「ゾガネスの末裔」礒部剛喜

(PDFバージョン:zoganesunomatuei_isobetuyoki
 ……バビロンでは毎年サカエア祭が行われていた。……そのあいだ……死刑囚は王衣を着せられ、王座について、好き勝手に命令を出し、飲み食いして楽しみ、王の愛妾と寝るのを許される。だが、五日たつと、王衣をはぎとられて鞭打たれ、絞首刑かくし刺しの刑に処されるのである。この短い在位のあいだ、その死刑囚はゾガネスという称号で呼ばれた。

――ジェイムズ・ジョージ・フレイザー卿『金枝篇』(一八九〇年)


「地球は狙われている……か」
 全人類の運命に関わるような物語は往々にして、核戦争勃発直前に突如飛来した巨大な宇宙船が、世界から戦争を駆逐して黄金時代をもたらすとか、田舎町に着陸した未確認飛行物体が、そこの住民をみな眠らせてしまい、受胎可能な女性たちに子供を孕ませるとか、中国の奥地に降下した地球外生物と確実に推定される未知の集団が問答無用で攻撃を加えてくるとかで始まるものだが、この驚異に満ちた物語の幕開けは、濃いレイバンのシューティンググラスで双眸を隠した、見るからに精悍そうな若者が、上海の摩天楼に囲まれた古色蒼然たる洋館を見上げながら、そう呟くところから始まる。
「情報のとおりなら、ここにあの娘が囚われているはずだ。そして彼女も……」だが、その青年は自分が複数の影に監視されていることに気付いていなかった……。
 その洋館の二階にある薄暗い、いかにも妖気の漂うような部屋で、若い男女が怪しげな商談に耽っていた。
「占ってもらいたいのは、中国国内でいったいいつ、大量破壊兵器(ウェポン・マス・デストラクション)が使われるのかということなんだ」といきなり物騒な言葉を英語で口にしたのは、見るからにウォール街の代理人を連想させるようなタフな風貌のアメリカ人だった。「それさえ解れば、われわれは大儲けができる。君ならそれを予言できるはずだがね」
「これまで中国は中共と国府に分かれてきたけれども、大量破壊兵器が使われれば、大陸国内の分離運動が加速される……」応えたのは、黒いチャイナドレスから美脚を惜しげもなく覗かせた、妖艶な美貌の東洋人の女だった。「そのときは再び東北部を分離させ、あなたがたが自由に支配できる新国家として独立させるわけね……。天下三分の計というわけだろうけれど、朝鮮動乱のときに成しえなかった満州国の再建というわけね」ほほほほほほほほほっと、女は心底愉快そうに笑った。「もちろん、占って差し上げますわよ。それ相応のお礼をしていただけるのなら。もちろん、必ず当たりますわ。何しろ私が仕えるマルドゥク神は、地球外から来た神なんですから」
 アメリカ人はテーブルに封筒を置いた。「とりあえず一万ドルだ。とっといてくれ。君の占いがあたれば、あと十万ドル払おう。例の宇宙からのメッセージの騒動以来、昨今、地球外知性体とコンタクトしたという連中は掃いて捨てるほどいるけれど、どれもこれも偽物ばかりだ。だが、君の崇める神様とやらだけはどうやら本物のようだからな」
「明日またいらっしゃい」女は再び笑った。「マルドゥク神のお告げを聞いておきますわ」
 アメリカ人が去ると、女は厨房に向って「麗卿、麗卿」と日本語で呼び立てた。出てきたのは、十六歳くらいの中国人らしい少女だった。女預言者のような妖美さはないが、黒く澄んだ瞳の美しい娘である。強い苦悩に耐え忍んでいるかのようで顔色が冴えない。
「今夜の零時にまた降神術をやるのよ。解ったわね?」と女預言者は冷酷というよりは、猫が鼠をいたぶるようなサディスティックな微笑を浮かべていた。「いくらテレパシーで助けを求めてもだめよ。この建物は私が結界を張り巡らしてあるのだからね……」
 女預言者は少女に近寄ると左手で彼女の顎を上に向け、どこか淫蕩さを孕んだ視線を少女に注いだ。女は明らかに快楽に浸っているようだった。
「おまえも私と同じくマルドゥク神に仕える身であることを忘れてはならないのよ」
