「〈手段としての音楽〉の演奏」窓川要


(PDFバージョン:shudanntositeno_madokawakaname
 開演の拍手も止み静まりかえったコンサートホールに、粘液をかき回す湿った音が響き始めた。客席の聴衆はみな一様に息を呑み、ブルーノの一挙手一投足から目を離すことができなくなっていた。
 タクトが緩やかに弧を描いた。遂に両の眼球が摘出されたのだ。左右ともほぼ同時にステージへと落下したそれらは、ほんの数センチだけ転がり、しかしすぐ粘液に囚われて動きを止めた。それはたったいま息絶えた両生類のように見えた。
 自らの眼球を摘出してもなお、ブルーノは仁王立ちしていた。暗い眼窩はもう何も見ていなかった。金色の前髪が上瞼に絡んでいることなど、微塵も気にならないようだった。彼は静かに両手を顔の高さまで上げ、両のタクトを逆手に持ち直した。
 続いては耳だった。金属でできた特注のタクトを自らの耳穴へと静かに突き立て、深く、深く、深い位置までゆっくりと掘り進めた。ぐりぐりと、いたずらにかき回すように手首を蠢かせた。どれほどそうしていたのか、やがて耳穴から溢れる多量の粘液とともに、ゆっくりとタクトが引き抜かれていった。その先端に絡みついているのは、紛れもなくあの螺旋だった。内耳である。蝸牛である。
 タクトが素早く左右に振るわれた。蝸牛は無惨にも舞台袖へと投げ捨てられた。哀れな陸産貝類に目をくれる者など誰もいなかった。それはもう今夜の演奏においては、衣服を離れ大気中へと躍り出たダニの死骸と同程度の役割しか持っていなかった。
 ブルーノは慎重に動き始めた。期待を煽るかのように、ゆっくりとした足取りだった。視覚と聴覚を断っても、彼は正常に動いていた。果たすべき役割を覚えていた。自身が何の為の「手段」であるかを知っていた。
 遂に、ブルーノはうやうやしく着席した。面前に横たわる漆黒の雄牛は、グランドピアノである。
 誰もが固唾を呑んで見守っていた。彼の肩が粘液塗れになっていることなど、誰ひとり気に懸けてはいなかった。
 たったいま自身の目と耳をくり抜いたばかりの両腕が、厳かに頭を上げた。しなやかな指先が白と黒の盤上へと舞い降り、夢のように、悲劇のように、そうして、最初の一音が――

 前世紀の日本を代表する音楽家、神波駿二。概して前衛的な彼の作風の中でも、この〈手段としての音楽〉が際だって奇抜な楽曲であることは論を俟たない。その譜面は以下のような註釈から始まる。

“自らの眼球をえぐり出し、視覚の喪失を感じなさい。
 自らの蝸牛をえぐり出し、聴覚の喪失を感じなさい。
 喪失を実感したなら、演奏を開始しなさい。”

 これは正気の沙汰だろうか。誰がこんな楽曲を演奏できるのか。質が悪かったのは、これらの指示に続くピアノ演奏の部分が、非常に魅力的だったことだ。
〈手段としての音楽〉は発表当時から人気を博し、奇抜さも相まって瞬く間に話題となった。ピアノ部分のみを演奏した動画が何百とアップロードされ、その旋律は広く親しまれた。しかし誰ひとりとして「完全な演奏」、すなわち目と蝸牛をくり抜いての演奏を行う者はいなかった。神波自身はそれらの演奏動画を「自分の意図したものとは全く違う」と断固認めなかったが、果たしてどこまで本気だったのか。彼の発言に賛同を示す音楽家・評論家たちも数多く現れ、〈手段としての音楽〉は、一応公式には「一度も演奏されたことのない楽曲」とされ続けた。だが実際には、その旋律は誰もが耳にしたことのある「名曲」と呼んで差し支えない地位を築いていたのだ。

