「サーボモータと意識」山口優(画・河田ゆうこ)

(PDFバージョン:servomotortoisiki_yamagutiyuu


 私たちがやらねばならぬことは、私たち自身から出てこなくてはならないのだ。
 ――ジュリアン・ジェインズ著/柴田裕之訳『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』

 本稿では、前回のコラム「サブリミナルへの福音」に続き、人間の意識をテーマにしてみたいと思います。特に今回は、その起源について考えてみます。
 まず、「意識」とは何か、簡単に定義してみます。
 ここで言う意識は、眠っている、起きていると言う時の「意識がある」「ない」ではなく、今自分が何を考えているか、何をしているか、と言う時の、自分の思考や動作を自分で認識する機能を指します。「私は今考え事をしている」「私は今パソコンに向かってキーボードをタイプしている」と言う時の「私」と、その「私」が注意を向けている対象を自覚する働き、と言い換えてもいいかもしれません。
 意識は人間の神経系を基盤とします。人間の神経系のアナロジーとして、ロボットの制御系の話から始めましょう。
 サーボモータ、という機械をご存知でしょうか?
 ロボットの手足によく使われる機械で、指令信号(それは、腕の角度の信号だったり、ものを掴む強さの信号だったりします)と、現実の値との差分を減らすよう動作します。腕が真下(0度)を向いているとき、腕を90度の角度で上げろ、という信号が届いたとすれば、90度までぐっと上げる動きをします。勢い余って91度になってしまったら、その僅かな差を減らすべく今度は少し下げる動きをします。
 基本的には単純なモータで、先程の場合なら今腕がどこを向いているかという、角度のセンサがついているだけです。ただ、勢い余って91度になってしまったとき、90度に修正すべくまた動く、という点で、単純な機械よりは少し賢いと言えるかもしれません。
 ここで、「ちょっと出力が大きすぎたから、次はもう少しだけ出力を減らそう」という情報を記憶し、次はきちんと90度まで上げることができるものもあります。こうした機械は、「フィードバック誤差学習による逆モデルの獲得」を行うことができる、と言います。
 フィードバック誤差とは、目標である90度と、センサが認識した現実である91度の間の誤差のことであり、逆モデルとは、「90度に腕を上げたいときに、いくらの出力が必要か」というモデルのことです。「逆」とつくのは、「90度に腕を上げたい」という結果に対して、「いくらの出力」という原因を定義する、つまり原因と結果を逆に定義しているモデルである為です。こうした逆モデルのデータがたまってくると、たとえば、「腕を90度上げるにはこの出力」「腕を91まで上げるなら、ちょっと大きいこれぐらいの出力」というデータから、「だったら、このぐらいの出力なら、腕は90・5度まで上がるだろう」という形で、原因と結果が順番に連なった、「順モデル」も形成することが可能です。とびとびの逆モデルのデータの間を妥当な推測を用いて順モデルで埋めていけば、「腕」というものの動きが完全に記述されたモデルが出来ます。ロボットの制御回路内に記述された、腕という制御回路外の存在のこうしたモデルを、「内部モデル」と言います。
 ここまではロボットの制御信号の話ですが、多くの動物の神経系も、殆ど同じメカニズムでそれぞれの動物を動かしているようです。昆虫程度なら、単純なフィードバックを行うだけですが、より複雑な神経系を持つ動物は、フィードバック誤差学習による逆モデルの獲得も行うようです。「餌が欲しい」という結果に対して、たとえば、「餌皿の前でワンと吠える」という原因を定義するような。ロボットと同じように、犬も妥当な推論を繰り返して内部モデルを形成することが可能でしょう。このとき犬の脳内に内部化されるのは、この場合、飼い主そのものの動きです。内部モデルによって内部化されるのは、腕のような、自分自身の肉体の一部だけでなく、自分を取り巻く世界そのものも含まれるのです。
