(PDFバージョン:enntounosora_inotakayuki)
最後のイベントである羊の毛刈り体験を終えた視察団のメンバーは、それぞれに満足した様子でくつろいでいた。全員が投資家で、牧場のスポンサーになっている人もいれば、これから投資を検討している人もいる。もちろん、ほぼ全員が羊の毛を刈るのは初めてで、本来なら悲惨なことになっていてもおかしくなかった。
「いやあ、おもしろい体験をさせてもらいました。案外、簡単なものですなぁ」
そんな声が聞こえてくる。羊の毛を刈るマニュピレーターからのフィードバックは繊細で、どこまでもリアルにできているから、まるで、自分で毛を刈ったような気でいるのだ。
「みなさん、本当にお上手でした」
牧場管理責任者のジェンキンズが、まるで揉み手をするかのように応じていた。
「それに、全然臭いませんでしたな。動物は臭いものだと思っていたが、そんなにひどくはなかった」
大口のスポンサーのランド氏だった。ニュージーランド出身で、何代か前の祖先に牧場主がいたというランド氏は、この牧場の最も新しいスポンサーの一人だ。彼は、牧場を持つことが夢だったと言い、今回の視察中ずっと上機嫌にしていた。
「ええ、ここの羊たちは清潔にしていますから」
ジェンキンスの答えに、つい口を挟みそうになるが、そこは何とか自重した。マニュピレーターの操作の際に感じるにおいは、現実のにおいではない。羊の状態を知るための重要な指標だから現実のにおいを反映しているものの、実際はバーチャルなものだ。臭覚中枢に刺激を与え、もっともらしいにおいを感じたろうが、現実の臭いからすれば、随分おさえてある。けれど、それを指摘するのは野暮というものだ。
さっぱりと刈り込まれたおよそ四百頭の羊たちは、牧羊犬に誘導され、青青とした牧草地へと帰っていく。きれいに刈り込まれた皮膚に傷一つないのは、毛刈り体験に参加した視察団全員のバリカン使いが巧いからなどではなく、人とバリカンを操るマニュピレーターの間に介在するAIが、不器用さから羊たちを守ってるからだ。さもなければ、今頃羊たちは傷だらけになっていただろう。
「それにしても、あの牧羊犬たちはすばらしい」
ランド氏の言葉に、僕は思わず拍手したくなる。羊たちの誘導に使う牧羊犬を見せたのは、僕のアイデアだった。
「ええ、訓練の行き届いた、いい牧羊犬たちです。原種はコリーという種類らしいですが、頭のいい生き物です」
したり顔で言うジェンキンス。
「ボーダーコリーです。私が育てました」
ジェンキンスの間の抜けた応答に、思わず、口を出してしまっていた。コリーとボーダーコリーは別の犬種なのに、ジェンキンスはいつも混同する。
「ええ、ボーダーコリーです。コリーの一種ですが、頭のいい系統です」
そう言いながら、僕をにらんだ。もちろん、間違っているからといって、いちいち指摘する必要はない。ましてや、ジェンキンスは、僕のボスなのだ。
「飼うのは難しいのかね?」
ランド氏の問いは僕に向けられたものだった。本来なら、投資家対応はジェンキンスの役割だったが、声をかけられた以上、答えざるを得ない。
「難しいわけではありませんが、毎日運動させる必要があります。生き物ですから排泄物の処理もありますし、それに、換毛期には毛が抜けます。それさえ気にしなければ、いいパートナーになりますよ。よろしければ、こっちに呼びましょうか?」
ジェンキンスの表情が強ばった。本当のところ、ジェンキンスは犬が嫌いで、近づいたところを見たことがない。
「それはありがたい。呼べば来るのかね?」
ランド氏の言葉に、ジェンキンスの顔がひきつる。
「ええ。ご覧になりますか?」
ランド氏がうなずいた。
「レックス!」
僕の声を聞きつけたレックスが、一直線に走ってくる。
* * *
牧場の経営環境が悪くなっているのは、僕にもわかっている。だから、ちょっとしたサービスのつもりでレックスを呼んだんだ。