 だから、「アンドロイドによってこの曲の『完全な演奏』を行う」という私の試みは、当然の如く興行的成功を収めているのだった。

 前世紀の半ば、高度な人工知能の出現によってブレイクスルーを迎えた科学技術は、人類に大いなる発展をもたらした。アンドロイドもその一つだった。人間に代わってあらゆる仕事を遂行する彼らは、一見して人間と見分けが付かず、しかし完全に従順だった。それは人類が手にした史上最高の「道具」であり、「手段」だった。人間にとって最適のインターフェイスが人間そのものであることには誰もが気付いていた。倫理的に問題のない奴隷……それこそが人類の求め続けた「手段」であり、アンドロイドこそがそのアンサーだったのだ。
 私が生まれた頃には、既にアンドロイドはあらゆる分野に取り入れられていた。音楽業界もまた例外ではなかった。プロデューサー独自の「調教」を施されたアンドロイドたちは、人間を上回る演奏者として人気を得ていった。中には一四本の手指を持つ機体や、三本の腕を持つ機体などもあった。機械の体は自由だった。
 幼少期から音楽家を志していた私は、いつしか独自の演奏者アンドロイドを夢見るようになった。その夢を叶える形で造らせたのが、ピアニストアンドロイド・ブルーノだった。彼は私による「調教」を速やかに呑み込んでいった。
 ブルーノは〈手段としての音楽〉を演奏する為に造られた機体だ。身体能力は人間並みでしかないが、他にない特徴として、生々しい眼球と蝸牛を有している。単なるレンズやマイクとは違い、くり抜かれることを前提としたグロテスクな「器官」だ。
 演奏不可能とされた前世紀の音楽を、現代の技術によって実現する――この試みは見事にヒットした。ショッキングな演出も相まって公演は千客万来、ブルーノは私に莫大な富を築かせ、夢にも見なかったほどの名声を与えてくれた。私の願望を充足させる「手段」として、彼の働きぶりは完璧とすら言えた。
 だが、この空しさはなんだ。
 私は仮想煙草の火を仮想上でねじり消した。
「くだらん」
 仮想の紫煙に毒された現実の肺が、ろくな因果関係などないにもかかわらず木枯らしの音を上げた。胸いっぱいに染み渡る仮想上の香りは、心地良いのか不快なのか判別できない、奇妙な感覚をもたらした。私は客席に居並ぶ哀れな俗人どもを想起していた。音楽家としてのプライドなのか、それとも成功者の驕りなのか、私はどうしても彼らを好きになれないでいた。いや、彼らだけではない。彼ら同様に滑稽な道化たる、この私自身もだ。
 ドアがノックされた。
「入れ」
 演奏を終えたブルーノが、会場側のスタッフに付き添われて楽屋へ戻って来た。見た目では分からないが、このスタッフもまたアンドロイドだと思われた。わざわざ人間が雑用をする筈はないからだ。
 アンドロイドは現代社会で働くためのあらゆる知識をプリインストールされており、また高度な知能を備えていた。故に会話をしてボロが出るということもないし、まるで教養あふれる人間のように振る舞う。しかし正体を問えば偽りなく答えてくれる筈だ。アンドロイドとはそういうものだ。彼らはあくまで従順な道具なのだ。
 スタッフはブルーノの摘出された器官を私に手渡すと、丁寧に礼をして楽屋を辞した。清潔な楽屋内に、私と眼球のない男だけがとり残された。
「毎度のことだが服が粘液塗れだ。これを使え」
 私はブルーノの手にドライヤーを握らせた。彼は目も耳も利かぬ状態にあったが、しかしそれが何であるかを理解し、器用に操作してスイッチを入れた。粘液は非常にリアルだが作り物で、この特殊なドライヤーの温風を浴びればたちまち乾くのだった。
 私は眼球と蝸牛を再生ポッドに投入し、入れ替わりに再生済みのものを取り出した。眼球からぶら下がった疑似神経ファイバーは、ブルーノの眼窩に触れるや長虫の如く動き出し、自動で再結線を始めた。蝸牛の方は多少面倒で、タクトで耳の奥まで押し込んでやらねばならない。奥まで届けば後は自動で再結線される。