 さて、飼い犬ならこれでよいのですが、野生の、たとえば狼のような動物にとって、餌を獲得することはそれほど簡単ではありません。大抵は一匹単独ではなく、群れによって獲物を追い詰め、食糧を獲得することになります。
 最も複雑な神経系を持つ動物である人間にとっても、事情は同じでした。ごくごく最近になって、狩猟と採取から牧畜と農業の生活に移行するまでは。
 こうした群れのメンバーにとって重要なのは、群れのリーダーの命令をきちんと遂行することです。しかし、狩りが複雑化するにつれて、おそらくそれだけでは足りなくなってきます。メンバーからリーダーへのコミュニケーション、「報告」も大切な要素になってくるでしょう。
 ――それができるならば。
 さて、本稿は意識の起源の考察がテーマですが、私はここまでの時代で、人間にはまだ意識はなかったと仮定しています。身体を動かすのに、意識は要りません。ロボットにだってできることです。また与えられた命令を遂行するのにも、意識は要りません。群れを指揮するのにも、実は意識は要らない。群れそのものを自分の肉体のように内部化してしまえばいいのですから。
 アフリカ大地溝帯のジャングルに住んでいた人類の祖先は、大地溝帯の地殻変動に伴う自然の変化によってジャングルがなくなったことにより、草原を追い出され、二足方向を余儀なくされたと言われています。そこで、前足を手として使い、複雑な動きをさせていった結果、手の内部モデルは膨大な情報量となり、その情報処理に対応する形で脳を発達させたのだと。
 偶然の結果としても、発達した脳によって、人間は命令をただ聞くだけでなく、報告もできるようになったのかもしれません。
 ここでもまだ、私は意識の存在を仮定していません。ただ、意識へと至る重要な一歩があったのではないか、とは思っています。
 リーダーへの報告は、群れのメンバーにとっては「出力」です。それに対して、リーダーは何らかのリアクションをするでしょう。それは指示や命令であることが多いでしょう。或いは、何も報告できないで、まごついている、という出力に対しても、「これをやれ」という命令が与えられるかも知れません。
 出力に対するリアクションとしての命令。その行為者としてのリーダー。
 脳が発達した人類は、このリーダーの内部モデルも、形成できたのではないでしょうか。
「こう報告すれば、きっとリーダーはこう命ずるだろう」「こういう状況に置かれたら、きっとこういう指示がリーダーから与えられるだろう」――逆モデルの間を埋める形でこうした順モデルを形成していけば、そのような妥当な推論の集合は、リーダーそのものとほぼ同じ働きをする神経回路を自分の脳内に持つことになります。
 つまり、人間は自分で自分に命令することができるようになるのです。
 これが意識への重要な一歩であることは間違いありません。但し、意識と呼べるものでないことも確かです。
 意識とは結局、自分自身の脳の働き、つまりは「自分」の内部モデルです。一説には、エピソード記憶、即ち、自分が体験した時間軸に沿って物事の変化を筋道を立てて理解するメカニズム、その一部である、今の一瞬一瞬をエピソードとして記憶する為のワーキングメモリが、意識の本質であるとも唱えられています。その説を下敷きにすれば、動物が、身の回りの事物の経時的変化の法則を見抜き、適切に行動することを以て、動物が意識を持っていると考えることもできます。ただ、その場合、動物の中に形成されるのは、あくまで経時変化する身の回りの事物の内部モデルであって、動物の「自分」の内部モデルではないのです。
