『「あれ(『百億の昼と千億の夜』)は、私小説なんですよ」という光瀬龍氏の発言について』宮野由梨香

(PDFバージョン:arehasishousetu_miyanoyurika
 宇宙へ飛んだ「私小説」――SF作家 光瀬龍さん 7月7日死去(食道がん)、71歳 7月10日告別式……これが、光瀬龍氏の追悼記事(〈朝日新聞〉1999年8月26日夕刊)の見出しであった。
 この見出しは、追悼記事の中の“(光瀬龍氏の門下生のひとりである)作家の子母澤類さんは「『百億』は、よく言われる無常観などを意識せず、私小説のように自分の青春を語っただけ、と聞きました」”という箇所に基づいている。
 「私小説」という光瀬氏の発言については、〈SFマガジン〉1999年11月号(「追悼:光瀬龍」特集号)でも、柴野拓美氏が証言なさっていた。“『東洋的無常観』という評言に対して光瀬さん自身はむしろ否定的だった。「そういう意識などとくになく、むしろ私小説を書いている気分」だというのが彼の主張”(220頁)というふうにである。
 二つの証言は微妙に異なっている。そして、両方とも、私が直接伺ったことと、異なる。もちろん、ニュアンスの違いという程度のこととお考えになる方も多いであろうが、しかし、だからこそ、私がどう伺ったかを、ここに証言しておきたいと思うのだ。

 その前に、今まで書く機会を逸してきたことについて書いておこう。
 こういった証言は「宮野由梨香」が行うべきものではないとの思いが、私にはある。
 私は「宮野由梨香」というペンネームを中学2年生の時から使用しているが、それを光瀬氏に名乗ったことはない。「Yurika」名義で書いた同人誌の文章(http://sfhyoron.seesaa.net/article/354160582.html)をお見せした(コピーを郵送)ことはあるが、それだけである。(光瀬氏との出会いについては、http://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html
 だから、光瀬氏と会っていたのも、その話を聞いたのも「宮野由梨香」ではない。そう考えて、かつて私は「第3回 日本SF評論賞」への応募稿において、光瀬氏の発言に関する証言はすべて本名名義で「註」に示した。その事情も、もちろん説明を施した。しかし、そのやり方は編集部および選考委員の認めるところとはならなかった。(〈SFマガジン〉2008年5月号47頁参照)
 これから書くのも、こういった事情で削られた「註」の内容である。

 1994年に、TVアニメ『海のトリトン』に関する本を、私は本名名義で出版した。この時、光瀬氏は、文章構成や書き方や内容について、いろいろと指導して下さった。そして、「あなたは、発想の根本がファザコンだ」とおっしゃった。
 私にとっては、思いもよらない指摘だった。理由を問うたが、説明されたその理由も納得がいかなかった。
『これは甲府市での講演の時の印象(参考http://sfhyoron.seesaa.net/article/393570128.html)が、今も尾を曳いているんだろうか?』と思った。そして、
『これは、私の問題ではなく、たぶん「光瀬龍」の問題だ。「光瀬龍」には女性のファザコンに関して、深くこだわるところがあるに違いない』とも思った。
 だから、こう質問した。
「『百億の昼と千億の夜』も、私にとってはファザコンを巡る物語だったと思っていらっしゃるんですか?」
 答えはこうだった。
「そう、女性はたいていそう読むんだよね。萩尾の漫画も、典型的にそうだったよね。そう、ファザコンという点では、あなたと彼女はいい勝負だね」
 揶揄っぽい口調で、笑いながらおっしゃった。
「萩尾望都さまと一緒にしていただけて、光栄です」
 と、私も笑った。だが、その笑いも、次の発言で引っ込んでしまった。
「そもそも、『百億…』は、作者の意図のようには、誰も読んでくれなかったんですよ」
「その、作者の意図ってなんですか?」
「あれはね、私小説なんですよ」
「はい?」
「私小説です」
「私小説というと、たとえば『蒲団』……なんかとは違った意味で「私小説」とおっしゃっているのだと思うんですが、どういう意味で「私小説」なんでしょうか?」
 もちろん、小説はすべて、広い意味での「私小説」には違いない。しかし、どうやら、そういう意味でおっしゃっているのではないらしい。
 はかばかしい答えは返って来なかった。私は質問を変えてみた。
「そもそも『百億…』の主人公って、誰なんですか? 阿修羅王ですか?」
「そうです」
「でも、400ページ近い本の138ページになって登場する主人公って、おかしくないですか?」(註)
「いや、阿修羅王は、もっと前から登場していますよ」
「『影絵の海』の「かれ」ですか?」
「いや、序章からです」
「序章?」
 私は「序章」の内容を反芻してみた。わからなかった。
「序章のどこに阿修羅王が登場しているんですか?」
 まさか、三葉虫の中の一匹だったとかではないだろうと思いながら、私は言った。
「全部に。というか、全体に」
「全体に?」
「まだ、存在ともいえないような形で、存在しているのです」
「ああ、全文を覆う認識主体ということですね?」
「まあ、そうだね」
 私は考えた。そして、言った。
「でも、そう読めませんよ」
「読めないかね?」
「自分がそうは読まなかったような解釈でも、説明されれば『ああ、そうも読めるな』と納得できるというものもありますけど」
「これは、納得できないんだな?」
「はい」

「書き直したんですよ」
 と、いきなり言われたのは、そんなやりとりがあって、しばらくしてからのことだった。
「『百億の昼と千億の夜』のラストをね、書き直したんです」
「ええ、書き直していらっしゃいますね」
 と、私は答えた。馬鹿だった。最新の書き直しに全く気がついていなかった私は、てっきり、雑誌連載形から単行本形への書き直しのことだと思ったのだ。
 光瀬氏には、私の勘違いがわかっていた。
「いや、最近の書き直しで……」とおっしゃったのだから、確実にわかっていらっしゃった。 しかし、「?」という私の反応に、それ以上のことはおっしゃらず、話題を変えてしまった。

 時間旅行機が欲しいと思う。この現場にもどって質問したいからではない。もっと遡って、出会うこと自体をなくしてやるのだ。それが一番いい。 

(了)

(註)「あとがきにかえて」付きの旧ハヤカワ文庫版のページ数による。ちなみに、本文は394ページである。(もちろん私とて、光瀬作品のどのページにどのシーンがあったか、すべて暗記しているわけではない。この数字は、光瀬氏の誕生日(3月18日)の組み合わせになっているのが面白かったので、たまたま覚えていて口にしたにすぎない)

宮野由梨香プロフィール


宮野由梨香 協力作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』