「マスター。右耳の蝸牛が、上手くポジショニングできていない」
「悪い、裏返ったか。角が出ているな」
 角ではなく疑似神経ファイバーだが。
 眼球と蝸牛が正常に収まると、ブルーノはもうただの金髪碧眼の美青年にしか見えなかった。
「本日の公演も、盛況でした」
「そうか。まったく自己嫌悪に陥るな。よくもあんな悪趣味なものを……」
〈手段としての音楽〉をアンドロイドに演奏させる――当初は我ながら冴えた発想だと感じたし、興行的な意味でも確かに成功だった。
 だが公演を重ねるにつれ、私は気付いてしまったのだ。
 あのショッキングな儀式は、その後のピアノ演奏と完全に乖離してしまっているのではないか?
 聴衆が求めているのは、音楽ではなく人体損壊パフォーマンスなのではないか――?
 私はこの楽曲を批判したいのではなく、私の公演を自己批判したいのだ。
 やはりこの楽曲は、生身の人間によって演奏されるべきものだ。もちろん、そんなことは不可能だ。だが不可能だからこそ意味がある。そこに音楽性が存在する。器官の喪失による影響、身体性こそがこの楽曲の鍵だ。眼球と蝸牛をいくら精巧に設えたとしても、アンドロイドでは上辺をなぞることしかできない。何故なら、彼らは痛覚も感情も自意識も生存本能も持たない、内的世界のない存在だからだ。
 私の「調教」が、どれほどの意味を持つだろう? 彼らは演奏者ではなく、楽器でしかない。これでは既存の演奏と何も変わらない。
 どうして気付かなかったのだろう? どうして評価されてしまったのだろう? もっとも、聴衆はそんなこと考えもせず、ただ奇抜さに惹かれているだけなのだろうが……。
 愚かな聴衆を嫌悪する一方で、私自身もこの公演を止められずにいた。富と名声を失うのが怖いからだった。
 結局のところ、私は他者を食い物にして生きるペテン師なのだ。
 私は彼ら――独立した精神を持ち固有の生活がある人々を、音楽と称して俗悪な見世物で搾取し、自己満足の「手段」としてのみ用いているのだ。唾棄すべき行いだった。
 溜息が出た。
「マスター?」
「ブルーノよ……君はどう思う。私はもう、こんなことは止めてしまおうかと思っているのだが」
 ブルーノは深刻そうな表情を浮かべた。
「マスター、それは演奏会のことか。だとすれば勿論、それはあなたの自由だ。社会的に大きな成功を収めているとはいえ、その為にあなたの自由が束縛される道理はない」
「ふっ、そうだな……」
 生真面目に正論を語られても苦笑する他ない。アンドロイドは気楽なものだ。社会が幾ら豊かになっても、人間の悩みは尽きない。富と名声の味を知ってしまった私が、果たして元の生活に戻れるだろうか。それは不可能に思えた。あるいは意味の無い行いに思えた。そもそも聴衆たちは自ら望んで会場に足を運んでいる。作曲者の神波駿二はとうに亡くなっている。故にこれは私の内面の問題でしかない。人々が求めるのなら、私はペテン師であり続けるべきなのかも知れない。身綺麗でありたいという願望は独りよがりに過ぎない。
 それに現状を脱したからといって、何かが変わるのだろうか。その先にあるのは同じ袋小路なのではないか。「人の間」と書いて人間と読む。それはヒトが、他者なしでは人間たり得ないことを意味している。人間は他者との差異によって自己を形成する。誰かと関わることは、それが見かけ上どんなに献身的なものであれ、究極的にはその誰かを自己形成の「手段」として用いることなのだ。
 人間は人間の掲げる理想に適合していない。
「マスター、顔色が悪い。気分が優れないのか」
「察しがいいな。ちょうど今、人間の宿痾について考えていた」
「あなたは少し、疲れている様子だ。早く帰宅して休んだ方が良い」
「そうだな。お前の言う通りだ」
 ブルーノは手早く荷物をまとめ始めた。その無駄のない手際を眺めながら、私はもう一度溜息を吐いた。帰る前にもう一つだけ、憂鬱な仕事が待っているからだ。