 さて、リーダーの内部モデルを保有した人間は、意識がないままリーダーに報告し、それに対するリーダーの命令を聞き、それによって自律的に判断を行うことができるようになりました。もはや群れから離れ、単独行動をすることも可能です。しかし、本質的には群れから離れてはいないのです。群れのリーダーを内部モデルとして脳内に保有することで、あたかも、周囲から客観的に見れば、自律的に動いているように見えるだけの存在です。
 ただ、外部から見れば自律判断ができることに代わりはなく、こうしたメカニズムによって人類は飛躍的に発展し、狩猟と採集から牧畜と農耕へと移行し文明を築いたとする説もあります。無論、ここで言う「自律的」とは、単に自分の生物学的な欲求に従って動くだけでなく、「群れ」、換言すれば社会のメンバーとして、自分の為すべきことをきちんと判断し、その上で行動できる自律性を指します。
 この説を唱えたのは、前回のコラム「サブリミナルへの福音」でも引用したジュリアン・ジェインズですが、その説に依れば、その時代の人類は、当初は実際に生きているリーダーの内部モデルのみを持っていました。ところが、そのリーダーの死後も内部モデルは生き続け、人に指示を与え、そして、その内なるリーダーが、古来より神々として崇められる存在の、起源になったのではないか、としています。更に、その説の解剖学的な証拠として、人間の脳の言語野(右利きの人なら、左脳にあります)の反対側(右利きの人なら、右脳)には、役割のよく分からない領域があるが、そこを刺激すると人は幻聴を聞き、その声に無条件に従ってしまう――という現象が確認されているとのことです。
 そうした幻聴としての神々が役割を終え、真の人間の意識が現れたのは、人類社会が大きな混乱に見舞われた、紀元前一〇〇〇年前後であろう、というのがその説の見立てです。混乱の時代、「神々」では対応できなくなり、人間は意識を獲得したのだと。
 それは、具体的にはどのような変化なのでしょうか?
 どのようにして、人は「自分」の内部モデルを手に入れたのでしょう?
 前回のコラムではあまり言及しなかったこの部分を、本稿ではきちんと考えてみたいと思います。
 進化論的に考えて、生物は今まで持っていた構造を少しずつ変化させて、新しい状況に対応してきました。前足が手になり、或いは翼になるように。本稿でもこれまで、フィードバック誤差学習を行うサーボモータ制御回路に擬せられる動物の神経系の最もシンプルな構造を様々に活用することで、動物や人間の営みを説明してきました。ですから、ここでも、既存の構造、つまりはリーダーの内部モデルに僅かな変更を加えることで、人類による、自分自身の内部モデルの獲得を説明すべきです。
 従来の方法では対応できなくなるほど混乱した時代、まずどのような変化が起きたのでしょうか? 漸近的な変化しかできない以上、人は従来の構造、つまりはリーダーの内部モデルに頼り続けるしかありません。しかし、そこで、リーダーの内部モデルから、より的確な入力が得られるような変化は起こり得ると考えます。リーダーはどうすれば、より的確な指示を群れのメンバーに与えることができるでしょうか。
 それには、経時的な変化も含む報告、つまり出力を群れのメンバーが与えれば良かったのだ、と私は考えます。
 今、自分はこうだ、と言うだけでなく、これこれこういう経緯を経て、自分は今こうである、と報告した方が、より的確な、「ではこうしろ」という指示を下すことができるのではないでしょうか?