 扉をノックする音が女預言者の悦楽の時間を遮った。「占ってもらいたいことがあるのだが」と若い男の声が日本語で続いた。
「お行き――」女預言者は少女を下がらせると扉を開けて、シューティンググラスの精悍な若者を招き入れ「ようこそ、遥々遠いところから。大隅一矢さん」と椅子を勧めた。
「どうして、ぼくの名を知っている?」大隅は特段動じた様子もなく訊いた。
「もちろん私は預言者ですから。あなたが近畿商事の上海駐在員を装った陸上自衛隊幕僚監部別班の人間であることも知っています。それだけじゃないわ。あなたが自衛官というのは表の顔で、本当は地球防衛秘密組織のエージェントだってことも……」
 ことの始まりは一九六〇年に遡る。アメリカはヴァージニア州のグリーンバンク国立天文台から、くじら座タウ星とエリダヌス座イプシロン星に電波によるメッセージが送信された。いわゆるオズマ計画――地球外知性体探査計画(SETI)の最初の試みだった。しかし、待てど暮らせど返信はこなかった。
 それが来たのだ。この広い銀河には地球人類以外の知性体はいないと思われていた六十年後に。一四二〇メガヘルツの電波に乗って送られてきた宇宙からのメッセージは、英語、フランス語、ロシア語、中国語はもちろん、日本語、ドイツ語、アラビア語、スペイン語、ヒィンドゥー語、そしてあまつさえラテン語や古典ギリシャ語で送信されてきたのである。
 しかもそのメッセージの内容は、ただ一言「地球人よ、覚悟せよ」というだけのものだったから大変だ。全世界で「地球は狙われている」という思い込みが先走り、すわワシントンが明日にでもUFOの大群に空襲されるか、富士山麓が占領され、多数のうら若き乙女たちが侵略者の花嫁として人身御供にされるかのような騒ぎになったのだった。
 サイエンス・フィクションの懐疑主義的な読者諸賢ならば、地球侵略のメッセージが人類の統合を促す謀略として利用されるという有名なレナード・リュインの『アイアンマウンテン報告』を想起し、それがブラウン『地獄のハネムーン』は言うにおよばず、田中光二『宇宙からの衝撃』、テレビの〈ウルトラゾーン〉『歪められた世界統一』で使い古された陰謀のパターンであると即座に認識できたことだろうが、所詮はSFなぞ異端者の文学に過ぎなかったことから、全人類に宇宙からの脅威に対する冷戦思考が浸透するのを妨げることはできなかったのである。
 では、宇宙からのメッセージを受けて人類は団結したのかと言えば、それも大間違い。分裂が促進される有り様だった。そもそも言語、宗教、文化はもちろん、政治体制も経済機構も異なる集団の集まりにすぎない人類社会が、宇宙からの脅威に対抗して統一戦線を組むなどということはあるはずもない。かくて世界各国にはそれぞれの民族あるいは国家体制に準じた地球防衛軍が割拠することになり、その数は十とも二十ともいわれている。
 人一倍猜疑心の強い大隅は、この宇宙からのメッセージを最初から偽物と信じて疑わなかったにもかかわらず、その意志に反して秘密裏に日本の地球防衛軍への編入を命じられてしまったのである。納税者の視線を回避しつつ、遅ればせながらわが日本も地球防衛軍の創設に踏み切ったさい、大隅は心理作戦講義課程を極めて優秀な成績で修了した自衛官であったためだ。
「それだけ知っているのなら、ぼくが占ってほしいことも解るだろう。ぼくが知りたいのは、行方不明になった二人の女性の居場所なんだ。例の宇宙からのメッセージの騒ぎ以来、世界の至るところで、地球外知性体と接触して超能力をえたという連中が現れたが、どうやら君はうわさどおり本物の預言者のようだ」
 まあ、そんなことがあるはずもあるまいが。
 大隅はグラスをはずし、鋭利な視線を女預言者に放った。「ところで君はゾガネスという言葉を知っているかね?」
「……知らないわ」女の表情がにわかに強張った。「聞いたこともないわ」彼女はゾガネスという言葉に動揺していた。