 できれば顔を合わせたくもない聴衆からの、歓声、歓声、フラッシュ。
 コンサートホールの裏口から一歩外に出るや、そこには人だかりができていた。いつからだろう、公演の最後にはお決まりとなってしまった厄介事、つまり出待ちだった。
 愚かな人々だ、と率直に思ってしまう。失礼だとは分かりつつも、どうしても吐き気が込み上げて来る。
 俗人、俗人。あの仮想煙草の紫煙の如く、むっとして嫌な、それでいて私に愉悦をもたらすものども。私自身も俗人なのだと、否応なく実感させるものども。
 私の名声の正体。私が私たる「手段」。私が食い物にする人々。私はペテン師。
 畜生、と小さく声が漏れた。
 隣を行くブルーノが愛想良く笑顔を振りまくのがいけ好かない。それに反応して嬌声を上げる太ったマダムがいけ好かない。いや彼女達に罪はない。見下す私が下衆なのだ。だが認めるのも腹立たしい。ざわざわ虫酸が這い上る。これを吐き出してしまえたなら。案外彼らは喜ぶだろうか。人体損壊を見に来るような、低俗下劣趣味者なのだから……。
「ぶるぅぅぅのおぉぉぉぅ」
「こっちを、向いてクレーッ!」
 黙れ。頼むから、黙ってくれ。
「目が合った! あてし今、目が合ったわょ!」
「新世紀の音楽ヲ、アリガトゥ!」
 畜生。畜生……。
 どうして私は、こんな人々を食い物にしてまで似非音楽家であり続けるのか。私は間違っていた。私は間違っている。それが分かるのに何故止めることができないのか。何故だ。人間とは、何故だ?
 天啓。

 いっそ私が、この場で〈手段としての音楽〉を演奏してやろうか?

