「黄昏のサイレン」平田真夫

(PDFバージョン:tasogarenosiren_hiratamasao
 手持ちの缶から、ブラック珈琲を一口――。
 砂糖やクリームの入った物は、余り好きではない。口中に甘さが残り、後味が悪いからだ。
 販売機の傍らには、乗って来た自転車が止めてある。もう五年は使っているが、まだガタは来ていない。坂道を登ったりしないからだろう。アパートから此処までは、平坦な舗装路が続いているだけである。
 腰掛けているコンクリートの直方体は、背後のビルから一メートル余り突き出しており、何の役に立つのかよく解らぬ。そのビルには窓の一つも無く、中で何が行われているのか、いや、そもそもこれがビルと言えるのかすら不明であった。
 高さ二十メートルのコンクリートの箱。
 この街の建物は、唯一の例外を除いて、皆、こんな感じだ。巾五メートル余りの道路はきちんと碁盤目に整理され、一定の間隔を置いては十字路になっている。舗装もちゃんと施されてはいるのだが、車などが通るところは見たことも無い。だいたいが、窓も入口も開いていないビルに、どんな訪問者が来るというのか。
 それでも、腰掛けに隣接している飲み物の販売機はきちんと作動しており、売り切れや釣銭切れの表示が出ていることは無かった。ちゃんと缶の補充や集金は行われている印であり、だとすれば他に客がいるのかも知れない訳だ。
 ――でもなあ。
 市役所から仕事を貰って二十七年、街で誰かに出会ったり、人影を見たことは一度も無い。一体、何の必要があって、時報を鳴らしているのだろう。
 さよう、この身の仕事は一日に二回、朝の八時半と夕刻の十七時にサイレンを鳴らすこと。それも今時珍しい、機械仕掛けではない手廻しである。
 再び珈琲を含みながら、腕時計を見る。大丈夫、まだ時間はある。
 物心付いた頃から、目前の道を父に連れられて毎日往復してきた。その数十年の間に、街に変化があったといえば唯一つ、此処に飲み物の自動販売機が設置されたことだけである。後は記憶を辿る限り、幾ら思い出そうとしても、この風景しか思い出せない。
 判で押したように高さの揃った窓の無いビル、十メートル毎の十字路、車の通った形跡とて無いアスファルトの道路――。
 今、時刻は黄昏に差し掛かり、全てのビルの長い影が、次の建物に重なるよう、橙色の陽光の中を伸びていた。一体、この光景を何千、いや何万回見て来たのだろう。
 やっこらしょ、と立ち上がって、空き缶を販売機脇のゴミ箱に捨てる。このゴミ箱も、中はいつも綺麗だ。此処から二つのことが判る。少なくとも一日に一度は集塵が成されていること、他には誰も何か買ったりしていないらしいということである。
 ――俺と同じなのかなあ。
 この販売機の担当のことである。何の為、誰の為になるのかよく解らぬ仕事を、上から命じられたままに毎日こなしていく。休みは一日も無く、ただ、就業時間が途轍もなく短いのが続けられる理由の一つと言えば言えた。
 この販売機の集配人も、そんな毎日を暮しているのだろうか。いや、あちらは車であちこちの機械を巡っているだろうし、そもそも一人で毎日という訳とは限らない。やはり、こっちとは違うのだろう。
 ――一度くらい会ってみたい気もするな。
 時間が合わない為だろう、此処での集配を目撃したことは一度も無い。一日中座って待っていれば出会えるのかも知れないが、流石にそんなつもりは無かった。ことによると、夜中に集配に来ることも有り得る。
 だがさて、今はそんなことはどうでも良い。時間が差し迫っていることの方が重要だ。定年になった父から仕事を引き継ぐ時にも、きつく言われていた。
