(PDFバージョン:sizukanamatide_aokikazu)
靄の白に深く溶けこんでいた藍色がゆるゆると薄れていくので朝を知る。わたしは障子を開けて外の気配に耳を澄ます。白く濁った空気の向こうでまたあの鳥が啼いている。この町に来てから幾度も声を聞くがいまだ目にしたことはない。どんな姿をしているのだろう。高く、細く、尾を引くような啼き方をする。まるで人が泣き叫んでいるようで、わたしは好きになれない。
鳥の声が途絶えると町はまた静けさに包まれる。やがて靄が薄れ、庭木の影がおぼろに形をとりはじめる。下草はしっとりと露に濡れている。まだ朝は早い。
わたしは障子を閉めて寝間に戻る。ついたての陰で布団がゆっくりと上下している。眠っている夫を起こさないように、わたしは静かに畳のへりに腰を下ろす。
櫺子窓からやわらかい光がさしこみ、縞模様の影をつくる。刻とともにだんだん濃くなってくる。まるで牢屋の格子のようだと思う。影は畳を這い、わたしの膝の上に伸び、やがて夫の布団に届く。
夫は寝返りをうつが目を覚ます気配はない。夫はよく眠る。以前からこんなに眠る人だったろうか。ああ、あの頃は気にならなかっただけだろう。昔に比べてわたしの眠りはすっかり浅く短くなった。
わたしは夫の顔をのぞきこむ。くせのない豊かな髪が乱れて額の上に散っている。眠っているせいか肌はうるおいのある光沢を見せ、まるで磨き抜かれたあかがねを思わせる。なめらかな曲線のどこにも、折りたたまれたような深い皺はない。
奥の襖に軽い音がする。襖が掌の幅ほど開き、小さな白い顔がのぞく。前髪を眉の上でぱつりと切り揃えた幼い顔。わたしの視線に出会うと子供は驚いたようすで何度も瞬きをし、襖の陰に顔を半分隠す。
「光っちゃん、起きたの。こっちいらっしゃい」
黒い目がかすかな警戒色を含んできろりと光る。五歳の光弘はちょうど人見知りの激しい年頃だ。長い間離れ離れに暮らしていたわたしを母とは思えないのだろう。そもそも光弘の幼い心には、ともに暮らしていた時期の記憶など残ってはいないのかもしれない。
いずれ馴染んでくれるだろう。そう思ってはみるが光弘の固い視線はいつもわたしの胸を刺す。
「光っちゃん、おとうさんお寝坊さんよ。起こしてちょうだい」
光弘の緊張をほぐそうと、わたしはぎこちない笑みを浮かべて話しかける。光弘は少しためらい、それでもおずおずと寝間に体を滑りこませる。襖と布団の間のわずかな距離を素早く駆け、夫の上に馬乗りになると体を揺すって飛び跳ねる。
──おとうさん、起きろ。起きろ。
たまらず目を覚ました夫が捕まえようとすると、その手をすり抜け、光弘は障子を開けて庭へ駆け降りる。
──しょうがないやつだな、あいつは。
夫はそう言って、まだ眠たそうに目をしばたたきながらわたしに笑顔を向ける。若々しい笑顔を。
わたしは鏡台に向かい髪を梳く。黒いものと白いものが櫛に同じ量だけついてくる。頬がこけ艶のない肌をした女が鏡の中にいる。いっそう老けこんでしまったように見えるのは、長く病院で暮らしたせいだろう。
布団を畳みながらそこに夫の残り香を嗅ぎ、わたしは溜息を落とす。夫の目にわたしはどう映っているのだろう。
君とまた一緒に暮らせて嬉しい、と夫は言う。ぼくも光弘も、ずっと君に会いたかったんだ。
夫の言葉は本心だろうか。よしんば本心であったとしても、待っていたのははたして今のこんなわたしだろうか。光弘の正直な黒い目がふと胸をよぎる。
明るくなっていくぶん薄らぎはしたものの、靄はまだ町のそこここに澱んでいる。わたしと夫は光弘を連れて町中にある公園へと向かう。ゆったりとした道の両脇に家々の影が現れては過ぎる。ときおり行き交う馴染みの顔は軽く会釈し微笑んで挨拶する。
こんにちは。お早いですね。
こんにちは。お散歩ですか。
人々の声はみな穏やかに嗄れている。旧い町だからだろう、ここには老人がとても多い。