羊毛には根強い需要があるけれど、日々進歩する合成繊維との競争が激しく、相場は長期間低迷していた。羊の肉も安い培養肉との競争にさらされている上に、価格面だけではなく、動物肉を食用にすることに対しての倫理面からの非難もあり、食肉としての需要も弱い。
「気にするなよ。ランド氏が犬を呼ぶように言ったんだ」
僕たちの近くで、一部始終を見ていたギルフォードが言った。遺伝子操作された牧羊犬は、ここの重力にあわせて子馬ほどの大きさになっている。ランド氏は、走ってきたレックスに驚いてしりもちをついたのだった。
「ランド氏はよかったんだ」
優しいレックスは、しりもちをついたランド氏を心配して、いつも僕にするように、ランド氏の顔を舐めた。それを見ていた視察団のご婦人の一人が、なにを勘違いしたのか悲鳴を上げて……。
「確かに。相当びっくりしていたけどな」
そう言って、ギルフォードは笑う。
「笑い事じゃないよ。ジェンキンスは本気で怒ってた。給料引き下げか、悪くすればクビかもな」
つい、そんなことを言った僕は、ふと空を見上げた。空の中央に、今の僕の気分のような灰色の雲がまっすぐに延びている。牧草の生育に支障がないよう、そろそろあの雲を何とかしなければならない。
「心配しなくていい。牧羊犬がいなきゃ牧場はうまく行かないし、犬を使うにはおまえが必要だ。ジェンキンスもわかってる」
ギルフォードの言葉は、一面の事実だった。だからと言ってジェンキンスが忘れてくれるとは、僕には思えない。
視察団の一行は、ジェンキンスと一緒にバスに乗り、毛刈り作業用のゲージを離れていた。ギルフォードの指示で、作業ドローンたちが一斉に、刈られた毛の収集作業を始めている。刈り取られた毛は集められ、工場へと運ばれていく。洗浄工場で脱脂洗浄された羊毛は、一辺が二メートルもあるブロック状に圧縮梱包され、商品として出荷される。そっちのプロセスはギルフォードの担当だった。
「そういえば、今日は柵を直すんじゃなかったか?」
思い出したようにギルフォードが言った。「そのつもりだよ」
要修理箇所は三カ所。夕暮れまでの二時間では終わらないだろうが、近くに羊の群のいる二カ所だけは直しておきたかった。
牧草地を区切る柵は、安っぽいスチールとプラスチックで、飛び越えようとした羊が脚を引っかけても怪我をしないように、簡単に壊れてしまう構造になっている。壊れた柵は作業ドローンには修理できないから、僕自身が出向かなければいけなかった。
僕とギルフォードが管理している牧場は、およそ二万ヘクタールの広さがあった。牧草地を区切る柵の総延長も、軽く三十キロを超えている。
これだけの広さの牧場にいる約五万頭の羊を、管理システムに直結した約五百機の牧羊ドローンと、およそ三百頭の牧羊犬が管理していた。もっとも、これは最初から決められていた数ではなく、牧場の経営環境が悪化したここ十数年の間、故障によって牧羊ドローンの数は減り続け、繁殖によって犬たちは増えている。ボーダーコリーを原種とする犬たちは賢かったし、管理システムの方でも犬たちとドローンを連携させることに習熟していたから、牧羊ドローンの数が減っても、牧場の運営に支障はなかった。
柵が壊れた場所には牧羊ドローンを張り付けてあった。羊にとって養生中の牧草地は柔らかくておいしい牧草のある場所だけれど、壊れた柵を抜けた羊が、養生中の区画を荒らしてしまうと、牧草の生育管理に影響を及ぼし、牧場全体の生産性が落ちることになってしまう。そんなことにならないように、早めに対処しなければならなかった。
「さあ、行こうか」
ウォーカーの横に伏せていたレックスに声をかける。人間たちの騒ぎのせいで、レックスは、すっかりしょげてしまっていた。レックスを励まそうと耳の後ろを掻いてやると、レックスの毛が僕の指に絡んだ。
僕はウォーカーに乗り、作業ゲージを離れる。遠くからは羊たちの鳴き声に重なるように、牧羊ドローンが出す誘導音が聞こえていた。レックスは、その場で立ち上がると、今にも走り出したそうに、背筋をまっすぐに伸ばした。
