「空っ風と迷い人の遁走曲 2」片理誠(画・小珠泰之介)

(PDFバージョン:karakkazeto02_hennrimakoto
 脳波の遷移、血流の具合、脳内物質の分泌状況……、モニタに映し出されたのはどれもひどい内容のものばかりだったが、中でも最悪だったのが脳内のデータフローだ。
 神経細胞(ニューロン)間のメッセージは、パルス状の電気信号として伝導される。で、この信号の流れを非接触型高深度電磁センサーで大雑把に拾ってみたのだが、まるで世界中からこんがらがった綾取りの糸を掻き集めて無理矢理詰め込んだような有様だった。しかもそこら中に人為的な、直線の流れがある。滅茶苦茶だ。複雑怪奇にからまり合っている上に、強引極まりない乱暴な処置がこうもあちこちに施されてあるとは。まったく、見ていて吐き気がした。
 ひどいな、これは、と思わず声が漏れてしまう。
 並の医者なら一瞥しただけで匙を投げてしまうだろう。私ですら怖気をもよおしたほどだ。ここまでこじらせてしまう患者も珍しい。
 ううむ、と腕組みをする。
「君は真っ先に私のところにくるべきだったな。こうまで滅茶苦茶にいじられた後では」
 診察台の上のアイザックが申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ありません、ドクター。色々と込み入った事情がありまして」
「君の記憶の状態を例えて言うならば、出鱈目な増築を繰り返した百階建ての雑居ビル、といったところだ。元が何階建てだったのか、簡易検査程度ではさっぱり分からん。いやはや、ここまでいじるとはね。そこら中がバイパスだらけだ。しかもひどい処置ばかり。乱暴極まりない。よほどのヘボ医者にかかったと見える」
 あぅ、と彼。
「あのような辺鄙な都市には、腕のいい医者はなかなか。ましてやこれは非合法な治療のわけですし」
「あり合わせで誤魔化し続けた結果が、今の君だ。こりゃどうにもならん。一度真っさらな状態に戻さないと。そうだな」
 顎に手を当てて考え込む。
 考えようによってはこれはチャンスだった。
 このひどい状態を治せる医師は、確かにこの火星でもそうはいないだろう。となれば、多少ふっかけても罰は当たるまい。その方がこの男にとっても良い薬になる。見かけは貧乏そのものだが、地方の下っ端組織とは言え、一応はマフィアの幹部。ならば、一般市民よりは懐具合もいいはずだ。どっちにしろこの治療には時間がかかる。つまり、このアイザックという哀れな男は、私にとっては上客かもしれない、ということだった。
 そうだな、とおもむろに口を開く。
「精密検査にあと三日、記憶のリデザインに一週間、処置に二日、予後の経過観察期間としてできれば一年、短くても半年は必要だろう」
 がば、とアイザックが起き上がった。
「そんな! とんでもない! 明日の朝までには職務に復帰しなくてはならないんです!」
 おいおいおいおい、と私。
「無茶を言うもんじゃない。君の頭の中の混線は数時間程度の治療でどうにかなるようなものではないんだ。記憶の定着と安定には時間がかかる。その間は、ストレスも極力避けなくてはならん。結局のところ、健康には休養が必要なのだよ。遅れていた夏休みがまとまってやってきたと思えばいい。今ここで抜本的に治療をしなかったら、手遅れになってしまうぞ。廃人になる」
 だが相手は首をゆっくりと左右に振った。
「ドクターは何もお分かりでない。……私のスケジュールは、三十年先までびっしりと埋まっているのです。自由になるのは今日の、この一日だけ。特に明日は親組織から重役がやってくるので、私が休むことなどあり得ません。諸々の取り決めに関する調印をすることになっているのです。ですが、まだ幾つか非常にデリケートな案件が未解決のまま残っておりましてね。何が起こるか分からない。その場には私も絶対に出席しなければなりません」
 今度は私がかぶりを振る番だった。
「やれやれ。典型的な仕事中毒(ワーカホリック)という奴だな。そんなことを言い続けた結果が今の君だろう? まだ目が覚めないのかね。このままでは君の精神は完全に木っ端微塵になってしまうんだぞ」
「構いません」
「おいおい」
 この男と話していると何度も自分のこめかみを押さえることになるな、と私は呆れる。まったく、何なんだこいつは。これならまだAIの方がよっぽどマシなことを言う。自己の生存を優先するのは、生命ならば当然の欲求だろうに。
