(PDFバージョン:watercraft_tamarumasatomo)
「もっくん、遊びに来たよ」
チャイムを鳴らすとお母さんが出てきたから、ぼくはしゃんと背を伸ばして言った。
「こんにちは。もっくんいますか?」
お母さんはにっこり笑って、二階にどうぞと通してくれた。
もっくんは、ぼくの親友のひとり。
他の人とはちがう自分の世界をいっぱい持っている人だから、一緒に遊んでいてとっても楽しい友達だ。これまでも、いろんな知らない世界のことをぼくはたくさん教えてもらってきた。
ものを作ることの楽しさを教えてくれたのも、もっくんだった。もっくんは、釣りで使うルアーなんかも自分で作ってしまうほど。
ルアー作りは、バルサというやわらかい木をナイフで削るところからはじまる。はじめは粗く、途中からは細かくバルサを削って少しずつルアーの形――小魚の形を整えてやる。次に、出来上がったものにエアブラシでいろんな色を吹きつけて、ダークなものからカラフルなものまで自由自在に好きな模様を生みだしていく。ときには、あわびの殻を砕いた七色に光る粉をふりかけたりもしながら。塗装がすむと目を入れて、最後に色落ちしないように透明な液に何度もひたしてコーティングすると、ピカピカに輝くオリジナルのルアーの完成という具合。
もちろんぼくのは、もっくんの作るプロみたいなのにはまだまだ遠く及ばないけど、こうして出来る世界で自分だけのルアーは見ているだけでうっとりするほどきれいなものだ。
「形には命がやどるんだ。これが造形美ってやつさ」
ものの持つ美しさというものを教えてくれたのも、もっくんだった。ぼくはそれ以来すっかり影響を受けてしまって、造形美という言葉が口癖になったのだった。
「もっくん、入るよ」
少し開いたドアを開けると、もっくんは机に向かっていつものように何かに熱中している様子だった。天気がいいのにカーテンを閉め切っているからか、なんだか部屋は少し青っぽかった。
部屋のなかに足を一歩踏み入れた、そのときだった。
「冷たっ」
ぼくは何かを踏んづけてしまって、思わず声をあげた。ぷちっと音がしたので何かと思って足をどけると、水のような液体で靴下が濡れていた。
ぼくの声を聞いて自分の世界から戻ってきたのか、もっくんはようやくこっちに気づいてくれた。
「あれ、いつ来たの?」
「さっき、入るよって言ったじゃん」
「ぜんぜん聞こえなかったよ」
ものを作りはじめたら周りの音が入らなくなるのは、いつものこと。
ということは、と瞬間的にぼくは思った。もっくんは、今もなにかを作っていたところなんだろう。
「今日はなにを作ってるの?」
ぼくはワクワクしながら聞いてみた。
「これさ」
もっくんは手にしていたものをかかげて、ぼくに見せてくれた。
それは少しだけ青っぽい、豆腐みたいに四角い透明の物体だった。それが、ちょっとだけ削られている。
「アクリル板……?」
ぼくはそうつぶやいた。でも、それは板じゃなくてかたまり状になってたから、初めて見るものだった。
「ちがうよ。最近でたばかりの新しい素材なんだ」
その言葉を聞いて、ぼくの胸は高鳴りはじめた。
もっくんは、都会の親戚の家に行くときは、いつも必ず新しいものを手に入れて帰ってくる。これもその、最新の何かにちがいない!