「よし、ついてこい!」
ウォーカーで歩き出すと、レックスは弾丸のように羊の群の方向に走り出した。
「そっちじゃない!」
僕の声に立ち止まり、クーンと鳴くレックス。
刈り込まれた羊たちが向かう方向と、僕の目的地とでは方向が違っていた。ウォーカーの元に戻ってくるレックスは、少し不満そうな様子をしている。
「文句を言うんじゃないぞ」
ウォーカーについてくるレックスに、僕は声をかけた。
* * *
世界の直径は十二キロで、世界の果ては六〇キロ先にある。それが、僕たちの牧場があるカンタベリーⅥだ。
月に六〇度先行するラグランジュ点に移送された小惑星を主材料に作られたシリンダー型の世界は、本来なら二千万人の入植者を受け入れられるだけのサイズがあったが、残念ながら、今の住人は羊ばかりで、人口は百人を切っている。人類は宇宙に引っ越し、地球を自然に帰そうという地球聖域化運動は、十分な支持を集められず、今でも地球は七〇億近い人口の重圧にあえいでいる。
もちろん、運動は完全な失敗だったわけではない。生物多様性への負荷の大きい農業、たとえば大規模プランテーションや牧畜業の移転は着実に進み、地球上の競争相手は壊滅していた。
東南アジアに広がるパーム椰子や、ゴムのプランテーションは熱帯雨林になり、ニュージーランドの牧場は温帯多雨林に戻った。気候変動による災害の頻発にも関わらず、多くの陸上動物の個体数が回復したのは、運動の顕著な成果だった。
ハビタットの競争優位を可能にしたのは、距離による不利を補う圧倒的な生産性だった。ハビタットは繊細な環境制御を可能にする閉鎖空間で、生態系への影響を気にせずに生命工学の成果を活用することができたし、平坦な農地には高度な農場管理システムの導入が容易だった。その結果、地球上の農業に比べ、プランテーション型農業では二十倍程度、牧畜業でも十倍を越える生産性の優位がある。何せ、病害虫もいないし、病気もない。雑草も生えない。それに、回転速度を抑えることによって、地表の重力では生きていけないようなサイズの家畜の導入もできる。現に、僕たちの羊からとれる毛の量は、代表的な羊毛用の品種であるメリノ種の十倍になった。
だからといって、牧場の経営は安泰ではない。視察団が帰っていった翌朝、牧場の管理棟に顔を出した僕を、難しい顔をしたジェンキンスが待っていた。
「オークランドからクレームがあったぞ。何をやらかしたか聞かれた」
オークランドというのは、本社のことだ。もともとニュージーランドのオークランドにあった本社は、地球上の牧羊業の衰退によって、今では移転していたけれど、現場ではまだオークランドで通っている。
「レックスに悪気はなかったんです。問題はあのご婦人で……」
昨日のことを思い出す。結局のところ、今の時代、犬とふれあう経験自体が少なくなってしまっている。誤解されることを見越しておくべきだったと言われれば、そうなのかもしれない。
「さすがに補償問題にはならないだろうが、あのご婦人からの出資は望み薄だろうな」
ジェンキンスの表情が曇る。牧場の経営管理責任者であるジェンキンスの方が、牧場の経営状態をよくわかっている。羊と犬の相手をするだけの僕は、どちらかと言えば気楽なものだ。
「何か、説明が必要ですか? 管理センターに記録があるはずだから、それを見れば、こっちに非のないことは、わかってもらえますよ」
「それで、あの犬を宣伝するってわけか?」
ジェンキンスの言葉には刺がある。最低限の人員と、管理システムで統合されたドローン群によって運営される牧場というコンセプトが、僕の導入した牧羊犬によって壊されたと思っているのだ。
「レックスはいい犬です。本社だって、ちゃんと説明すればわかってくれるはず」
ジェンキンスは大きくため息をついた。故障による牧羊ドローンの不足を補うために、結果として牧羊犬に依存することになってしまっている。
「オークランドのことは放っておけ。勝手にリストラでもすればいい。それより、そろそろあれを何とかする計画はできたのか?」