公園はがらんとしている。かつて暮らしていたところでは砂場もぶらんこも奪い合いだったがここでは光弘のひとりじめになる。光弘は砂場で黙々と山をつくりトンネルをつくる。つくっては壊し、またつくる。何度も何度もそれだけを繰り返す。
かん高い声が近づいてくる。光弘は手を止めて声のするほうを見る。薄い靄の中から小さな子供が姿を現す。男の子のようだ。サスペンダーつきの緑のズボンをはいている。光弘と同じくらいの年だろうか。光弘とその子の間に微妙な緊張が流れる。子供たちは黙って見つめあい互いを値踏みする。
「ああよかった。お友達がいたのね」
子供の後ろで女の声がする。若い男女がやってくる。子供の父親と母親だろう。わたしたちに向けて笑顔で頭を下げる。
「ほら、こんにちははどうした?」
父親は息子の名を呼んで言う。子供はぎこちなくうなずく。光弘は黙って子供に手を差し出す。
子供たちはじきに仲よくなり一緒に駆け回りはじめる。夫と若い父親は二人で子供たちをぶらんこに乗せる。わたしはベンチに座りその様子を見ている。子供につきあって遊ぶにはわたしの体は衰えすぎている。
母親がやってきてわたしの隣に腰を下ろす。あの子こっちへ来てからお友達がいなくて寂しがってたんですよ、仲よくしてやってくださいね、と言う。
こちらこそね、とわたしは答える。
母親の声は物静かで柔らかい。わたしは少しほっとする。
「お孫さん、お名前は?」
母親の無邪気な問いに、斬りつけられたような痛みがゆっくりと胸に降ってくる。孫と祖母。光弘とわたしはそんなふうに見えるのか。では夫とわたしは。心の中に溶けて漂っていた不安はにわかに沈殿しはじめる。黒く重く凝固し憤りとも憎しみともつかぬ感情になる。
「あれはわたしの子です。一緒にいるのは夫」
どうしようもなく、声に棘が乗る。母親はぎくりとした表情になる。
「あ、あの、ごめんなさい。わたし」
今にも泣きだしそうな顔でうろたえる様子は、まるで叱られた幼い子供のようだ。わたしは彼女がかわいそうになる。一家はきっとこの町に来たばかりなのだろう。彼女はまだ慣れていないのだ。
子供がぶらんこで母親を呼ぶ。わたしは笑顔をつくる。母親はわたしを気にしながら子供の側へ立っていく。
青年のような父親は幼い子供を抱き上げ、娘のような母親はその側で笑いながら何ごとかを話しかけている。見るまいとしても視線は一家の上に縫い止められる。なんと似合いの家族であることか。
白っぽい空に朱がさしはじめると夕刻になる。
「バイバーイ、またあしたねー」
子供たちは手を振って別れる。若い夫婦は頭を下げて去っていく。父親のほうは夫に軽く手を上げる。男同士もすっかり仲よくなったようだ。
「いい人たちみたいだね」
一家の後ろ姿が消えるのを見送って夫が言う。
「何があったんだろうな。でも家族みんなで暮らせるのはうらやましい」
夫の視線が遠くを見るように揺らぐ。そして自分の掌へ落ちる。何度か手を握ったり開いたりを繰り返す。
春彦のことを思い出しているのだとわかる。春彦はわたしたちの次男、光弘の弟だ。
「あの子のことも、もっと抱いてやりたかった」
夫は自分の掌を見つめ、それから春彦の分まで補うかのように、光弘の小さな手を握りしめる。夫が最後に見た春彦は、やっと言葉が出はじめたばかりの幼子だった。わたしと二人きりで遺していくのはさぞ心残りであったろう。
その春彦も、現し世でもう父親の享年を追い越した。
青年のままの夫の、老いたわたしの、心の底に澱がつもる。わたしたちは互いに黙ったまま家路をたどる。靄が濃くなってくる。藍色が混ざりだしたならじき夜だ。
明日もまたその明日も変わらぬ日が続く。わたしたちはここで暮らしていく。この静かな町で。永遠に。
彼岸と此岸のはざまで、またあの鳥が啼く。
〈了〉
青木和既刊
『くもの厄介2
辻斬り赤右衛門』