「いいか。サイレンの時刻だけは、絶対に正確にやれよ」
 そう、父もこの街で、毎日サイレンを鳴らしていたのだ。それが還暦で定年になった時、長い間父に付き添ってきた実績を買われて、市役所から仕事を貰ったのである。
 ――俺が引退したらどうなるんだろう。
 時々考えることだが、さほど心配することでもない。結局は市役所の方で、何処かから誰かを引っ張って来るのだろう。
 サイレンがある建物は、今腰掛けていたビルの、すぐ隣にある。街にある建物で唯一の例外とは、その塔のことだ。何処を巡っても十×十×二十メートルのコンクリートの直方体ばかりのこの土地にあって、たった一つの鉄の建造物――直径十メートルに高さ二十五メートルの円筒形。周囲の建物より頭一つ抜き出たその屋上に、サイレンは設置されている。問題は、その塔と雖《いえど》も窓や入口は何処にも無く、昇るには外壁に取り付けられた梯子段を使わねばならないことだ。
 ――さて、行くとするか。
 二十五メートルの梯子を昇るというと如何にも大変そうだが、子供の頃からやっているので、もはや苦にもならない。それに今日は晴天だ。この仕事は如何なる天候でも休むことは許されないので、雨の日などは護謨《ゴム》の合羽を着たりで大変なことになる。だが、有り難いことには、暴風雨等に出会ったことは一度も無い。まるで天気の方で、この街を避けているかのようだ。
 自転車は置きっぱなしにして件《くだん》の塔に近付き、下から見上げる。まるで、巨大なドラム缶と言った風情だ。真っ黒に塗られた外壁には、昇る為の梯子が着いている切り、後は何もなくのっぺりしている。試しに拳《こぶし》で叩いてみると、金属の出す反響音が響き、中は中空だと思われた。もちろん、これだけの大きさの円柱を、鉄等でぎっちり詰めてしまったら、予算がたまるまい。真北の側に着けられた梯子は所々塗装が禿げ、赤い錆止めが覗いているが、いつ誰がするのか、たまに補修されている。これもあの販売機と同じで、夜中にでもやっているのかも知れない。
 梯子に手を掛けて足を乗せる。父に連れられた頃から昇っているので、慣れたものだ。あの時分にはまず先に梯子に乗せられ、父が後をついてきた。もしも自分が落っこちでもしたら、父も巻き添えになったのだろうか。ずっと小さい時には、危ういこともあったのかも知れない。記憶にある限りでは、既に梯子を昇るのが日課になっていたので、そのような覚えは全く無いのだが――。
 手首と足首に力を入れ、一定のリズムで上り始める。途中で休みを取ったりはしない。筋肉は無駄無く鍛えられ、そんな必要は無いからだ。もっとも、時々辺りの景色を眺める為に、手足の運動を止めることだけはあった。今も十メートル余りを昇った所で、ふと周りを見廻したくなって体を留める。
 此処ら辺まで来ると風がやや強くなり、髪の毛がなぶられる。それを直す余裕も無く、とにかく周囲の建物を眺め廻す。橙色の太陽に照らされたコンクリートの建物群。梯子段からは左右しか見渡せないので、二つのビルの壁を見るのがせいぜいだ。一方は灰色の外壁を陽光でオレンジ色に染められ、他方は薄黒い。もう、何千回となく見た光景だが、それでも時たまはこうして眺めたくなるのである。
 再び手足を踏ん張って昇り始める。それにしても、この鋼鉄の円筒の中には何があるのだろう。耳を付けて内部を伺っても、何も聞こえない。かなり分厚い壁で出来ているのだろう。いや、それも当然か。如何に外見《そとみ》に巨大なドラム缶に見えたとして、材料の厚さまでドラム缶並ではつぶれてしまう。
