(PDFバージョン:kiokuwoyobidasu_yasugimasayosi)
こないだ家の片づけをしていたら、中学生のときの教科書を見つけました。歴史の教科書でした。懐かしいなあとぱらぱらめくると、当時の思い出がどっとあふれ出てきました。
試験前に一夜漬けで暗記した苦しみに満ちた思い出が。ぐはあ。
ぼくはあまり勉強ができなかったのですが、それでも歴史といった社会教科は辛うじて得意の分野でした。理由は明白です。試験に出そうな単語をひたすら覚えればよかったので。黄色の蛍光ペンで試験に出ると思われる単語をいちいち塗って、それを覚えるために単語を無心でノートに繰り返し書き込んで頭に叩き込んでました。無心だったら勉強になってないだろという問題はさておき。
それでなんとか試験は乗り越えられていたのですが、当然ながら試験が終わればほとんど全部忘れてしまいます。それはもうきれいさっぱり。
そんな思い出が教科書を見つけたことで蘇ったのですが、ここでふと「あれ?」と疑問が浮かびました。
あれから二十年以上も過ぎているのに、あのときの自分をしっかり覚えているわけですよ。当時の光景がありありと脳裏に現れてくる。忘れてない。記憶に残っている。一夜漬けで必死に暗記しようとしても翌日にはおぼろげにしか残らなかったのに、そうやって覚えた単語までは思い出せないものの、その行動自体は驚くほどリアルに記憶に残っている。何で?
いや、そんなの当たり前じゃないかと思われるでしょう。
でも、あれだけ必死にならなければ頭に記憶を刻むことができず、覚えた端から消えていく恐怖に抗いながら試験を受け、あとはきれいに忘却してしまうような記憶力しかないぼくが、なぜ二十年以上前の自分のことをここまで覚えていられるのか。中学の教科書を手に取るまではそのことはすっかり忘れていたわけですが、思い出せるということは、頭の中に情報が確実に残っているのではないか。もしかしたら、必死に覚えた歴史の単語もまだ脳内にあるのかもしれない。
覚えてない、忘れているというのは脳から情報が消去されてしまうことではありません。記憶するとは、脳のシナプスの結合が刺激によって変化することであり、その記憶を削除したければ一度変化したシナプスを元通りにしなければなりません。でも、そんな形状記憶合金のように神経細胞は戻ってくれません。つまり一度記憶したら、むしろそう簡単に消えたりはしないんです。
よく歳を取ると物覚えが悪くなるといいますけど、あれも頭の中から記憶が消えてしまったわけではありません。記憶はいくつもの断片的な情報に分けられ、脳内のあちこちに散らばって記録されます。思い出すときはそのたびに一つ一つの情報を再構成して意識に浮かび上がらせます。加齢による物覚えの悪さは、経験を積み重ねたことで分散した情報が増えすぎてしまって、再構成をさせることが難しくなったからだといわれています。つまり記憶はあるのだけど、思い出しにくい状態になってるのですね。
それでも記憶する神経細胞の数には限りがあるのでは、と思われる方もいるでしょう。
脳には海馬という部位があります。指先程度の大きさしかありませんが、記憶の中枢と呼ばれるところで、人はだいたい最初ここに記憶を刻みます。
かつて脳の神経細胞は大人になるともう増えないと言われていましたが、最近では新しい神経細胞が大人になっても生まれ続けていることがわかっています。そして、特に頻繁にそんなことを起こしているのがその海馬です。何が起きているかというと、海馬に刻まれた記憶は長期保存するため大脳皮質に情報が送られるのですが、移転されたあと海馬で記憶していた古い神経細胞は消滅し、新しく生まれ変わって次にやってくる情報を記憶する準備をしているのです。
したがって多くの記憶は大脳に保管されます。大脳は数百億の神経細胞がひしめき合う広大なネットワークの海です。そうそう限界には達しないでしょう。とはいえ、そこにはどれだけの記憶が沈められているのでしょうか。
