『ソルジェニチン作「桃太郎」』林譲治

(PDFバージョン:solzhenitsynsaku_hayasijyouji
 これら群島に収容されたとき、あなたはこう思うだろう。「これは何かの間違いだ。明日になれば、内務省局員が、いや、申し訳ない、こちらの手違いでした。よく似た名前の人物が多いのは、あなたもご存じでしょ、と言って釈放してくれるの」と。そう逮捕されたときの私が、まさにそうだった。革命後の世代、赤軍将校として戦った私が、なぜ逮捕されると?
 ここで私が指摘したいのは、群島における、密告屋の存在と、内務省局員の能力、特にその技術面である。私が最初に収容された群島には、桃太郎という内務省に属する将校がいた。彼はその立場にもかかわらず、非常に好ましい人物に私には思えた。
 告白しよう。私はその時、桃太郎だけは同じ種類の人間だと思っていたことを、そして彼もそう思っていてくれると確信していたことを。
 私が赤軍の将校としてドイツ軍と闘う前、モスクワ大学の学生だった。そして我が群島には、そうしたインテリは桃太郎しかいなかった。じっさい彼は私に関心を示していた。二言三言と言葉を交わすだけだったが、桃太郎がこの群島の囚人たち――主に58条組――の無教養さにうんざりしているのがわかった。
 ある夜、私は一人、桃太郎に呼ばれた。彼の部屋は、小さなものだったが、清潔で、しかもラジオから音楽が流れていた。そして室内にはよい香りがした。それはストーブの上で焼かれていたきびだんごの香りだった。
 あなたには想像できるだろうか? 群島では、きびだんごでさえご馳走であることを。私は、その時、桃太郎よりも、そのきびだんごのことしか目に入らなかった。そして「一ついかがですか?」と自分に桃太郎がきびだんごを勧めてくれるような光景さえ夢想していた。
「お掛けになってください」
 桃太郎はそういうと私に椅子を勧め、自らサモワールからお茶を入れてくれた。私はこの時、まだ彼を自分と同じ種類の人間と思っていた。そのじつ、桃太郎こそ、私を自分の同類にしようとしていたのだ。
 この時、自分は桃太郎とどんな会話をしたのか、よく覚えていない。ただきびだんごの焼ける臭いだけが気になっていた。だから桃太郎がきびだんごに視線を走らせるたびに、それがもらえるかもしれないと期待を膨らませた。それが桃太郎にどう映っているかも気にすることなく。
「ところで、あなたは我が国の味方ですか?」
 桃太郎は突然、そう言いだした。私は、その瞬間、すべてが幻想であることを悟った。桃太郎は、書類を持っていた。あれが私の再審関係の書類なら、刑期はすぐに10年は伸びるだろう。桃太郎は私の生殺与奪の権を握っている。
「もちろん、祖国の味方です」
 そう、その言葉には嘘はない。そして、桃太郎に対して、あなた方こそ祖国の味方なのか?と問いかけたい衝動に駆られた。もちろんそうする勇気が無かったために、私はこうして生きている。
「そうでしょう、あなたは我々の仲間だ」
 桃太郎は親しげに、私の肩を抱いた。そう、その瞬間、私は彼の仲間になったのだ。桃太郎は言う。
「我々は祖国の敵に立ち向かわねばならない。祖国の敵を一掃する必要がある。そのための情報と協力者を求めています」
「それはつまり……」
 私はそれでも話の方向を少しでもずらそうとした。無駄な抵抗だった。桃太郎はすぐに軌道を修正した。
「矯正施設内には、潜在的な祖国の敵が紛れ込んでいます。我々はそうした人物の情報を求めている」
「それは……つまり」
「我々はそうした人物が誰であるかを知り、彼を助けたいんですよ。誤った道から正しい道に」
「祖国の敵を救うと……」
「更正の機会を与えるのです。それが我々の革命の理念ではありませんか」
 何という茶番か、私も桃太郎も、更正などありえないことは百も承知している。しかし、我々は真実から目を背けながら、ダンスを踊っていたのだ。
「あくまでも形式ですが、この書類にサインしてくださいませんか。あなたが我々の仲間であるという印に」
 私が躊躇っていると、桃太郎はきびだんごを皿に載せて私の前に置いた。そして私はサインをした。こうして私は、きびだんごによって、桃太郎の犬になった。

〈犬編 完〉

林譲治プロフィール


林譲治既刊
『絶対国防圏攻防戦 (2)
赤道直下の死闘』