 このままでいくともうすぐこの男の脳は使い物にならなくなる。ほぼ廃人状態だ。何度バックアップ・データから復活させたところで、そのアイザックはまたすぐに廃人になってしまうのだから意味などあるまい。復活させるとしたら、そのようなわけなので相当以前のデータを引っ張ってこなくてはならないが、そんな古いバージョンのものが果たして残っているのかどうかは甚だ疑問だし(エゴデータの保存だって、無料ではないのだ)、大昔のアイザックは最近の記憶を持っていないのだから、どっちにしろ会計係としては使えまい。
 彼が彼としてこれからも生きてゆくためには、今ここで治すしかない。このままでいくともうじき、この私ですら手の施しようがなくなってしまう。
「そんなに仕事が大事かね? 自分の人生よりも? そうまでして組織に尽くしたところで、見返りなどあるまいに」
 語気をいささか強めたつもりだったが、我が上客アイザック君には通用しなかったようだ。しれっと、「仕事(ワーク)ではありません、ドクター。役割(ロール)です」などとぬかしている。
「会計係という役割を失ったら、私には何も残りません。無だ」
「そんなことはあるまい。君にだって、君の人生がある。会計係以外の要素だってそこにはあるはずだよ。趣味とか、家族とか、友人とか、夢や希望、幸せといった」
「ありません。この役割こそが、今私がこの世界に存在する理由の全てです。会計係でなくなったら、私は私ではない。ただのノーバディです」
「こりゃ、重症だな」
 何と言って説得したものか。私は額に手を当てて考える。
 アイザックの追討ちがそこに被さってきた。
「私は私の今の立ち位置に満足しております。誰かを必要とし、誰かから必要とされたい。人は誰だってそう願うものなんじゃありませんか? 私の場合は、それがたまたまマフィアの下部組織であるというだけの話なのです。私は私の役割に満足しているのです。私は、幸せなのです、ドクター」
 あー、頭が痛い、と私。
 この男のボスは随分と上手くこの男を仕込んだものだな、と思わず感心してしまう。組織にとってこんな都合の良い人材は確かに希だろう。使われるだけ使われ倒されても、文句を言うどころか、感謝しているのだから。まったく、やれやれだ。
「何とも、想像を絶するな」
「私は今の役割を、この地位を、ずっと守ってゆきたいのです。ですがこのままではそれができません。助けてください、私を直してください」
 にじり寄られ、真剣な眼差しで懇願されても、しかし無理なものは無理だ。
「そうは言われても、通常なら半年から一年はかかる治療をだね、たったの数時間でというのは、いくら何でもできない相談というものだ」
 ああ、とがっくり肩を落としている。その意気消沈ぶりは、見ていて哀れをもよおすほどだった。
 この男からすれば、火星の裏側からここまで飛んでくるのは、一大決心の末でのことだったに違いない。費用はもちろん、手間も時間も相当に費やしたはずだ。しかし、それらが全部無駄だったとなれば、確かに落ち込みもするだろう。気の毒なことではある。
 一縷の望みにかけて、藁にもすがるような思いで、人生最大の勇気を振り絞って、わざわざここまでやってきてくれた客。そこまで私のことを頼ってくれた患者を、無下にあしらうというのは、私自身の心情にも苦いものを残す。
 それにこの男は船長の客でもある。あの気の良い男は道すがら、きっとこの可哀想な積荷にこう言っていたに違いないのだ。「なぁに、心配すんなって。ドクター・フレックに任せておけば大丈夫だよ。不安なことなんか何もねぇ。あのドクターは何でも治しちまうんだ。そのせいで学会にいられなくなっちまったくらいなのさ」と。
 やれやれ、仕方がないな、と私は観念する。さらばだ、我が上客。
 丸まって震えているアイザックの背中に話しかける。
「……まぁ、どうしてもと望むのであれば、一つだけ手がないわけでもないがね」
 本当ですか! と勢いよく男が顔を上げた。
「もちろんどんな手段でも構いません、ドクター! この役割を続けられるのであれば」
 彼の目を見つめる。そしておもむろに告げた。
「君が君でなくなってしまっても、かね?」
 そう。この方法には犠牲が伴う。この場合、失うのはもはや記憶だけではすまない。自分自身のパーソナリティを取るか、社会的な役割を取るか、選ぶ必要がある。どちらもというわけにはいかないのだ。