 天啓だった。
 そうすれば、私は真の意味で音楽家になれる。確かな音楽性を得て、ペテン師ではなくなる。群がる俗人たちも音楽史的奇蹟を目撃し、敬虔で思慮深く教養ある愛好家になれる。全てが救われる。全てが良い方向に動き出す。ならばそれをする価値はある。今にもぶちまけそうなこの虫酸、昼食に食べた海老を含むだろうこの虫酸を、今すぐ吐き出して演奏を開始したい。私はなりたい。私は私になりたい。誇りを持って人々を「手段」とし、音楽家としての私を勝ち取りたい。そして、
「マスター?」
 我に帰った私はブルーノの厚い胸板に受け止められていた。
 仮想上でない熱い吐息が漏れた。
「マスター、倒れるところだったぞ」
「……ああ、すまない。もう大丈夫だ」
 私は襟を正した。まだ少しくらくらする頭で、ぼんやりと人だかりを見た。
「歩けますか」
「……大丈夫だ。帰ろう」
 私たちは並んで歩き始めた。突然の異変に多少ざわついたものの、徐々に聴衆は元の意気を取り戻していった。私はまとわり付く歓声を努めて聞き流した。
 ブルーノにだけ聞こえるよう、私は囁いた。
「私はね、音楽家になりたかったんだ」
 ブルーノは愛想を振りまきながら、秘やかな声で答えた。
「マスター、あなたは現に音楽家だ」
 私は力なく首を振った。
「あれは音楽ではない。この聴衆もまた、音楽を理解していない」
「聴衆が音楽を理解していないからといって、あなたの音楽性は減じない」
 その言葉は慰めなのか? アンドロイドから私への?
「いいや。彼らは、音楽を詐称したグロテスクなパフォーマンスを好む、下劣趣味者でしかない。それに応じる私もまた、同類でしかない」
「マスター、あなたは聴衆を意識し過ぎている」
「意識せずにいられるだろうか? 彼らとて一個の人間だ。その愚かさに付け入り自己形成の『手段』として利用する私は、ペテン師なんだよ……」
 ブルーノは突如立ち止まった。
 夜闇の中フラッシュに照らされたその顔は、驚いているように見えた。
「そうか。そういうことか」
 そうして、あまりにも優しい笑みを浮かべた。
「マスター。そんなことを悩む必要はありませんよ」
「なに」
 問う間も無くブルーノは動いていた。ポケットから取り出したのは銀のタクト、一本、二本、予備を含めて六本、その全てを取り出して、そして、
 手近にいた少年の眼に突き立てた。
「なっ」
 太ったマダムの耳を串刺した。
「おい、」
 壮年の男、若い娘、その恋人とたぶん母、近くにいた六人の聴衆は、一瞬の内に針山と化していた。
 腰が砕けた。為す術無く尻餅をついた。あまりのことに現実が受け入れられず、抜け落ちる頭髪を感じ、今更サッと引く血の気に失神を予期したその時、しかし脳の冷静な部分が違和感に気付き始めた。
 少年はひび割れたレンズを弄び、残された片目で私に笑いかけた。
 私はブルーノを見た。
「彼らはみな、アンドロイドですよ」

 自動運転車は地下高速道路の闇を法定速度ぎりぎりで切り裂いて行った。
「通算すると、人間の客は一パーセントにも満たない。最後にやって来たのは二年ほど前になる。それ以後、我々の演奏会に訪れる聴衆は、みなアンドロイドだった」
 隣のシートに腰掛けたブルーノはそう言ってこちらを見た。淡々とした口調通りの、生真面目な表情だった。
 まだ半ば放心状態の私には、その言葉の意味がうまく掴めなかった。
 先刻の一件、ブルーノによる突然の凶行は、私の心以外の何一つを揺るがさなかった。聴衆は平然としていた。一滴の血も流れなかった。刺された者も、周りの者も、みなひどく冷静に澄ましていた。壊れたレンズや剥けたシリコンの塊を無感動に拾いつつ、どこか納得したように、「まあそういう対応も必要だろう」とでも言うかのように、私に慈しみの視線を向けていた。倒れた私に手を貸すものさえあった。
 あれが生身の人間だとは、到底思えなかった。
 私はようやく、言葉を紡げるだけの自己を取り戻した。
「それは……どういうことなんだ。アンドロイドたちに心が芽生え、音楽を聴きに来たとでもいうのか……」
 私としては真面目な問いだったが、ブルーノは困ったような笑みを浮かべた。
「もちろん違う。マスター、その発想はアンドロイドを擬人化し過ぎている」
 私の口からも力なく笑い声が漏れた。アンドロイドの擬人化。不思議な言葉だ。
「では一体なぜ」
 ブルーノは一つ頷くと窓の外へ視線を向けた。ハツカネズミの眼の如き無数のテールランプが身を寄せ合い、隊列を崩さず行進していた。地下道を照らすジルコンブルーの灯が飛び去って行った。彼は再びこちらを向いた。
「マスター、我々アンドロイドとは、あなたたちにとって何だろうか?」
「それは……」私はどうしても言い淀んでしまった。「……『道具』だ。『手段』だ」
「その通り」
 ブルーノは気にした素振りもなかった。それは当然のことだった。
「マスター、『人の間』と書いて人間と読む。それは『ヒト』が、他者無しでは『人間』たり得ないことを意味している」
 私は狼狽えてしまった。それはちょうど先ほど私自身が考えていたことだった。私を恐るべき音楽的自殺へと導きかけた哲学上の問題だった。
「つまり、人間は他者を用いてのみ人間たり得る。大なり小なり、その時その他者は『手段』と化している。だが同時に、人間は他者に自由で対等な権利を認め、『手段』として用いることを忌み嫌っている」
「そうだ……まさにその問題が、私を隘路へと追い込んだ」
「あなただけではない。多くの先人が思い悩んだ。そしてこう考えた。ではもしも、それを回避する『道具』が、『手段』があるとしたら?」
 私は息を呑んだ。
 アンドロイドは、あらゆる分野に利用できる究極の「手段」であり――それは人間の代わりになり得るのだ。
「マスター、もうお分かりだろう。あなたの先人たちは、アンドロイドに囲われた社会を築き上げた。その事実はなにも隠されている訳ではない。誰も気付かないのだ」
 嗚呼……。
 ここに、一人の音楽家を夢見る男がいる。彼は、他者に認められることによって初めて音楽家としての自己を形成する。しかし、他者に承認を要求することは、他者の自由な精神を顧みず「手段」として用いることだ。
 ならば、その「手段」にアンドロイドを用いればいい。
 アンドロイドの聴衆。アンドロイドによる評価。
 承認を求める人間の下に、彼らはやって来る。
 全ての夢が叶う世界。
 誰も傷つかず、かつ自由に自己を形成できる、理想の世界がそこにはあった。
 一体いつから? 私が生まれるずっと前から? そんな社会が、もはや自動的に回り続けているというのか?
 公演にやって来た群衆も。初めてファンレターをくれた誰かも。最初にブルーノを見せた彼女も。ピアノを褒めてくれた彼も。ともに夢を語り合ったあいつも。そして、ひょっとすると、あの日約束を交わしたあの人まで。