ぼくたちはその記憶を思い出そうと四苦八苦するのですが、逆にこの思い出すことを抑制できなくなってしまったアメリカの女性がいます。彼女は八歳ごろから日常のどんな細かいこともすべて思い出してしまえるのだそうです。何年何月何日、どこで誰と会い、何を話し、また見ていたテレビ番組の内容やそれに対して当時どう感じたかといった些細なことまでがとめどなく意識に浮かんでくるというのです。楽しかったことも辛かったことも否応なくいきなり蘇るため、それはむしろ苦しいことだったそうです。大学でMRI検査をしてもらったところ、脳のいくつかの部位に異常が見つかり、それが「思い出す」「想起」に関係する機能に障害をもたらしているのではないかと考えられています。
これは思い出すことを強いられてしまうために障害となった例ですが……とにかく人は相当たくさんの記憶を蓄えていることは間違いなさそうです。ですから覚えるにあたって大事なことは、記憶量よりもいかに多くの記憶を引き出せるかということになるでしょう。
そこで開発されたのが、脳に蓄積された記憶を任意に意識上へ想起するシステム「CALL」であります。
嘘です。SFです。さっき思いつきました。
まあ、でも、こういうのが開発されて一般に普及したら試験はどうなるのかなあとか思うわけです。試験の問題を解くのに、教科書やノートを一回見ただけで、もしくは授業を一度受けただけでも記憶にはあるはずだから、あとは「CALL」で意識上に呼び出して答えを探し出し、解答欄に書き込めばよくなります。
それはカンニングにならないかと思われるかもしれません。公平性を考えた場合、一部の受験者しか「CALL」を身につけることができないなら禁止もやむをえないでしょう。でも、これが携帯電話のごとく広く一般に普及したら、そのあげく国民の知識増強政策の一環とかなんとかで国家から支給されることになれば果たしてどうでしょうか。
認められたらもう試験前の一夜漬け暗記地獄から逃れられるのです。実に素晴らしい。(普段から勉強やってないのが悪いとか、記憶できてたらいいということではないというお言葉が飛んできそうですが、そのような正論はぼくには聞こえません、あーあーあー)
ところで、そうやって呼び出す記憶ですが、さきほど取り上げた想起抑制に障害がある女性の話によれば、ビデオカメラで撮った映像を見ているように思い出されるとのことですから「CALL」による思い出しも似たようなことになるでしょう。
もちろんその記憶には視覚だけでなく、その当時のすべての感覚が含まれていることになります。聞こえていた音、匂い、手触り、そのときの感情、体の調子、すべてが現実感をともなって思い出せるはずです。それが記憶というものですから。
ちょっと待て、いくら何でもそこまで完璧に覚えてはいないだろうと思われる方もいるでしょう。ぼくもそう思います。しかし、人の意識は足らない情報を自ら付け足し、あったことにしてしまう錯覚を普段から行ってます。(たとえばマリオット暗点の補完)思い出すということは、脳の中で分散された情報を再構成することでもあるので、そのような補完も当たり前のように行われると思われます。
そうなれば「CALL」によって思い出した情景は、もはやその人にとって現実そのものといってもいいかもしれません。まるで過去にタイムスリップしたかのように思い出せるのです。たとえばこのコラムをパソコンで書いている今のぼくにも簡単に戻れるわけです。
ところで、ここまで書いてふと思ったんですが。
ぼくはいつのぼくなんでしょうか? 記憶を遡ってコラムを書いているぼくを思い出しているだけということはないのでしょうか?
それからあなた。ええ、あなたです。これを読んでるあなた。
あなたも読んでいるのは今のあなたですか? 記憶から呼び出しているあなたということはありませんか?
そんなわけがない? 思い出しているという行為をしてないし、そもそも「CALL」なんて作り話じゃないかって?
そうなんですけどね。そのはずなんですけどね。
でも、記憶の読み出しをコントロールできるなら、抑制もできておかしくないと思うんですよ。
「CALL」(もしくはその類の何か)によって意図的にコントロールされて、そういった記憶を思い出さないようにされ、自分の記憶の中を延々とさまよわされているとしたら?
ここは現在? 過去の記憶?
ぼくは、あなたは、一体どこにいるのだろう。
・参考文献
「記憶をコントロールする 分子脳科学の挑戦」井ノ口馨著 岩波科学ライブラリー
「忘れられない脳 記憶の檻に閉じ込められた私」ジル・プライス、バート・デービス著 橋本硯也訳 ランダムハウス講談社
八杉将司既刊
『まなざしの街5
報復の街・前篇』