 他の建物もそうだが、窓も入口も無く、それでいてきちんと機能しているとすれば、中は機械でも詰まっているのだろうか。いや、それではサイレンなんぞで時刻を知らせる必要も無い。中にはちゃんと人が働いている――或いは住んでいる?――としか思えぬ。地下にでも出入り口があるのやも知れないが――窓の一つも着けないとしたら、明り取りの効率なども非常に悪くなるだろう。一体何の為にこんな設計にしたのだろう。
 そんなことを考えながら梯子段を昇るうち、ふっと自嘲とも思える微笑が漏れた。
 たとえ一日に二度のサイレンを鳴らすだけとは言え、自分にはきちんとした仕事がある。その証拠に、月に一度、きちんと銀行には給料が振り込まれるし、市役所では年に一度の健康診断も受けられる。これは自分の社会での役割だ。よしや、それが誰の役に立つのか判らなくとも、である。
 では、他の人達には、それが判っているのだろうか。毎日職場まで通い、何らかの書類を処理し、それを他の人に廻す。
 誰が聞くとも知れない時報のサイレンとは言え、市役所から命じられているからには何らかの聞き手がいるに違いない。そう信じて、父の代――待てよ? 祖父はどうだったのだ?――からこの役目を手伝ってきたが、会社勤めの人々が書いている書類だとて、最終的にどのように処理されて行くのか、判って扱われているのだろうか。自分の場所から廻した次の部署、その次の部署に行った辺りまでは見当がついても、最終的に社会の何処へ辿り着き、そこで何の役に立っているのかは、本当の所、誰も知らないのではないか。
 巨大な機械の歯車に心が有ったとして、歯車自身は機械全体の構造まではとても知りようがない。そして、社会とはその、巨大な機械なのだ。
 梯子を昇るにつれて次第に低くなり、眺望が開けて来る建造物の群。これらだって、何らかの社会的な機能はあるのだろう。ただ、それが見えないだけ。それでも自分の役割は、建物の内部に時を知らせ、一つの区切りをつけさせる意味はある。後は、その報酬として幾許《いくばく》かの金を貰い、日々の糊口を凌ぐことが出来ればそれでいい。
 もう高さは、早や二十メートルを越え、辺りのビルの屋上が見え始めていた。此処まで来れば、見渡しはずっと良くなる。とはいうものの、その、周りのビルの屋上というのは、ただの四角いコンクリートの床でしかなく、何が置かれたりしている訳でもなし、出入り口らしきものすら無いのだ。ビルの群は、やはり完全に塞がれた直方体の連なりなのである。
 最後の数メートルを昇り終え、屋上に顔を出す。いつもなら、円形の広場を囲う柵と、向こう側に設置されたサイレンが目に入るだけだ。ところが今日はそれだけではなかった。
 ぎょっとする。
 ――何だ?
 屋上の反対側、いつもサイレンを鳴らす為に立つ場所に、先客がいたのだ。
 それは、灰色の大きな犬であった。
 慌てて頭を引っ込める。それから、そうっと気配を消して、再び屋上に目を覗かせる。仮にこちらに来たところで、梯子を数段降りれば、相手はどうしようもあるまい。
 ――どうやって昇ったんだろう。
 犬は、灰色の毛皮を橙色に染めたまま、柵の間から街を眺めていた。
 ――梯子は使えないだろうし。
 その通り、こんな金属製のつるつるした段では、猿の仲間でもなければ、とても昇れない。猫族ですら難しいだろうし、ましてや犬ではとても無理だろう。
 だがさて、問題は別の所にあった。犬があそこで頑張っている限りサイレンは廻せないし、そもそも屋上に上がらぬことにはどうしようもない。
 ――襲って来るなんてことはあるまいな。