「これは命令ではない。だが任務の重要性だけは知っておいてもらいたい」と錆びついた声で言った安達博士は世界的に高名な天体物理学者で、わが国の地球防衛軍の最高科学顧問だった。軍の指揮系統にあって彼の言葉が命令と同じであることは言うまでもない。否応なしに志願しろというわけだ。
「君なら充分に承知していることだが」安達博士は続けた。「戦争の帰趨を決めるのは情報戦争だ。しかるにわが地球防衛軍は侵略者に関する情報――かれらがどんな生物で、どこの惑星から来るのか、どれほどの軍事能力を有しているのか――を全く持っていない。これはどの国でも同じことだが。そこでわれわれは、アメリカから提案された、J・B・ライン研究所とスタンフォード研究所(SRI)が共同で立案した〈アクエリアス作戦〉に参加することを決めた」
〈アクエリアス作戦〉、それは高度な超心理学的能力を持つ被験者を選抜し、幽体離脱によって地球外における侵略者の活動を観測させようというトンデモない作戦である。
 日本からカリフォルニアのスタンフォード研究所に送られた二名の女性超能力者は、ライン研究所のテストをパスしたばかりか異常なまでの超心理学的パワーを示したという。
 心霊的な星間偵察活動か。それとも心霊的なSETIというべきか――。
 まあ、そんなことがあるはずもあるまいが。
 天体物理学の権威でありながら、安達博士が心霊的なSETIを命じたことに、懐疑主義者としての大隅は矛盾を感じることはなかった。古典物理学の偉大なるパイオニアのアイザック・ニュートン卿でさえ占星術に傾倒していたことを熟知していたからだ。
「まさかこのぼくに、彼女らに続いてその被験者になれと……」超心理学的作戦と称して薬物でも投与されるのかとおののいた大隅はおそるおそる訊いた。
「その心配はない。懐疑主義者である君が超能力を発揮できるとは誰も思っておらん。君の任務は、地球に侵入した侵略者のスパイを狩り出すことだ……。」
 まさに宇宙時代の冷戦思考の産物だ。この地球上で、地球外知性体の探査をやろうなんで……。大隅は絶句した。
「地球から侵略者の霊的領域に送り込まれたのはこの二人の女性だ。一人は滝川順子。蔵前工業大学の物理学者だ。……若い娘のほうは志水佐知子、わしの孫だ」安達博士は二枚の写真を見せた。「佐知子の母は霊媒の家系なのだ。〈アクエリアス作戦〉は大きな成功を収めたということだが、実験後、滝川は異常な言動を見せるようになった。彼女は宇宙からのメッセージの起源を探りだしたことを仄めかし、地球は、いずれマルドゥク神の再臨を迎えることになるのだとな……」マルドゥク神とは古代バビロニアの最高神である。バビロニアに高度なテクノロジイをもたらした神であるともいう。「滝川は佐知子を誘拐し、カリフォルニアから上海に逃亡したのだ。彼女は侵略者に洗脳されて戻ってきたのに違いない。滝川順子は侵略者の尖兵と化したのだ」
「〈アクエリアス作戦〉の成功っていいますが、いったいなにが解ったっていうのですか?」大隅は再びおそるおそる訊いた。
「宇宙は戦いに満ちている。いくたの未知の種族が、聖杯を巡って熾烈な星間戦争を繰り広げているのだ。その戦争の波がついに地球にも及び始めたのだ」
「聖杯って、何のことですか?」
「生命力を失った世界を再生させる原理的な力を秘めた種子のことだ。かれら侵略者はその霊智ある種子を求めて地球に飛来したのだ」
 ああ、完全にいっちゃってる。これが世界的な物理学者の真意なのか。大隅は脱力した。
「滝川という女は、上海で何をやっているのですか?」
「いかがわしい占い師をやってあくどく儲けているようだ。地球外から来たマルドゥク神から託宣を受けて未来を予言し、必ず当たるとな。佐知子はその占いに必要なのだ。……滝川順子はゾガネスとなったのだ」
「ゾガネス?」
「古代バビロニアの偽王だ。再生の祭のさいに万能の権力を与えられ、あらゆる快楽を享受できるが……な。霊樹の守護者である森の王(レクス・ネモレンシス)の遠い祖先だ」
「それで……そのゾガネスねえちゃんが上海のどこに潜んでいるのかを探る手がかりは?」
「スタンフォード研究所の遠隔視能力者たちが、彼女の隠れ家を突き止めた」
 遠隔視(リモート・ヴュウイング)とは、透視、千里眼のより現代的な呼称である。地球防衛軍の指導者たちは、すでに侵略者たちの尖兵が人類社会の内部に浸透しているというパラノイアを共有していることが公然の秘密であった以上、心霊術によって宇宙からの侵略者を探しだそうとすることには必然性があった。
 まあ、そんなことがあるはずもあるまいが。
「これが遠隔視によって見つけ出された隠れ家のスケッチだ。君は上海に飛び、このスケッチの建物を特定し、佐知子を救出するのだ。宇宙からの霊的侵略を食い止めるのだ」