 数秒間の空白の後、アイザックはゆっくりとうなずいた。
 私は思わず天を仰ぐ。
「やれやれ! つまらん仕事になるな。マチルダ、処置の準備を」
 指を鳴らす。
 室内が暗くなった。

 アイザックを診た三日後、ジョニィ船長がやってきた。両手に紙袋を抱えて。その中身が風味豊かなベーコンやチーズ、みずみずしいまでに新鮮なトマトにレタスにオニオン、それと何本ものワインボトルとくれば、私でなくとも相好を崩すというものだ。
「ドクターにはいつも無理を言っちまってるからな」と彼。ろくな予約もなしに患者を運び込んできたことを詫びているのだ。
 赤、白、ロゼ。こうも色とりどりの瓶を前にしては、人間、君は人使いが荒すぎるなどとは言えなくなってしまう。大金はせしめ損なったが、この土産は悪くない。
 客が誰もいないのをいいことに(残念ながら我が診療所は、犯罪組織同士の派手な抗争でもない限り、まず賑わうことがない)、さっそくロビー(と言っても、申し訳程度の広さしかないが)に持ち込み、まずは白ワインのボトルを開けた。つまみにはチーズとレタスの盛り合わせ。
 唯一残念なのは、船長は機械人なので一緒には酒が飲めない、ということだった。
 代わりにテーブルの上にチェスを置いて、二人で指す。この男がいつきてもいいように、我が家には常にチェスや将棋のセットが置いてあるのである。
 手を振る動作で、ああでもないこうでもないと口を挟みたがる支援AIを、オフにする。すまんな、マチルダ。いつも何かと気を利かせてくれる君に私はとても感謝しているが、しかし、これは同じ程度の下手くそ同士で指すのが一番面白いのだよ。
 ククク、と大柄な機械人が肩を揺らした。
「だがドクは正しいよ。支援AIならいつでもオフにできる」
 リラのことを言っているのだ。インフォモーフは物質としての肉体を持っていないというだけで、一個の歴とした人格であることに変わりはない。人権だってある。AIのように、こちらの勝手な都合で停止してしまうわけにはいかないのだ。
 第一、あの少女にそんなことをすれば、後でその何百倍もの反撃が小言となって襲いかかってくることは目に見えている。くわばら、くわばら。それは想像するだに恐ろしい事態だ。
 フフフ、と私もほくそ笑む。
「君はフェミニストだからな」
「べ、別にそんなんじゃない」
 私はグラスに口をつける。独特の風味と辛みが口の中いっぱいに広がり、やがて爽やかな余韻とともに体内を駆け巡り始める。久しぶりの酒は、やはり格別だ。五臓六腑に染み渡るな。
 グラスから視線を上げる。彼はまだチェス盤を前に腕組みをしていた。
 シンスと呼ばれる人型の機械義体。身長は二メートルを超える。がっしりとしたシルエットのボディだ。カラスのように真っ黒なのは、表面に戦闘用の装甲をまとっているから。
 傭兵や用心棒と違って戦うこと自体を生業にしているわけではないが、そうは言っても船長も暗黒街に所属する運び屋だ。時には戦闘を避けてばかりもいられないのだろう。戦闘用装甲は本人にとっては正装というよりは、着ていて当然のユニフォームのようなものに違いない。よく「気休めにしかならない、安物だよ」と言っているが、時々新調されているところを見ると、それでも十分に役立ってはいるようだ。
 顔の部分も鏡面仕上げの施された黒いフェイスガードで覆われていて、まさしく全身黒ずくめだった。それで厳つい体をしているのだから、初対面の者なら萎縮してしまうかもしれない。だが話してみれば気の良い男だ。元々機械人には表情などないのだから、慣れてしまえばフェイスガードも気にはならない。
 私は微笑んだ。
「船長はどう思うかね。私はリラにはやはり生体義体しかないと思うんだが。彼女のあの豊かな感情表現は、とてもではないが機械義体では再現できんだろう。勿体ない話だとは思わんかね」
 うーん、と彼。
「冒険に出ることを考えるなら、機械義体という選択も悪くはないさ。マシンなら空気も水も必要としないからな。Gや放射線にだって強い。極限環境下ではこっちの方がずっと有利だ」
「しかし何も飲まず何も食わずでは、生きているということを実感しにくいんじゃないのかね? こんな狂った時代の中で、正気を保つというのは並大抵のことではないよ。無味乾燥な機械の体、機械としての人生に、彼女の精神は耐えられるだろうか」