 座っている様子では結構大人しそうだ、などと勝手に解釈したりしながら、善後策を考える。とにかく屋上に出てしまうしかなかろう。そこで、うんしょ、と手足に力を入れ、鉄の板の上まで上がる。そのままいつでも梯子に戻れる姿勢を維持しながら、
「おい」
と、声を掛けてみた。
 ――こんな呼び掛けに応じるかな。
 そう考えながら、もう一言、
「おい」
 すると犬は、のそっと立ち上がって、こちらに精悍な顔を向けた。
 そうやって見ると、最初に思ったよりも、また一段と大きく見える。全体として統一された灰色の毛並み、尖った顔には真っ黒な目と、これも尖った耳が並び、そこらの野良犬とは一線を画す鋭さがあった。もちろんと言うべきか、首輪など嵌めてはおらず、飼い犬にはとても見えない。
 犬はしばらくこちらを眺めていたが、やがて大儀そうに足を動かして左に移動する。そして数メートル行ったかと思うと、立ち止まって柵に貼り付いたまま、じっと見詰めて来た。どうやら、襲って来る気配は無さそうである。
 ――よし。
 そこで意を決して立ち上がると、それでも注意深く犬の目を凝視しながら、サイレンに近付いていく。犬は首を廻してこちらの動きを追っていたが、特に何かをしてくる様子も無い。
 ふと、場違いなことではあったが、唐突に父のことを思い出した。
 父に連れられてこの塔を昇ったのも、二十年を越える期間ではあったが、父は最初から自分の仕事を息子に継がせようと思っていたのか、時々このサイレンを廻させることがあった。最初のうちは手を添えて、やがて慣れてくると一人で――。
 そこで思ったのだが、たかだか数十秒、全く同じハンドルを同じように廻している筈なのに、父の音と自分の音が、どうしても違ってしまうのだ。随分気を付けながら、力を入れるタイミング、筋肉の動き、果ては立ち位置までも工夫しているのに、である。
 当然今でも、それは変わっていない。父のサイレンと自分のとでは、何かが違う。何処がどうと言われても判らないのだが、どうしても同じ音が出ないのである。
 もちろん、こんなことで役所から文句はこなかったが、どうにも納得が行かぬ。毎日毎日此処でハンドルを回転させながら、どうにか同じ音が出ないものかと頑張っているのだが、何故か成功していない。或いは自分は、この仕事を、父の音を再現する為に続けているのかも知れない。
 だが、何故今、こんなことを思ったのだろう。犬の黒い両眼を見詰めているうちに心に浮かんだのだ。或いはこいつは父の生まれ変わりで、その視線が彼と似ている? まさか。
 腕時計を見ると、まだ時間には充分な余裕があった。そこで腰を屈めると、おっかなびっくり、犬に手を伸ばす。別に噛みついて来るなどという様子は無い。それに力付けられて、頭に触れてみた。犬は相変わらずの大儀そうな表情で目を瞑る。撫でてみると、柔らかい毛先が掌に心地良かった。
「どうやって此処まで来たんだ」
 問い掛けたとて、答がある筈も無い。ただ、再び目を開いてこちらを見詰めてくるだけである。尻尾を振ったりすることもしない。飼い犬でない証拠だ。
 立ち上がると、いつもサイレンを鳴らす位置まで行って、街を見晴らす。さっきまで犬が見ていた風景――。窓も何も無い灰色の箱が、夕陽に照らされて、何処までも果てしなく連なっている。道路には車や人影の一つも無く、ただ、しんと静まり返っているだけだ。
 あれら、四角い建物の中には、何があるのだろう。
 もう、何百回となく浮かんだ疑問である。
 こんな風に、窓も入口もないビルを並べて、一体、何をしているんだ?
