「骸の船」伊野隆之

(PDFバージョン:mukuronofune_inotakayuki
 急に、いろんなことが変わってしまったの。町の人はみんないなくなってしまうし、それに、いつまでも夜が続いているのよ。街灯はいまにも消えてしまいそうに瞬いて、冷たい風もどんどん強くなる。お店はみんな閉まっていて、これからどうすればいいかわからないの。
 放送は聞かなかったのかい。港に集まるように、繰り返して放送していたはずだよ。この町はもうすぐ住めなくなるから、それまでにこの町を離れなければいけないんだ。だから急がないといけないんだ。
 悪い噂を聞いたのよ。港に行った人は、誰も帰ってこないというの。埠頭には、骸骨のような、気味の悪い船が泊まっていて、港に行くとその船に、無理矢理乗せられてしまうのだって。船に乗る人たちは、みんなが死人のように歩くのだって。
 噂を気にしちゃいけないよ。港には船が来ているし、町の人は船に乗り込んでいる。だから、なにも心配することはないんだ。この町にいたままでは、町と一緒におしまいになってしまう。船は、みんなを助けにきたんだよ。
 助けにきたのなら、船に乗るために、どうして死人のように歩かなければならないの。どうして、今のままではいられないの。私は死んでしまうのはいやよ。死んでしまうのは恐ろしいわ。
 怖がることはないんだよ。船にはこの町に住む全員を乗せなければならないから、動き回るには十分な場所がないんだ。船が深淵を越える間、誰もが肩を寄せ合い、じっとしていなければならないから、死んでいるように見える、それだけのことなんだ。
 どうしてそんなことがわかるの。どうしてそんな気味の悪い船のことを信じなければならないの。
 信じるしかないんだよ。この町が消えてしまうまで、もう時間がないんだから。この町に囚われていたら、きれいさっぱりと消えてしまうよりない。だから、信じるんだ。
 もし、信じなかったら、わたしはどうなるのかしら。たった一人で取り残され、ここで凍えているよりないのかしら。
 そんなことはないよ。だから、ぼくがここに迎えに来たんだ。君が船に乗れるように、君を殺してあげるために。