 ロビーの一角ははめ殺しの窓になっている。打ちっ放しのコンクリートに空いた、明かり取りのための細長い穴だ。私はその向こうを見つめる。火星は今日も冷たく乾いた赤い風が吹いていた。
「情報体でいる今、彼女の周囲には楽しいことが沢山あるのだろう。だがいつまでも今のままなら、望んでいる冒険には永遠に出られない。いつかはこの現実世界に出てこなくてはいけないんだ。私は、老婆心と笑われるだろうが、心配なのだよ」
 船長が肩をすくめる。
「ま、全てはあいつが決めることさ。ドレスのように義体をとっかえひっかえする奴だっているんだ。生体だろうが機械だろうが、好きに試してみればいい。もっとも、まだ当分、情報体をやめるつもりはなさそうだがな」
「怖いのかね、娑婆に出るのが」
「さて。だが、情報収集等、今のままの方が有利な局面も多いからな。おおかた、判断に迷っているんだろうよ」
 ところで、とこちらに視線を上げた。
「……正気を保つと言やぁ、今回の客は随分と上手いことやったな、ドク」
「ん? アイザック氏のことかね? あんなもんは治療でも何でもない。ただのペテンだよ。おかげで医者としての矜恃がいたく傷ついた。もっとも、当人の望みとあれば仕方がない」
 渋面を作りつつ、私は肩をすくめる。少なくともあれは、私のポリシーにぴったりと合致する治療とは言えなかった。私は自分の美学にこだわるタチなのだ。
 船長が天井を見上げる。
「行きと帰りでは奴さんはまるで別人だったぜ。……こっちも元々は火星の裏まで行って帰ってくるだけの楽な仕事なのかと思ってたんだがね。おかげでまた船に穴が空いちまった」
 ほう、と私。チーズを頬ばる。こくのある味わい、独特の風味、ああ、まったくたまらん。人生とはこうでなければ。
「船長が手こずるとは、よほどの強敵だったと見えるな」
 ジョニィがこちらを見た。苛立たしげに片手をかざす。
「一対一での砲撃戦なら、どうってことはなかったさ! しかしまさか、あれほどの数の船が待ち伏せていやがったとは。さすがの俺も少しばかり驚いたね。ま、換装したばかりの大出力陽電子砲のテストには丁度良かったんだが。……奴は狂ったように泣きわめいてたぜ。まったく、まともな様子じゃなかったな」
 ふむ、と私は眉をしかめる。
「戦闘を目の当たりにしてフラッシュバックを起こしたんだろう。彼の体験からすれば当然のことだ」
 船長に彼の症状について軽く説明する。だが彼はみなまで聞かず、途中で突然「フォオオオーーーク!」と素っ頓狂な大声を張り上げた。
「分岐体……馬鹿な! 俺はあんなもんを作りたがる奴の気が知れん! そんなことをしておいて自己同一性を保てるわけがないぜ。実際、その自己は、同一じゃなかったんだからな! 分裂しちまうのは当たり前の話だ。同じ時間帯に複数の自分が存在するなんて、ましてやそれを後で統合するだなんて、想像もつかねぇ。いったいどんな気分がするもんなんだろうな」
 まぁ、確かに船長ならそう感じるだろう。私は苦笑い。
 このジョニィ・スパイスという男は常に「いつかドッペルゲンガーが自分を消去しにくる」という恐怖に怯えているのだ。そして彼を最も不安にさせているのが「いや、もしかするとドッペルゲンガーなのは、自分の方なのかもしれない」という可能性だった。
 何がオリジナルで、何がコピーなのか、この世界ではその境界は日々、曖昧になり続けている。自分が人権によって最優先で保証されるべき筆頭資格保有者であることを証明する絶対不変の根拠など、世界中のどこにもない。個人情報をいくらでも偽造できる時代なのだから。確かなものが何もない以上、不安になるのは当然だ。
 実のところ、この件ではよくリラからも相談を受ける。しかし、血の通っていない患者は私の専門外だし、何より、当の船長に治療する意思がないのでは、医者は手の出しようがない。
 まぁ今のところは、金ができると自分のバックアップを取る、という以外にはこれといった害もないそうなのでいいが(もっとも、リラにとってはこれだけでも十二分に大問題らしいが)、もし今よりもエスカレートするようなら、友人として、せめて忠告の一つくらいはせねばならないだろう。
 記憶の一部がない、そしてオリジナル体の安否がはっきりしていない、というだけで毎日を死ぬほど怯えて過ごしている船長からすれば、わざわざ安くもない金まで払って自分のコピーを生み出すという、この分岐体という仕組みは、まさしく正気の沙汰ではない、ということになる。