 街の成り立ちに関する疑問は、幾らでも湧いて来る。ビルの中身についてのみならず、碁盤目に走る道路は、行く者も無いままに、何故こんなに綺麗に街灯まで整備されているのか。聞く者がいるのかいないのか判らないサイレンを、どうして律儀に鳴らし続けるのか。それらについて市役所で訊いてみても、どうして誰も答えてくれないのか。
 しばらく考えて、ふと苦笑が漏れた。
 では、ビルに窓があれば何かが判るのか。道路を車が行き交ったとして、それらの目的が自分に理解出来るのだろうか。所詮は歯車の一つに過ぎない者にとって、他の人達のやっていることなど、どうでもよいのだ。
 気が付くと、犬も並んで同じ方を眺めていた。どうやって此処まで昇ったのかも不思議だが、そもそもこんな所で何を見ているのだろう。この灰色の体躯の中にある心は、人間《ひと》には理解しようもない。
 しばらくそうやって、四角い屋上の連なりを眺めていたが、やがて時計を見ると、そろそろ仕事に掛かる時間になっていた。そこで立ち位置はそのままに、サイレンのハンドルを握る。
「おい、そこで聞いててくれよ」
 何も言わないのもつまらないので、犬に声を掛ける。もちろん、その意味を解って貰えることは期待していない。
 左手を手摺に掛けて、腕にぐっと力を入れる。最近流行りの電気的に音を出す奴とは異なり、原始的な空気の振動を利用する方式では、正確な時刻に音を出すのは難しい。それでも長い間の鍛錬で、数秒の誤差で時を知らせられるまでにはなった。そのつちかった技術でもって、ハンドルの回転を次第に速めていく。やがて喇叭型の筒は低い唸り声を上げ始め、それはあの、何処までも届きそうな力強い響きに変わった。そのまま三十秒間、時報を街に流し続け、後は次第に力を抜いていく。いつもと同じ、父とは違う自分の音。時を知らせるという目的には何の支障も無いのだが、何とは無しに納得が行かぬ。考えてみれば、いつの間にやら、父に連れられて此処を上り下りした期間よりも、一人で梯子を上がるようになってからの方が長くなっているのだし、これが街のサイレンの音と思えばそれでいいのだが、やはり、一度は父の音を再現したいものだとは思っている。
 ハンドルの回転を完全に止め、右手を放して犬を見下ろすと、その顔は、何だかこう言っているように思えた。
「違う。その音じゃない」
 無論、こんなことを犬が思う道理も無い訳で、これはこちらの心の反映なのだろう。それとも、本当に音に疑問があるのだろうか。
 と、犬はのっそり立ち上がって、屋上の鉄板の上を横切り、真西に当たる方角に向かった。つられて、後をついていく。そして、彼方の地平線に沈まんとするオレンジ色の太陽を、黒い鉄の床の上で、共に眺めた。
「この光景も変わらないなあ」
 季節はまだ九月故、このくらいの時刻では太陽は沈まない。ただ、流石に秋分が近くなっている故、もう地平線すれすれ辺りまでは落ちていた。空にある時よりも、ずっと大きく見える。あれが沈んでしまえば、後には薄明だけが残り、やがて道路の街灯が点るのだ。
 本当のところ、自分は父についてどう思っていたのだろう。
 最初から、父は息子を跡継ぎにと選んだのか、手足が使えるようになった時分には、もうこの塔を昇らされていた。多分、もっとずっと小さな頃は下で待たされたか、或いはちょっと昇る練習をしては、低い所で降ろされたのだろう。その辺りの記憶は時の彼方である。ただ判っているのは、父に反発した覚えが無いことだ。これはどうしたことなのだろう。
 幼稚園にも行かずに、朝晩此処を昇らされた訳だ。五、六歳の身に二十五メートルの梯子は流石にきつかったが、幼い頃からの訓練でさほど辛いとは思わなかった。それに昼間は自由な訳で、遊ぶことは普通の子供と変わらなかったと言える。幼稚園に行かない子供は、他にもいた。雪が降るような日は、流石に泣きたくもなったが、だからといって、父に休ませてくれと頼んだことすらない。