 混乱の時代、リーダーの内部モデルを使い続ける中で、より的確な入力、つまりは「指示」を得るには、それが尤も適切であったのだと、私は考えます。
 その為には、今現在の自分の状況を記憶し、一連の物語として報告する必要があります。つまり、一瞬一瞬の簡略化された自分の状況を、そのままリーダーの内部モデルに向けて出力するのではなく、一旦ワーキングメモリに貯め、更に長期の記憶として保存する必要が生じるのです。
 これは、自分の身の回りの事物についての、経時変化を伴う内部モデルを得るのと、本質的には同じ情報処理です。但し、自分の身の回りの事物については、その事物の内部モデルからの入力でしたが、これはリーダーという内部モデルへの出力である、という違いがあるだけです。
 こうして形成されたリーダーの内部モデルへの出力情報は、一旦たくさんの記憶を貯めてから、一気に出力する、という形にはならなかったでしょう。それでは刻々変化する状況に対応できません。そうではなく、今現在の自分自身の状況を、過去の経緯の記憶情報と併せて、常に出力し続けたのです。今までは判断に迷ったときのみ出力していたものが、常時自分自身の状況を記録する回路が備わったことで、寧ろ常時出力することが可能になったのだと考えます。
 そこで、入力にも変化が現れました。脳の重要な機能は、互いに関連する情報を担うニューロンは密につながっていく、ということです。これまでのように、出力を待ってから入力を提供する、という形ではなく、入力情報が直接出力情報に関連するように届けられるようになったのだ、と考えます。より的確な入力が得られただけでなく、入力そのものも常時得られるようになったのです。
 こうしたリーダーの内部モデルの入出力の情報処理の変化の過程で、常時出力を記録するワーキングメモリには、同じ場所に届く入力も記録されるようになりました。そうなると、それは、ある意味でショートカットと呼べるかも知れません。
 リーダーの内部モデルへの報告回路。そして、リーダーの内部モデルからの命令回路。それが繋がったのだと。
 このとき、リーダーの内部モデルへの出力は、「自分」の内部モデルからの入力と看做すことができます。そして、リーダーの内部モデルからの入力は、「自分」の内部モデルへの出力です。
 今まで、「こういうことが起きました」と報告し、「ではこうせよ」という命令を受けるのを待っていた時間が、めざましく短縮されたのです。「こういうことが起きた」「こうしよう」という状況把握と決断が、リーダーの内部モデル、即ち「神々」のみを脳の中に持っていた時代に比べ、遥かに速く、また多くの回数、為されるようになったのです。
 意識或いは「私」、即ち「自分」の経時変化を伴う内部モデルであるエピソード記憶のワーキングメモリは、このときようやく現れたのです。
 但し、意識は、ただのワーキングメモリです。回路がショートカットされ、意志決定が速くなったのは確かでしょうけれど、意志決定に意識は介在しません。ただ、自分の内部モデルからの入力(かつてのリーダーの内部モデルへの出力)と、それに呼応する様に沸き上がる出力を常に傍観しつつ、「ああ、私は世界を感じ、決断を下している」と誤解しているだけです。
 そうでありながら、「私」は、もはや自分で自分の主になったのだという確信を避けられなかったでしょう。先の説は、神の楽園から人が追放された旧約聖書のエデンの園の物語が、ちょうどこの時代に書かれたこととの関連性を指摘していますが、私にもこれが偶然とは思えません。そして、リアルタイムに下される意志決定は、それが本当は意識、「私」の介在なくして行われるものであれ、「自分」で下す判断には違いなく、「今、ここにいる私」という感覚を否応なく高めたでしょう。少なくとも、外部の何者かに擬せられた内部モデルを自らの意志決定に使う必要だけは、もはやなくなったのは確かです。
 冒頭に引用したのは、こうした状況を端的に示した言葉です。
 追放されたのか、自ら旅立ったのかはともかく、人はもはや、神々の元を離れ、その意思からも独立した孤独な存在なのでしょう。さながら、群れを離れた斥候のごとく。もはや、神々からの命令を聞くこともできないし、自分達の行動の責任を神々に引き受けてもらうこともできません。
「私」は、独立した決断を行うための回路であると同時に、人生の最期に、この孤独な斥候を終え、神々に全てを報告するための記録なのかもしれません。
 たとえ神々の命令がなくとも、その時にはできるだけ善い報告がしたいものだ、と思います。

【参考文献】
・ジュリアン・ジェインズ著/柴田裕之訳『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』
・スティーヴ・グラント著/高橋則明訳『アンドロイドの「脳」』
・前野隆司著『脳はなぜ「心」を作ったのか』

山口優プロフィール
河田ゆうこプロフィール


山口優既刊
『アンノウン・アルヴ
―禁断の妖精たち―』