 一理ある。
 私はうなずき、「私もまったくの同感だよ、船長」と告げた。
 分岐体は使い方によっては便利だが、やはり様々な問題をはらんでいる。個人のアイデンティティを容赦なく揺るがす、危険な手段なのだ。
 船長はまだ憤っていた。
「俺なら俺以外の俺は全員殺す! 俺はこの宇宙に一人だけでいい! オリジナルは俺だ、コピーは消えろ、ともう一人の俺も言うに決まっているんだ! どっこい、そうはいくかってんだ! そう言われる前にこっちが消してやる! 少なくとも俺にとってのオリジナルは今ここにいる俺だ。だから俺は今ここにいる俺を全力で守る。誰にも何も言わせるつもりはねぇ。これって普通だと思うけどな?」
「君はいたってまともだよ、船長」
 私はグラスにワインを継ぎ足す。微笑みながら。
「実際、分岐体というのは難しい。少なくとも、適性のない者は手を出すべきではないのだろうな」
 ソファーが悲鳴を上げる。見ると船長が背もたれに寄りかかっていた。

「だが帰り道のアイザックは、まるで悟ったかのように泰然自若としてたよ。レーザーが飛び交おうが、多弾頭ミサイルに取り囲まれようが、眉一つ動かさなかった。報酬にも随分と色を付けてくれたぜ。実は支払い能力を少々疑ってたんだが、杞憂だったな。おかげで船の修理をしてもまだまだ余裕がある」
「治療もしてみるものだな」グラスを掲げて私は笑う。「おかげで私もこうしてお相伴にあずかれた。当分はミイラにならなくてすみそうだよ!」
 ハハハ、と船長。
「まー、とにかく、えらい肝の据わりようだったよ。よほどの修羅場をくぐった奴でも、なかなかああはいかねぇもんだ。いったいどんな魔法を使ったんだ、ドク?」
 ん、と私はグラスから口を離す。
「ああ。結局、脳をいじることはできなかったのだ。時間がなさすぎてね。彼の脳みそは、うかつには手を出せんほどに壊れかけていた。患者本人の希望もあり、外科的な方法での治療は断念せざるを得なかったのだよ。そこで私は別のアプローチを試してみたというわけだ」
「別のって、どんな?」
「簡単な話だよ。暗示をかけた。催眠療法を使って」
 大柄な機械人が上体をそらした。
「へぇ! そんな程度のことであんなに変わるもんかね! さすがはモグリとは言え、やっぱり名医だな。俺ももしもの時はドクに診てもらうことにするか」
「私は機械人の治療はやれんよ。それに今回の手は君には使えんのだ、ジョニィ船長。ちょっとした裏技のようなものでね。生体義体、それもフラット相手限定の、本来であれば禁じ手であるべき技なのだよ」
 船長が不思議そうに首を傾げている。その姿はどこかユーモラスだった。
「木星共和国(ジョヴィアン・フンタ)の出身、という偽の情報を彼には植え付けた」
「……はぁ?」と船長が身を乗り出す。
 私は得意顔だ。
「知ってのとおり悪名高いあの国はバイオ保守主義者どもの牙城であり、巣窟だからね。こういう時には都合が良いのだ」
 ククク、と笑みがこみ上げてくる。
「自分は木星共和国から亡命してきたバイオ保守主義者で、肉体の改造など一度もやっていない。魂(エゴ)のバックアップもだ。ましてや分岐体など生み出したこともないし、生み出してもいないのだから再統合などしようもない、と強烈に思い込ませたのだよ。アイデンティティを強化するには、なかなか有効な手段なのだ。フラット以外の義体に入っている者には使えんがね」
 船長はしばらく無言になった。
「だけど……フラッシュバックは?」
「タチの悪いフィクションのせいだとでも考えているのだろう。フラットの身体だって機器を装着すれば体験再生(XP)や仮想現実(VR)をある程度は味わうことができる。それに映画を観るくらいのことは彼だってやっているだろう。思い込みから現実を自分にとって都合の良いようにねじ曲げて解釈する。よくあることだよ。しかし、それで正気を保てるのなら、そう悪いとばかりも言い切れまい?」
 船長が腕組みをした。ふうむ、と彼。
「正気、か。正気ってのはいったい何なんだろうな。木星圏生まれではないのに勝手にそこの生まれにされる。それはもう、ちょっとした記憶の改竄とは言えないだろう。まったくの別人に仕立て上げられるということなんじゃないか? 自分自身を消去してまで保たなければならないものなのかね、正気ってのは」
