「穴掘り」飯野文彦

(PDFバージョン:anahori_iinofumihiko
 雨が降ってきた。冷たい雨だった。
 ついてないと思うよりも、むしろとうぜんだと思った。こんなことをしてしまったのだ。報いがあってとうぜんだ。
 スコップを握る手も、腕も、足腰さえももはや感覚はない。疲れなどというものは、とうに通り越して、全身が無感覚となっている。
 それに鞭を振るうように、雨が振りつけるのである。痛みを思い出せ、苦しみを忘れるな、とばかりに――。
 どうしてこんな事になったのだろう。
 依然としてスコップで穴を掘りながら、関川充夫は、頭の片隅で思った。
 幸恵とは幸せにやっていた。愛していたし、愛されていた自信もある。それなのに、どうしてこんなことになったのだ……。
「いや、やっぱり康子が悪いんだ」
 充夫は呻くようにつぶやいた。
 確かに康子のことも、かつては愛していたのだ。けれどもいつしか、人の気持ちは変わる。
 愛情の欠片もなくなったというのに、なぜ離婚してくれない。たった一度の人生ではないか。単なる意地でいっしょにいて、何が楽しい。充夫と別れず、充夫を不幸にしていることが、康子にとっては幸せだったというのか。
 本来なら、ここに埋めるのは康子のほうだったはずである。それがどこで、何をまちがえて、こんなことになってしまったのか。
「いいの、わたしはこのままでも」
 幸恵はそう言ってくれた。
「いや、それはだめだ。男としての責任がある。それにぼくは君といっしょになりたいんだ」
 自分はそう言ったはずだ。それでも幸恵は悲しそうに首を横に振った。
「奥さんが別れてくれるわけないもの」
 その後、じっと充夫を見つめて、さらに言った。
「でもね。わたしも別れない。愛人のままでいいから、ずっといっしょにいて」
 その顔は恐かった。ふだんの優しい幸恵とは別人のようだった。だから充夫は、そんな彼女ではなくなってくれることを祈るようにくりかえした。
「康子とは別れる。きっと別れて、君といっしょになる」
 本心だった。その流れから行けば、離婚を厭がる康子をこの穴に埋めているはずだ。それが、どこでまちがったのか。
 雨は強くなるばかりだった。はやくも木々の合間を雨水が筋となって流れてきている。一時間以上もかけて、やっとのこと遺体を埋める程度にまで掘った穴に、容赦なく泥水が流れ込んでくる。
「やめろ。邪魔をするな」
 叫んだ声は、雨音にかき消された。
 先ほどまでは声でも出そうものなら、深夜の山奥に木魂しただろうに、今は声どころか、充夫の存在自体、かき消されそうだった。
 照らしつける光がずれた。こちらに向けて置いた大型のライトが、濡れた土砂に流されそうになっている。直しに行く気にはなれなかった。それよりもはやく穴を掘り終えて、幸恵を埋めてやろう。
 幸恵は死んだのだ。死んだ人間は、どんどん腐敗し、醜くなっていく。そんな幸恵の姿は見たくない。美しいままの存在として、記憶に残すために、一刻も早く埋めてしまわなければならない。
「そうか。だからか」
 充夫はつぶやいた。
「わたしがおばあちゃんになっても、棄てないでね」
 ホテルで抱き合った後、幸恵が言った。
 そのとたん、充夫は自分で自分が制御できなくなった。四十になる充夫よりも、幸恵は十あまり年下だ。まだまだ若い。が、三十路を迎えたことが、彼女にはずいぶんと痛手だったらしい。
 もちろんそれだけではない。愛人という立場が、口ではそのままでいいと言いながらも、彼女を歳以上に老けさせようとしている。それを直感したためだ。
「いや、ぼくのせいじゃない。悪いのは、幸恵だ」
 充夫が咄嗟に首を絞めても、幸恵は抵抗すらしなかった。うっと喉を詰まらせた後は、むしろ積極的にのけぞり、首をさしだした。
「どうしたの。好きにしていいのよ」
 充夫が指の力をゆるめると、そう言ったのも幸恵だった。
 だめだ、こんなことはできない。充夫は首から手を離そうとしたのだ。ところが幸恵は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふん。意気地なし。結局、誰とも別れることなんでできない意気地なし」
 瞬時に全身の汗が、ガソリンに取って代わり、火を放たれた。比喩ではなく、実際にそうなった気がした。訳がわからず、ただ悶え苦しむように、充夫は足掻いた。
 その状態が、どれくらいつづいたのか、わからない。実際には一分そこそこだったのだろうが、充夫には永遠に消えない悪夢だった。
 訳がわからないものの、心の中では子どものように泣いていた。恐いよお、助けてくれよお、恐いんだよお。
 そうだ、一番悪いのは母親だ。
 充夫をあんなに可愛がってくれたのに、十年余り前、勝手に死んでしまった。母は康子を毛嫌いしていた。そのせいもあって、康子はどんどん厭な女になってしまったのだ。
「母さんが悪いんだ。さんざんめちゃくちゃにしておいて、逃げるように死んだ、母さんが悪いんだ」
 叫びながら、全身を振るわせたとき、ボキッと鈍い音がして、やっとのこと充夫は我に返った。あわてて両手を離したものの、すでに幸恵は絶命していた。
「殺す気なんて、まったくなかったのに、母さんが悪いんだ。いや母さんだけじゃない。康子も、幸恵もみんなグルだ。ほんとうは裏でつるんでいて、よってたかって、ぼくを貶めようとしたんだ」
 打ちつける雨が、涙と鼻水を流していった。拭おうとしたとき、足が滑って、前のめりになった。バランスを立て直そうとしたものの、辺り一帯はわずかなうちに泥濘となっていた。
 回転に失敗したフィギュアースケート選手のようなかっこうで、充夫は尻から穴の中に落ちた。それを待っていたかのように、いっそうの土砂が流れ込んできた。同時に大きな異物が起き上がろうとした充夫の上に覆いかぶさる。
 懐中電灯の明かりは、穴の中までは届かない。枯れ木が塊となって流れて込んだのか。すぐに違うとわかった。
「充夫さん」
 闇の中、すぐ近くから声がした。
「幸恵?」
「ええ。やっと二人きりになれるのね」
「で、でも、君はもう……」
「ううん、わたしだけじゃない。あなたもすぐに」
「い、い、いやだ。ぼくはまだ死にたくない」
「無理よ。もう。出られない」
「いや、ぼくは出る。出られるさ」
「それなら、わたしが出さない」
 濁流に流された土砂が、どんどん穴の中に流れ込んでくる。
「企んだな。そうだろ。ぼくに殺させて、そして……」
「何となく」
 幸恵が鼻で笑うのがわかった。
 かっとなった充夫は、無我夢中であがき、声を張り上げる。
「わかった。一番悪いのは、幸恵、おまえだ。おまえだったんだ。おまえさえいなければ、こんなことには……」
「ちがうわ」
 雨が強まった。それ以上の凄まじい、雷のごとき声で幸恵が叫んだ。
「一番悪いのは、お前だ!」
 言葉が落雷となって、充夫を直撃した。
 動きを止めた二人に、雨が降り、土砂が覆いかぶさっていく。(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『ハンマーヘッド』