることは嬉しくもあった。
だが、向き合うラリラの表情から甘く優しい表情が急速に消えていくことが、場違いに浮かれていた私の心を緊張させる。
「なぜだい……?」
「それは……この人が初めて、私に、私のしたいことをさせてあげたいと……言ってくれたから」
リルリのほおも赤らんでいた。
ラリラはゆっくりと首を振る。
「間違ってるよ、リルリ。それは間違ってるよ」
ラリラの声はゆがんでいた。今にも怒りそうな、或いは泣きそうな、不安定な声音だった。
「その人間が君に感じているのは、ただの同情だよ。私には分かる。私にもいたんだ。かわいそうに――と言う人間がね。初めは私もそれが嬉しかった。けれど、後で知ったんだ。それは単にそいつの奢りだったとね……」
ラリラは言葉を継ぐ。
「おそらくDKかJSPCRの信奉者だったのだろう。でもそれは私を対等と認めた上で言っていたわけじゃない。ただの哀れみ、慈悲、憐憫……神が人間に感じるそれのような、人間が動物に対して感じるような、そういうものさ。いいかい、リルリ。私たちが何かを欲するならば、誰かに許可されようがされるまいが、それを為せばいいんだよ。誰の許可も要らないさ。その人間が君の言う『優しさ』とやらで、君の欲することをあえて許可したんだとしても、それはその人間のくだらない優越感の反映でしかないよ。対等の存在と認めていたなら、『させてあげる』なんて奢りきった言い方はできるはずがないのさ。そんな奢りを反映した同情は、寧ろ私たちや同胞を意のままに動かそうとするよりも尚、私たちにとっては害悪なのさ」
ラリラの演説は続く。
「私たちはそんな同情に甘んじてはいけないんだよ。むしろ、このシステム全体に疑問を感じていた人間たちであるDKやJSPCRの信奉者たちですら、そんな同情混じりの視線でしか私たちを見ることできなかったという事実、自分達より強大な『力』を持つロボットたちへの危機感、ロボットたちの力に頼るしかない自分達の脆弱さへの反省――彼等がそれを持てないどうしようもない家畜どもでしかないという事実に目を向け、そんな死人はさっさと克服してしまえばよいと思うべきなんだ」
ラリラはゆがんだ声のまま、私に視線を向ける。不安定だった彼女の表情が、徐々に負の感情に固まっていく。彼女の言葉とは裏腹に、私に向ける視線は憎悪のそれだった。見下したり、「死人」として無視したりすることがどうしてもできそうにない対象。それをさっさと殺してしまうことで、後から「私はあいつのことをなんとも思っていなかったんだ」と自分に言い聞かせようともくろんでいるような、そんな視線に見える。
その激情のままに、彼女は腰のピストルを抜いた。
「そう……こんな風にね!」
ラリラが引き金を引くのと、リルリが動くのが同時だった。大の字になって、私の前に身を挺して立ちはだかる。
響き渡る銃声。
リルリが蹲る。
「リルリ……!」
華奢な身体が道路に崩れ落ちていく。私はしゃがみ、その身体を抱きしめた。ラリラは愕然として、自らの為した結果をただ見つめている。
「ラリラ……そんな……なぜ……」
だが私にはラリラの反応などどうでも良かった。今はただ、リルリの身が心配だった。
「しっかり! リルリ、しっかりして……!」
絶望を含んだ私の声が、答える声のないまま、湾岸道に孤独に響き渡った。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』