(……大隅さん。聴こえますか?)と大隅の脳裡に鮮明に響く声があった。(……佐知子です。テレパシーで話しかけていますから、何も聴こえないふりをしてください。滝川さんにばれないようにしてください。)
 ゾガネスという言葉を投げかけられて滝川順子が狼狽したとき、彼女の張り巡らした結界が弱まっていたのであるが、懐疑主義者の大隅には何も感じられなかったことは言うまでもない。
(……私は隣の厨房にいますが、迂闊には動けません。滝川さんは、あのお姉さんは怖ろしい超能力者なのです。わたしたちを捉えようとした人たちは、みんな手ひどく痛めつけられて叩きだされました。お姉さんは、真夜中に私をトランス状態にして、マルドゥク神という地球外の神を私に憑依させ、私の口を借りて未来のことを予言させているのです。しかもその予言は必ず当たるのです。今夜の零時にもそれをやるのだそうですが、私はトランス状態に陥ったふりをして、私を解放するようにマルドゥク神の声色を使って神託を伝えます。お姉さんはマルドゥク神を心から怖れてもいますから、私の言葉を信じると思います。明日もう一度ここに私を迎えに来て……)と、佐知子のテレパシーは唐突に途切れた。
 ……いまの声はなんだったのだろう? 原理的な懐疑主義者である大隅は、佐知子からの鮮明なテレパシーのメッセージが信じられなかった。
「どうしたんだ? 顔色がよくないね」大隅は直観的にここは一旦退くべきだと判断した。
「なんでもないわ……」女預言者はゾガネスという言葉に動揺していた。
「明日また出なおしてくるから、ぼくの捜している二人の居場所を占っておいてくれ。お礼をはずむから」と大隅は、うつろな視線を床に落としたままの女預言者を観察しながらテーブルの裏にさりげなく盗聴器を仕掛け、千ドル札を一枚おいてその場を去った。
 洋館を出たとたん、大隅は数人の男たちに取り囲まれた。いずれも顔なじみの各国情報部の面々で、みなそれぞれの国の地球防衛軍のメンバーであることは言うまでもない。
「よく生きて帰ってこれたな」と巧みな日本語で話しかけてきたのはCIAエージェントだ。大火傷をした顔半分を包帯で覆っている。
「無事に出てこられたのは君だけだぞ」と、これまた日本語で言った熊のような大男はCBP(ロシア対外情報局)エージェントで、蜂の大群に刺されたように顔全体が腫れ上がっていた。いずれも半死半生といった様子で無傷でいるものは誰もいない。
「みんなどうしたっていうんだ? まさかあの女預言者を……」
「そうさ」トラックに体当たりしたごとく全身に包帯を巻いて松葉杖をつきながらも、服装のおしゃれだけは忘れない優男のMI6(イギリス秘密情報部)エージェントが応えた。「あのねえちゃんをひっ捕らえようとして、このざまだ」
 かれらは口々に自らの恐怖の体験を語りだした。いずれも上手な日本語だった。
「おれが銃を向けたとたんに、彼女は振りかざした箒から電光を浴びせてきた」
「彼女が左手を上げたとたん息ができなくなり、窒息死するところだった」
「箒の柄が仕込み杖になっていて、いきなりライトセイバーを抜いて切りかかってきた」
 まあ、そんなことがあるはずもあるまいが。
 各国が何も考えないで地球防衛軍設立に走った後、猜疑心の旺盛なそれぞれの情報機関は互いに探り合いを強めていたから、大隅も〈アクエリアス作戦〉の情報が漏れているとは思っていたが、連中がいち早く滝川順子の身柄の確保を実行していたことに驚愕した。
「なんでまたそんなことを……」
「き、き、決っている……じゃないか」顔中に包帯を巻いて、言葉遣いもたどたどしくなったBND(ドイツ連邦情報局)の男が一座を代表して応えた。「あの女は、近未来の完全な予知能力を持っている。それを独占できれば……この戦争で……確実な主導権が握れる。ましてあの女は……地球外勢力との交渉ラインを……確保している可能性があるのだから」
 あの女預言者が本物だとみな信じ込んでいるのか! 完全無欠の懐疑主義者である大隅は唖然としたが、この信仰(というか思い込み)を使って素早く一計を案じた。
「あの女預言者は、今夜零時に、地球外知性体との霊的コンタクトを試みるそうだ。その場に踏み込めば、彼女が何を目論んでいるのか知ることができるかもしれない……」と大隅が言い終わらないうちに男たちは一斉に姿を消していた。