「これはね、こうやって形を作っていくものなんだよ」
もっくんは詳しい説明よりも先にナイフを手にとり、その物体に刃先を当てた。そのまま刃をすぅっと入れたかと思うと、ぱっと刃を返して物体をはじいた。はじかれたそれは床に飛び散る。さっきぼくが踏んづけたのは、これだったのかと納得した。
横で見守っているとだんだんと形が現れはじめ、みるみる間に立派なクジラができあがった。あまりに簡単に本物そっくりなものを作ってしまうんだから、もっくんの技術はすごすぎる。
「さわってみる?」
ぼくは、差しだされたクジラを包みこむように手で持った。とってもひんやりしていて、寒天みたいな、ゼリーみたいな、スライムみたいな感じだったけど、でも、それとも少しちがった不思議な感触だった。ちょっと力を入れると指がクジラの中に入っていって、引きぬくとすぐに元の通りにもどってしまう。
「それは、ねん水っていうんだよ」
種明かしをするみたいに、もっくんが言った。
ねんすい、とぼくはオウム返しに聞き返す。
「『ねん土』という字の『土』を『水』にかえて、ねん水。ねばりけのある水って意味だよ」
「じゃあ、これ水なの?」
水が水のままで形をとどめていられるなんて、聞いたこともなかった。
「うん。で、これは水を削って形を作るウォータークラフトっていう遊びなんだよ」
と、もっくんは机の引きだしに手をかけて、中から何かを取りだした。こんにゃくの袋のようにぱんぱんに膨れた、ビニールの袋だった。
「開けてみなよ」
「もしかして、これがねん水……?」
水がつまった、ただの袋にしか見えなかった。
「こんなところで開けて水びたしにならないの?」
ぼくは、しょうゆが入った袋を開けたときにぴゅっと中身が飛びでるあれを思い出して、不安になった。
「いいからいいから」
促されて覚悟を決めた。
えいやと袋を開けると、不思議なことに中身は飛びでてくるどころか水滴ひとつ落ちなかった。
それを見て、ぼくは一気に袋の口を広げると中から物体を取りだした。
「これがねん水……」
「正確には、六甲のねん水っていうんだけどね」
「ろっこう?」
「ねん水には、いろんな種類があるんだよ。ほら、飲み水だっていろんなやつがあるでしょ? あれとおんなじ。たとえばね、ミネラルウォーター系のものに蒸留水系のもの、海洋深層水系のものなんていうのがあって。もっと詳しく言うと、そこからさらに、どこでとれたかによってねばりけや色味が変わってくるから、ねん水の種類は覚えきれないほどたくさんあるんだよ」
「へええ……それでその、ろっこうっていうのは何なの?」
「神戸にある有名な水の産地の名前だよ。いまの話で言うと、ミネラルウォーター系にあたる水がとれるところだね。日本だと、ほかには南アルプスとかが有名かな」
「ねん水がとれるのは日本だけじゃないの?」
「もちろんさ。有名なのはフランスで、オーヴェルニュ地方とフレンチアルプスでは最高のねん水がとれる」
「へええ」
「同じねん水でも、軟水と硬水じゃあ削るときの硬さも出来上がりの風合いもちがってくるから、種類にこだわりだすときりがないんだよ」
ぼくは、もっくんの知識にただただ驚くばかりだった。
「さすがもっくん……詳しいんだね」
「さっき読んだ雑誌に書いてあっただけだよ」
そう言って、笑い声をあげた。
見栄をはらないところが、またもっくんの魅力だ。
「それでね、ねん水にはほかの素材にはないおもしろい性質があるんだ。ひとつがこれさ。大きいものを作りたいときは、こうして二つを簡単にくっつけることができる」
もっくんは、ねん水の袋をもうひとつ取りだすと、慣れた手つきで袋をびっと開けた。そうして、ぼくの持つねん水の上にそっと近づけていく。
あともう少しでくっつくぞと思った瞬間だった。二つは吸いつくように引っついて、たちまちブロックみたいなかたまりになった。もう、どこから見たって境目なんて分からなかった。
「接着がとっても簡単なのはいいんだけど、気をつけてないと勝手に引っついちゃうから要注意だね。まあ、床に散らかった水くずも、こうやって集めてくっつければまた使えるのはいいところなんだけど」
なるほど、踏んだものは水くずと呼ぶのかと思った。
ぼくは話を聞くうちに自分でもやってみたい思いにかられてうずうずしてたけど、ひとつ気になったことを聞いてみた。
「それで、もっくんはどんなものを作ったの? そのクジラが初めてなんじゃないんでしょ」
するともっくんは、ニンマリして立ちあがった。そのまま無言で窓のところに行ったかと思うと、カーテンを一気に引いた。
ぼくは、現れたものたちに目を奪われて何も言うことができなかった。
出窓には、木の台座に据えられたウォータークラフトがたくさん並んでいた。
今にも泳ぎだしそうなほどリアルな、大小様々な透明な魚たち。
近づくだけでしぶきが飛んできそうな豪快な滝。
その横にある王冠の形に跳ね返る水のクラフトを眺めていると、時間が止まったような気分になる。
そして、そのどれもが水の美しさを存分に秘めていた。
窓から差しこむ日光はクラフトの表面で折り曲がり、川底に差し込む光みたいに輝いている。塗装なんて必要のない、素材本来の美しさ……。
ぼくは自然の神秘にふれた気がして、とっても神聖な気持ちになった。
と、そばに並ぶもうひとつのものも作品なんだと気がついて、思わず笑ってしまった。
ペットボトルまでねん水で作ってしまうとは……これなら水を飲んでもペットボトルのゴミが出ないじゃないか!