 うむ、と私もグラスの中を見つめる。「私は私の役割に満足しているのです。私は、幸せなのです、ドクター」と泣いていた男の姿が思い出される。誰かを必要とし、誰かから必要とされたい、か。
 あの男は今、幸せなのだろうか。私は思いを巡らせる。たぶんそうだろう。そして彼本人にとっては、その幸せが本物なのかどうかは、さして重要ではないのだろう。そういう生き方もある、ということだ。
「人それぞれ、としか言いようがないな。少なくとも彼はそれを望んだ。自分自身であることよりも、役割を演じ続けることの方を選択したんだ。私としてはその決定を尊重するしかない。色々と思うところはあるがね」
 本人の意思は何度も確認した。ちゃんと紙の誓約書にもサインをさせた(たとえ書かれるのが偽名であろうとも、こういう手続きは必要だと私は考えている。古風だろうか?)。
 もちろんライバル組織が彼の命を狙い続ける状況は今後も変わるまいが、その辺りのことは彼のボスが上手く処理をしてくれるだろう。ちゃんと連絡はしておいた(偽名など使ったところで、リラ辺りに頼めば、彼の本名や上司を割り出すくらいのことは十秒もあればできるのだ)。
 バックアップから復活する時、必ず同じ外見のフラット義体を使うようにすればいいだけの話だ。そして適当な嘘、たとえば「間一髪のところで助かった」というような、を吹き込んでおけば、後はアイザックの方で勝手に都合良くそれを解釈してくれる。バックアップは眠っている間に取ってしまえばいい。難しいことは何もない。たったこれだけの手間で、優秀で都合の良い人材をこれからもずっと使い続けることができるのだから、彼のボスにとっても濡れ手に粟の話だ。
 それで誰もが丸く収まる。なら、私自身の美学は引っ込めるしかあるまい。できることならきちんとした治療をしたかったのだが。
 もっとも、エゴデータに触れることなく治療をすませられたのだから、バイオ保守主義の観点から言えば今回の催眠療法による処置の方がより望ましいということにはなるのだろう。つくづく私はバイオ保守主義者としては異端であるらしい。この火星に毒されてきたか。無理もない話ではあるが。何しろここはトランス・ヒューマンの星だ。いや、それとも、あるいはこれは私の本質に関わる問題であるのかもしれない。ルールという枠の中に行儀良く収まっていることができないという意味においては、私もまたアウトローなのだ。暗黒街の住人に、なるべくしてなったとも言える。結局のところ、木星と火星のどちらから見ても、私は異端者ということになるのだろうな。
 ま、どっちしろもう終わった話だ。
 もしもう一度ここに彼がくることがあっても、その時にはもう、彼は私と同郷ということになっている。その時にはまぁ、せいぜい話を合わせてやることとしよう。悪名高い木星共和国も、振り返ってみればそう悪いことばかりでもなかった。私だって時々は懐かしくなることがある。
「しかし、バイオ保守主義者というのは色々と不便なことも多いが、気は楽なものだよ。魂についてあれこれと悩まなくてもすむのだから。私はこの主義を捨てる気にはなれないな」
 フフフ、グラスを掲げて笑いかける。
 だが船長からの返事はなかった。固まったような姿勢のまま、じっとこちらを見ている。
 ん? 何だ?
 おいおい、と私。
「しっかりしてくれよ、船長。機械人のくせに健忘症かね? 私が木星共和国の出身だということは君も知っているだろう?」
 船長は固まったまま動かない。じわり、と私の心の奥底で何かが蠢く。全身から脂汗が吹き出てきた。
「ど、どうしたんだね、船長。バッテリーでも上がってしまったか? まさか忘れたのではないだろうね、そもそも私は君の船で木星圏からこの火星に密航してきたんじゃないか」
 数秒後、引っかかっていたゼンマイでも外れたのか、やっと船長がぎこちなくうなずいた。
「……あ、ああ、そうだったな。ああ! そうだったそうだった! すまない。ちょっと記憶が混乱しちまっていたようだ」
 まったく、と私は胸をなで下ろす。笑った。
「ハ、ハハ、悪い冗談はよしてくれよ、船長。どうかしたのかと心配になってしまったじゃないか。それに、ほれ、もうずっと君の番のままだ」
 私はチェス盤を指さす。
 分かってるさ。つまらなそうにそうつぶやくと、彼はキングの駒を一枡、横にずらした。



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