 流石に小学校に上がってしまうと、朝の仕事について行くことは無理であり、夕刻の仕事だけが父親との付き合いとなる。したがって友達と遊んでいても、五時には家に帰らなくてはならなかったが、それも習慣付いてしまえば大したことではない。それから父親と共に自転車に乗り、此処までやって来る。後は梯子を昇ってサイレンを鳴らせばそれでお終い。中学に進学してからも、その習慣だけは変わらなかった。
「おい、高校、行きたいか」
 ある日、父に尋ねられた。父は世間の親と違い、進学が全てだとは思っていない。母もまた、そんな父に追随する形を採っていたので、この質問に異議は差し挟まなかった。
「別に――」
 勉強は全然好きではなく、その時分から、何とはなしに将来の職業がおぼろげながら見えていた。だから、進学の必要は感じなかったのだ。
「別に――」
 簡単にこう答えると、父は、
「そうか」
と言って、後は何も言わない。程無くして中学も卒業となり、再び幼い頃と同じ、朝晩二回の父との道行き、後は自由と言う生活が始まった。
 ――これで良かったのだろうか。
 別に後悔はしていない。問題があるとすれば、職場などで人と知り合うことも無く、常に孤独に生きて来たことくらいだ。したがって、結婚などについて考えることもなかった。幾ら昼間が自由とはいえ、それで直ちに女性と出会える訳でもない。
 聞けば、父と母は、当然の如く見合い結婚だったそうである。ことによると、もしも両親が生きていれば、今頃うるさく見合いを迫って来るのかも知れないが、既に二人ともこの世の人ではない。
 いや、あの二人の性格からして、そんなことに口は出して来ないか。伯父や伯母などもいないではないが、そういうことに関心が薄い人達らしく、誰も尋ねて来て、枠に飾られた写真を見せたりはしない。恐らく自分は、このまま生涯を独身で通すのだと思う。それで別に困りもしない。だが――。
 ――本当にこれで良かったのか。
 珍しく、人生なんぞというものについて考え込む。塔と自宅の間だけを往復し、昼間は本を読んだり、街を散策したりするだけの毎日。
 会社勤めなどに比べれば、楽な仕事と言えた。給料こそ安いが、少なくとも昼間は自由なのだ。賭け事等に嵌まったりする性格ではないが、たまにはパチンコくらいやってみる。それも無理に儲けようとはしない。元来が無欲なのだ。日々の生活がそこそこ成り立っていれば、文句を言う筋合いは何処にも無い。
 しかし、他人と話す機会だけは、やはり圧倒的に少なかった。その為、子供の時分はともかく、今はすっかり人見知りする性格になってしまっている。人生の転機とでも言えることは、父親の引退で此処を継いだこと、両親の死、後は――。
「おい、お前はどうやって此処まで上がったんだ」
 再び、犬に問い掛ける。考えてみれば、これも大事件と言えるのかも知れなかった。何しろ、絶対に有り得ないような場所でこいつと出会ったのだから。
 しかし犬は、こちらをちらりと見上げた切り、もう大分沈んでしまった太陽を眺めるのに心を集中させているようだった。既に辺りは少しずつ暗くなり始め、陽光はますます赤に近くなっている。
 ――考えてみても、仕方無いことなんだろうな。
 どんな人生を歩むにせよ、道は一本しか無い。平凡な――いや、平凡などというものがそもそも存在するのか、それすら怪しい――サラリーマンになったとしても、いずれは同じことを考えていただろう。政治家になろうが、自営の会社を持とうが、必ず突き当たる問題だ。
 本当に、これで良かったのか。
 そんなことを考えるうち、太陽はますます低くなっていき、もうほとんどが地平線の下に没してしまっていた。いずれ、この人生もあのように終りを告げる。日没を眺めるたび、時たま思うことだ。
 と、何を思ったか、犬が低く唸り始めた。
 ――どうしたんだ。
 何かに怒っている様子では無い。立ったまま、西に向かって喉を鳴らしているだけだ。が、やがてそれは、長い口で天を仰ぐと、鋭く震えるような遠吠えを発し始めた。
「おい、お前」
 声は長く伸びたかと思うと、深い余韻を残しながら空気の中に消えていく。
 ――まさか。
 そこらの雑種犬よりもごつい顔つき、美しい灰色の毛並み――今の遠吠えと言い、明らかに犬の物ではない。