* * *

 長い夜に覆われた港町にぼくたちはいた。
 いつから吹き始めたのか、いつまで吹き続けるのか、海から冷たい風が吹き、遠くからひゅうひゅうと風の音が聞こえる。
 海沿いの道を歩いてきたぼくとマユリが、風を避けて入り込んだのは、海岸通りの一軒の空き家だった。不法侵入のぼくたちがいるのはがらんとした部屋で、暖炉に火を入れてもなかなか暖かくならない。
 船を見たいとマユリが言ったのだ。しっかりと手をつなぐとつぶれてしまいそうな柔らかな手をしたマユリは、船の見せる夢に囚われている。ここのところ毎夜のように、船は深淵をわたる夢を見せるのだ。だからぼくたちは、ここまでやってきた。
 きっと、私たちを呼んでいるのよ。
 小首を傾げて言うマユリに、ぼくは船は恐ろしいと言う。船は死だ。船は死んでいるのに死にきれないからぼくたちを呼ぶ。ぼくたちが船に乗れば、船は深淵に漕ぎ出すことができる。
 いいところじゃないよ。きっと、おもしろいこともなんにもないよ。
 あなたは行ったのね。一人で行ったのかしら。もしそうなら、それはとても狡いことじゃなくって?
 マユリの非難は、どこまで本気なのかわからなかった。ぼくは船に行ったことなんてない。でも、本当に行ったことがないのだろうか。
 きっと、船は怖いところだよ。とても暗くて、寒いところだよ。
 マユリを思いとどまらせようと、ぼくは言う。冷たく、凍り付いたような船。でも船は、ぼくたちを強く引きつける。船に乗ってしまったら、ぼくたちは、二度と町に戻ることができない。ぼくは必死にマユリに説明しようとするのだけれど。
 なぜ知っているの、どうしてそんなことがわかるの?
 そう聞かれたぼくには、答えがない。ただ知っているとだけ、うつむきながら小声で答える。つぶやくように小声で答える。
 でも、それって、ホントのことかしら。
 マユリの問いは宙に浮き、小さな結晶になる。氷の粒のように冷たいそれは、ぼくの心に突き刺さる。
 何で知っているんだろう。ぼくは自分に問いかける。船はそこにあり、ぼくは船のある場所を知っている。行ったことがあるのかどうか、それすらも定かでないのに、ぼくは船を知っている。
 船もぼくを知っている。打ち捨てられた港に横たわり、無惨な姿をさらした船は、むき出しの肋骨の間でひゅうひゅうと口笛のような音をたてながら、しかしまだ深淵をわたる旅に向け、ぼくたちを待ち続けているのだ。
 暖炉の火が揺れる。やっと暖かくなってきた部屋で、僕は膝を抱え込む。まるで、両足の自由を奪っておかないと、行ってはいけないところへと歩きだしてしまうかのように、きつく膝を抱え込む。
 おかしいわよ。あなたには勇気はないの、冒険心はないの?
 ああ、ぼくには勇気も冒険心もないのだろう。勇気があれば、この町を離れていただろうし、冒険心があれば、この町を出て、どこにだって行けたかもしれない。けれどぼくには勇気も冒険心もなかったし、それに、この町の外には、なにもない。なにもないところにこの町だけがあり、この町から出て行くには船に乗るよりない。
 ごめんよ、もう、考えたくない。
 そう言って、ぼくはマユリから目をそらした。マユリが船に呼ばれているように、ぼくも船に呼ばれている。毎夜のように夢の中でぼくは船に乗り、真っ暗な深淵に向けて漕ぎ出すのだった。船にはマユリはいないし、ぼくの他には誰もいない。みんなそこにいるのに凍り付いてしまっている。
 あなたはなにから逃げているの?
 マユリはつぶやく。それが、ぼくに尋ねる言葉だったと気づくのには時間がかかった。まるで真っ暗な深海から浮上して空気を吸う水棲ほ乳類のように顔を上げたとき、マユリの瞳がじっと僕を見ていたことに気づいた。それでやっとマユリがぼくの答えを待っていたことに気がついたのだった。
 ぼくは逃げている。ぼくは恐れている。恐れることなどないという、ぼくの内なる声から、ほんのわずかでも遠ざかろうとして、かたく目を閉じ、耳をふさぎ、体を土の中で冬眠中の幼虫のようにまるめている。
 でも、マユリ、ぼくは君のそばにいて、君を見て、君を感じていたい。それがどんなに危険なこと、ぼくにとってではなく、君にとって危険なことなのか、君は知らない。
 ぼくが黙っていると、君はぽつりとつぶやいた。
 もう、この町には誰もいないわ。
 誰もいない。みんな船に乗ってしまった。でもなぜ、マユリが知っているのだろう。残されたのはぼくたちだけ。暖炉の火と、窓越しにオレンジ色の街灯の明かりが照らす、そら寒い部屋にいるぼくたちだけが残されている。なぜなら、ぼくは船に行きたくないから。船に行ったら、君が君でなくなり、ぼくはぼくであることをやめなければならないから。そんなことには耐えられない。
 私たちも、行かなきゃいけないわ。
 きっぱりと言った君の黒い瞳が濡れているのはなぜだろう。
 本当に行きたいの?
 ええ、準備はできているわ。
 君の決心は固い。いつだって君の決心は鋼鉄のように固いのだし、いつだってぼくは抗えない。ぼくはそれを学んでしまっていた。
 遠くから汽笛が聞こえた。船がぼくたちを呼んでいる。早く来いとせかしている。
 間に合わなかったのね。船を見たかったけど、時間がなくなってしまったのね。
 残念そうにマユリが言った。埠頭はまだ遠く、外を吹く風は身を切るように冷たい。街灯が息も絶え絶えに瞬き、残された時間がないと告げている。世界は、あと少しの時間で終わってしまう。
 さあ、行きましょう。
 君は立ち上がり、ぼくに向かって手を差し出す。その手を握ると、運命は避けようがないのだとわかってしまう。歩いて船に行けないなら、こうするよりないのだった。
 立ち上がり、大きく息をしたぼくは、君を見つめる。こんなことは好きではないし、できるならやりたくなかった。けれど、こうするほかに、君を完全な消滅から救うすべはない。わかっていても、ひるんでしまうぼくを促すように、君は大きくうなずいた。
 君の首に手を伸ばし、少し顎をあげた君の首を両手のひらで包み込む。しっとりとした喉の感触を両手のひらに感じながら、ぼくはゆっくりと力を込める。
 少しだけ、苦しそうに顔をしかめる君。なめらかな頬を涙が伝い、ぼくの手を濡らす。ぼくは君を見ていることができない。目を背け、それでいて手に力を込める。
 君の体がぴくりと揺れる。ぼくは、とりかえしのつかないことをしてしまったのだ。
 君の顔がにじんで見えるのはなぜだなんて言わない。こうして君を殺すとき、ぼくはいつも泣いている。ぼくは崩れ落ちそうになった君の体を受けとめ、しっかりと抱きしめる。命を失った君から、テクスチュアが無数のピクセルとなってはがれ落ち、砂のように流れて消える。
 テクスチュアを失った君は、明るいグリーンに輝くワイヤーフレームになっていた。君の形をしたワイヤーフレームが、ワイヤーフレームになったぼくと絡み合う。絡み合ったワイヤーフレームは、一つの光球になって船に飛ぶ。
 ぼくはひとり、骸の船にいる。
 ずいぶん遅かったじゃないか?
 船が、ぼくの内なる声が言う。
 ぼくは骸の船を見渡す。命のない無数の体で造られた船のどこかに、君がいるはず、君だったものがあるはずだった。
 汽笛が聞こえた。
 最後の乗客を迎え入れた船は、深淵へと漕ぎ出してゆく。