 時計は午前零時を指していた。洋館の近くにとめた車両で、大隅は盗聴器が送ってくる音声に耳を澄ませていた。
「……エロイム・エッサイム」盗聴器を通じて女預言者の唱える呪文が大隅の耳に谺した。「エロイム・エッサイム、地の底から踏み出て……わが聖なる要求に答えよ……エロイム・エッサイム、エロイム・エッサイム」悪魔を呼び出す呪文が地球外知性体との交信なのか。大隅は信じられない思いで盗聴器の捉える声に聞き入った。しかも日本語である。
 その盗聴器が仕掛けられた部屋では時代錯誤の光景があった。蝋燭の灯りだけが薄暗く照らす室内で、五角星形(ペンタグラム)を囲んだ円という古典的な魔方陣が白いチョークで床に描かれ、その中央に置かれた椅子に白いチャイナドレスを着た麗卿こと佐知子が死んだように座ったまま眠っている。それは仮死状態といってもいい深い眠りだった。抵抗虚しく彼女は完全なトランス状態に陥っていたのだが、大隅には知る由もない。
 魔方陣の外側で、一糸纏わぬ美しすぎる裸体に黒いマントだけを羽織った滝川順子が、片膝をついて腕を十文字に組み、「エロイム・エッサイム……われとともに来たり、われとともに滅ぶべし」とこれまた古典的な呪文を唱えている姿は、大きな鴉が拝礼しているように見えた。「マルドゥク神よ、私の願いをお聞き入れください……」
「いいや、おまえの願いなど聞くつもりはない」眼を閉じたままの佐知子の口から流れたのは、荘厳で荒々しい男の声だった。「わしがおまえの言葉を聞き入れ、予言を与えてきたのは、おまえを試したのだ。われわれの地球征服が完了した後、間接統治の指導者として人類を管理できる才覚がおまえにあるかどうかを知るためにな。ところが結局はおまえも地球の女でしかなかったのだ。地球侵略の使命を忘れて快楽にふけり、自らの欲望――下劣な金銭欲と生殖欲のままに生きようとする下等な生物なのだ。さあ、この娘を早く解放してやるがいい。さもなければ、おまえにゾガネスとして贖罪の定めを与えることになろう」
「けけけけけけけ」と滝川順子は哄笑を上げた。「うまくマルドゥク神の声色を真似たもんだね。でも騙されはしないよ。小娘のくせに味なことをやるもんだね」
「莫迦め!」佐知子に宿った侵略者の霊が怒鳴った。「地球防衛軍の連中が来たぞ」
 錠が叩き割られて扉が弾けるように開かれると、顔に包帯を巻いて自動小銃と携帯兵器で武装した男たちが飛び込んできた。「われわれは地球防衛軍統合作戦本部特別軍事警察だ。侵略者の尖兵として君らを逮捕する」
 防衛軍特別軍事警察だって! いつの間にそんなものができたのか。大隅は戦慄した。国家間の利害関係よりも優先されたかれらの個人的な感情が団結と統合をもたらしたのだ。
「莫迦どもが」異星の神に憑依された佐知子は、瞑目したまま立ち上がって地球防衛軍の一団に両手をかざした。激しい電光が指先からほとばしり、銃声と男たちの絶叫が轟いた。「魔女めええええええっ」
 イヤホーンをはずすと、自動拳銃を抜いた大隅も車を飛び出した。焼け焦げた異臭の充満した女預言者の部屋に走りこむと、地球防衛軍特別軍事警察一党は蝋燭の火に照らされた床に転がった仏の群と化していた。魔方陣の中央で椅子に死者のように座ったままの佐知子と、その前にうつ伏せになって倒れている黒マントの女預言者の姿があった。
 大隅には、失神している佐知子の頭に後光の破片を想わせる不思議な光が残っているように見えた。「佐知子さん、しっかりして」
「……大隅さん、ああ、失敗してしまったわ。私、お姉さんの術に逆らえなくて、いつものように眠って……」佐知子はまだ忘我の境界にいるかのような弱々しい声を出したが、夢から醒めたように瞳を開き、床に横たわった死者の群を見て思わず息を呑んだ。「こ、これは……大隅さん、あなたが殺ったの?」
「いいえ、かれらを殺したのは、マルドゥク神なのです」
 床に伏していた女預言者が不意に立ち上がった姿を見て、大隅と佐知子は目を見張った。若く妖艶な魅力に満ちていた滝川順子は白髪で盲目の醜い老婆と化していたのである。
「この女はゾガネスの末裔だったのです」と佐知子を抱き寄せた大隅は、自分が懐疑主義者であることを忘れていた。 (了)

――二〇一四年八月

礒部剛喜プロフィール


礒部剛喜翻訳作品
『異星人情報局』