ジェンキンスが灰色の雲を指さした。ジェンキンスは、僕を言い込めるために、いつも雲の話を持ち出す。
標準的なシリンダータイプのハビタットは、円柱を軸方向に六分割した構造になっている。六つの区画のうち、一つおきに三つの区画が窓になっていて、窓の外にある巨大な反射鏡群を使って太陽の光を内部に導入していた。その光がシリンダーの中央部に居座る雲に遮られている。
「そんなに実害はないはずです」
ハビタットへの入射光は、日照時間やミラーの角度で調整できる。空の一角が灰色の雲で覆われていても、牧草の生育に悪影響を及ぼすことにはなっていないはずだった。
「気が滅入るんだよ。ただでさえ心配ごとが多いのに、あの雲だ。おまえが原因なんだから、どうにかするのが筋じゃないのか?」
確かに、あの雲の原因を作り出したのは僕だった。けれどそれは、牧場の経営を続けるためには避けられない副作用だった。
「どうせ青空なんか見えないんだから、今のままでもいいと思うけど」
空がクリアになっても、見えるのは二つの緑の帯に挟まれた窓と、その外のミラーだけだった。きれいな星空でも見えれば別だと思うけど、見えるのは何千枚ものミラーに映る無数の太陽で、どっちが精神的にいいのかわからない。
「昨日も聞かれたんだ。あんな雲があるハビタットはここだけだ。今はさほど害がなくても、そのうち必ず問題になるぞ」
将来のことを言えば、ジェンキンスは正しい。雲はどんどん分厚くなる一方だからだ。
「わかってます。解決方法も」
「じゃあ、さっさとやればいい。必要なものはギルフォードに頼め」
ジェンキンスの指示は明確だった。
* * *
計画を実行した朝は、いつもの朝と違っていた。シリンダー型ハビタットの朝は、外の反射鏡群の動きによって三方向の窓から同時に光が入ることで始まる。
「ジェンキンスには説明したのか?」
その日の朝、雲を掃除するとは言ってあった。けれど、どうやってやるかは説明していない。さっさと片づけろと言う指示だけだ。
「説明したって、わかりっこないさ」
僕とギルフォードは、いつもより早く牧場にきていた。さらに言うなら、僕たちの牧場だけ、いつもより朝が早い。
「まだ家にいるだろうけど、雲が降ったのを見たら驚くぞ」
ギルフォードの言うとおりだ。雲が降れば、牧場は一面の灰色で覆われるだろう。牧場の作業ドローンは、何日か雲の処理にかかりきりになるはずだ。
「いつかはやらなきゃいけなかったんだ。これからは、定期的にやることにするさ」
灰色の雲は犬たちの抜け毛だった。換毛期のない羊の毛は問題にならないが、犬には換毛期があり、大量の抜け毛がでる。その毛の一部は、換気のための風に吹かれ、シリンダーの内部に拡散していく。
雲があるのは、ちょうどシリンダーの回転軸の位置で、遠心力がゼロになる位置だった。風に巻き上げられた毛の一部は、三方向の窓から射し込む光の圧力によって、シリンダーの中心軸に集められている。それが灰色の雲だった。僕たちが雲を掃除するためにやろうとしているのも、光の圧力を利用するという点では、同じようなことだった。
一方向から光を当てることによって、雲の位置が、ほんの少しだけ中心軸からずれる。あとは、ハビタットに疑似的な重力を作り出している遠心力が働き、雲を外側へと動かす。
中心軸からずれたとき、押し戻すように働く逆方向の光はない。今は風も止めてあるから、雲はゆっくりと、確実に高度を下げ始めるはずだ。
「後始末に作業ドローンを使うのはいいが、集めた毛はどうするんだ?」
ギルフォードが聞いてきた。確かに、ただ捨ててしまうのはもったいない気もする。
「セーターでも作るさ」
羊毛と混紡にすれば、ちゃんとした毛糸ができるだろう。けれど、どれくらいの量になるのだろう。
窓からの光を浴び、空から灰色の雲が降りてくる。それは何百匹ものボーダーコリーから、何年もかけて抜けた毛でできた雲だった。
完
伊野隆之既刊
『こちら公園管理係6
さよならガンさん』