 その声は辺りに響き渡ったかと思うと、やがて大気に溶けるように消えていった。同時に太陽も完全に没し、後には薄明だけが残される。傍らの獣は、その薄明りを見詰めつつ、しばらくの間、静かに立ち尽くしていた。だが――。
 今の遠吠え……。確かに聞き覚えがある。鋭く震え、長く余韻を引く振動――父の出していた、あの音ではないか。
 しばらくは何も言えなかった。二十年以上に渡ってどうしても出せなかった響き。それを傍らの獣が、いとも易々と喉から出して見せたのだ。
 しばし立ち尽くした後、やおら、設置されているサイレンに向かう。時計を見ると、既に十八時になんなんとしていた。これを二度鳴らしたら迷惑になりはすまいか、いや、或いは市役所から咎められるかも知れない。
 そうは思ったが、もう矢も楯もたまらなかった。どうせ、ビルの中では何が行われているか判らないのだ。向こうにも時計くらいあるだろう。
 獣は黙って後からついて来る。父の魂が乗り移ったかのようだ。
「そうだ。やっと解ったか。今の響きだ」
 心でそう言っているようにも思えた。
 ハンドルを握ると、腹に力を入れる。そして、今の遠吠えを心に想い描きつつ、ゆっくりと廻し始めた。サイレンは低い唸り声を上げつつ、次第に音を高めていく。先程の獣の声と同じだ。そこで俄かに腕に力を込めると、急速に回転を速めていった。
「やった」
 思った通りだ。唸りが鋭い時報を告げる音に変わり、先の遠吠えのように響き渡る。それから少しずつ力を抜いていくと、やがて震えるような余韻を残して消えていった。
 手を止めて辺りに耳を澄ます。もう、木霊も残っていなかった。既に空には星が見え始め、思い通りの音を出せたことを、祝福するように瞬いた。
「ありがとうよ」
 獣に言う。どういうつもりだったのかは知らぬが、こいつのお蔭で、ようやく父の音を再現出来たのだ。礼くらい言ったとて、おかしくはあるまい。
 それは薄明りの中で、何を考えているのか解らない表情を以て、見詰めて来た。或いは今のサイレンに何事かを感じ取ったのかも知れない。だが、この顔からは何等伺い知れるものではない。
 と、それはくるりと向きを替えて、灰色の背中を見せた。そのまま手摺の切れている所まで向かうと、梯子を前にして下方を見下ろす。
 何を考えているのだろう。
 そう思う間も無く、突然、体を投げ出して空中に踊り上がる。あっという間に、その姿は視界から消えてしまった。
「おい!」
 二十五メートルの塔。その天辺から飛び降りたのだ。無事に済まされる筈もない。
 だが、北の端から見下ろすと、獣は何事も無かったかのように地面に立ち、街灯の明かりの中でこちらを見上げた。
 驚くべきなのか、ほっとすべきなのか。無論、両方だ。相手の無事な姿を確認すると、後を追おうと梯子段に手を掛ける。しかしそれも束の間、下にいる獣は再び一声、今度はずっと短い遠吠えでこちらに呼び掛けると、全てに興味を失ったように向きを替える。それから、野生獣独特の堂々とした歩き方で、街路の闇の中に消えていった。
 梯子の手摺を握り締めたまま、しばし、呆然とする。後を追おうかとも思ったが、まさか飛び降りる訳にもいかず、梯子を使ったらとても追いつくまい。仕方無く、手摺に手を掛けて、ゆっくりと下りながら考える。
 結局あいつは何だったのだろう。どうやって此処まで上がったのか、何の為に此処にいたのか、どうしてこの高さから平然と飛び降りることが出来たのか。
 夕暮れの街を眺めながら、遠吠えをするあの姿。もうとっくの昔に滅び去ってしまった仲間に向けて呼び掛けていたのか。毎日鳴らされるサイレンは、あの尖った耳にどのように響いていたのだろう。
 既に薄明も消え、辺りを照らす物は、道端の街灯だけとなっていた。ようよう地面に降り立つと、販売機の横に留めてあった自転車の鍵を外す。
 明日は、自分の鳴らすサイレンはどのように響くのだろう。もう一度父と同じ音が出せるのか、はたまた、いつもの自分の音に戻ってしまうのか。いずれにせよ、二回鳴らすのは今回限りだ。
 そんなことを思いながら、ペダルに足を掛け、窓の無いビルの間に自転車を走らせて行く。

平田真夫プロフィール


平田真夫既刊
『水の中、光の底』