* * *

 ……第七十四区画、回収用の擬意識モジュールが、最後の意識体の回収に成功しました。区画内オールクリアです。
 ……よくやった。もう一度、回収漏れがないか確認したらシャットダウンしろ。
 ……わかりました。第七十四区画をシャットダウンします。

 遠くに声が聞こえた。ぼくは目を開き、君の喉の感触が残る両手を見ようとする。ワイヤーフレームの両手。君の首を絞め、命を奪った手。けれど、骸の船はそうしないと出港できない。圧縮された七千万人分の死を乗せた船は、深淵を越え、世界の果てを越えて、安全な場所へと避難していく。そのために、ぼくは君を殺したのだ。
 後悔はない。けれど、ぼくは空虚だった。まるで喪失感で作られているかのように、空っぽになっていた。

 ……次は、八十三区画に投入しよう。ずいぶん、回収作業が遅れている。一刻も早く、なるべく多くの意識体を回収しなければならないからな。
 ……この擬意識モジュールは再チューニングが必要です。回収効率が落ちているので、意識体との共感形成が進んでいると思われます。自分を意識体と同一視して、死を恐れるようになっています。ストレスレベルが上昇しており、回収ミッションに対する疑念が生じている可能性があります。
 ……無理だ。太陽バーストの到達まで時間がない。すべての意識体を回収しておかないと、システムの強制シャットダウンでデータが吹っ飛んでしまう。擬意識モジュールは、所詮、回収用に作られたAIだ。機能さえしていればそれでいい。
 ……わかりました。第八十三区画に、擬意識体を投入します。ですが……。

 ぼくは闇に落ちてゆく。そこもまた消えつつある世界に残った港町で、埠頭には船が待っている。世界の終わりを知った人々は、死人のように歩きながら、従順に船に乗り込んでいるだろう。
 闇に飲み込まれようとする世界で、ぼくは道に迷った君を捜し、君に手をさしのべ、涙を流しながら君の首を絞めるだろう。君が船に乗れるように、みんなが船に乗って行けるように、ぼくはまた君を殺すだろう。
 たとえ、この世界が終わってしまっても、君が消えてしまわないように。

伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『こちら公園管理係4
 海から来た怪獣』