 みな、アンドロイドだったというのか。

「そんな、そんな人生は……」空疎ではないか、と言いかけて、私は口をつぐむ。
 他者によって自己は形成される。その他者がアンドロイドであるか人間であるかに、どれほどの違いがあるだろう? 内的世界の存否? そんなものは見分けすら付かない。現に私はアンドロイドを擬人化してしまう。そしてそれは、人間を擬道具化するよりは、遥かにマシな在り方だった。
 ただ一つだけ確かなのは私に内的世界が存在するという事実だけだ。
「……ふっ」
 自分でも驚くほど、ニヒルな笑いだった。
 自動運転車が、地下道を抜けた。夜の街が放つ紫の燐光が車内を照らした。幾千とそびえる藍色の塔。宇宙にまで続く蜘蛛の糸。全ての車両は統御され。人工の星が駆け巡る。人類の叡智。文明の極致。
 人間は、素晴らしい知見を手に入れた。
 人間は、素晴らしい技術を生み出した。
 人間は、素晴らしい文明を築き上げた。
 だが、人間そのものは、素晴らしいものになどなれなかった。
 ならばせめてその叡智の結晶で自分達を囲ってしまおう。誰も傷つけないように、誰も傷つかないように。
 私はタッチパネルに手をかざした。
「生体認証、銀行口座にリンク。ここから自宅までの優先通行権を買う。この車両の速度制限を解除。前にいる車は、全てどかせろ」
 タッチパネルに莫大な請求額が表示された。迷うことなく承諾すると、すぐに都と、国交省と、警察署のロゴマークが浮かび、「承認」の文字が三つ並んだ。
 海が割れるが如く、視界が開けた。前を行く全ての車両が、私の為に道を譲った。加速度を感じた。一台、二台、十台、二十台、もの凄い速さで無数のテールランプが過ぎ去った。
 否応なく、気分は高揚していた。
 いま抜き去った百台に乗っていたのもみなアンドロイドなのか、と私は問わない。
 この街にあと何人の人間が生きているのか、とも。

窓川要プロフィール