「さすがはもっくんだね……」
ぼくはあらためて、尊敬の気持ちをこめて言った。もっくんはうれしそうに笑う。
と、ぼくはあることに気がついた。
「あれ、この魚ちょっと欠けてない?」
その小さな魚のクラフトは、背びれのあたりが欠けていた。
それをきっかけに周りのものにもう一度目をやると、さっきはうっとりしていて気がつかなかったけど、どれも上のほうが少しずつ欠けてしまっているように見えた。もっくんに限ってミスをしたなんてことはないはずだから、なんでこんなになっているんだろうと不思議に思った。
「じつはね、蒸発しちゃうんだよ。上のほうから、ちょっとずつ」
「蒸発!?」
思いがけない言葉にびっくりしていると、もっくんは笑って答えた。
「そりゃそうさ。だって、ねん水は水なんだからね。時間がたつと自然に蒸発していっちゃうんだ。蒸発防止材でコーティングしてやるといいんだけど、ちょっとにごりが入るから好きじゃなくて。今までにウォータークラフトはいっぱい作ってきたんだけど、ここにあるやつ以外はぜんぶ蒸発してなくなっちゃったよ」
せっかく作っても消えちゃうのかと、ぼくはなんだか切なくなった。でも、もっくんに悲しげな様子は少しも見えない。ぼくがそこを尋ねてみると、
「それが自然のセツリってやつだからね」
と、きっぱり言った。
すべてを深く理解しているような口調に、ぼくはすっかり恐れ入った。これまでたくさんのウォータークラフトを作ってきたからこそ言えるセリフなんだろうなぁと思っていると、もっくんが口を開いた。
「ははは、本当のところを言うと、ねん水はなくなってしまうわけじゃないんだよ。だから別に悲しくもなんともないんだ」
「だって、蒸発してなくなっちゃうんでしょ?」
ぼくは混乱してそう言った。
「蒸発したねん水が、いったいどこに行くか。それが問題なんだ」
「どこって、空気中に散らばるんじゃないの?」
「そのあとさ」
「空気とまじって消えちゃう」
「窓を開けてればそうなるかもね。でも、窓を閉めてれば、どうなると思う?」
言葉につまったぼくを見て、もっくんは言った。
「蒸気になったねん水は、この部屋の中から出ていかないで、また固まりに戻るんだよ。こんどは別のところで、別の形でね。ぼくも、あるとき発見するまではまったく気がつかなかったんだけど。
じつは、もうひとつ見せたいものがあるんだ。上を見てみなよ」
指につられて、目をやった。
そこに広がるものを見て、ぼくはあっと息をのんだ。ほのかに青い透明な物質が、まるで水たまりのようにうっすらと天井に張っていて、電灯の光を淡い青色に染めていたのだった。
そしてもうひとつ、信じられない光景が広がっていて、ぼくはすっかり圧倒されてしまった。
呆然とそれを見上げるぼくに、もっくんは説明してくれた。
「蒸気が立ちのぼるときに、むらがあるみたいなんだ。ほら、ちょうど水くずがいっぱい落ちてる上くらいのところにあれができてるでしょ。そこだけ、蒸発量が多くなってるってわけさ」
天井には、トゲのような形で固まったねん水が、つららみたいにいくつもぶら下がっていたのだった。
ぼくは青く透明な鍾乳洞にいるような気持ちになって、神秘的な光景に胸がいっぱいになった。
「言ったでしょ? これが自然のセツリってやつさ。クラフトもいいけど、やっぱり自然のものは別格だよ」
自然の造形美というやつを教えてくれたのも、やっぱりもっくんだ。
田丸雅智既刊
『海色の壜』