(PDFバージョン:12kyuu05_ootatadasi)
獅子王は憂えていた。
幼少の頃から勇壮をもって知られ、長じてからは一度として戦いに破れたことはなく、人を率いれば烏合の衆も規律正しき勇猛果敢な軍隊へと生まれ変わらせる術を持つ。西の敵国や北の蛮族をたちまちのうちに平定し、版図を広げ続けてきた獅子王が、悩んでいたのだ。
そもそもの起こりは、ひとりの子供だった。
子供がいたのは、山中の取るに足らない小国だった。戦いと呼べるほどのこともなく征伐できた国だったが、数少ないその国の兵士たちは中心にある祠だけはかなりの抵抗を持って守ろうとした。そこに国の宝でも隠しているのだろうと思われたので、一気に攻め落として祠を開けた。
そこにひとり、身を潜めていたのが、その子供だ。
最初は国王か王族のひとりかと思った。が、生きて捕らえた兵士は否定した。
「王と王族は祠を守るため、真っ先に貴様らと戦い、命を落とした。もう誰も生きてはおらぬ」
「では、この子供は何者だ?」
尋ねる獅子王に、兵士は不敵な笑みを浮かべるだけで答えようとしなかった。立腹した王はその兵士の首を刎ねた。
本来の獅子王であれば、子供もその場で殺していた。しかしなぜか、彼は躊躇った。
醜い子供だった。頭が大きく、頭髪はない。眼はいつも驚いたように見開いており、しかも瞳は見たこともない色をしていた。手足はひょろひょろと長く、肌の色もよくない。身に着けているのは粗末な布一枚で、到底大切に育てられていたとは思えない風体だった。
何語で話しかけても理解できないのか、返事をしなかった。
獅子王はその子供が気になった。一言も発せず、大きな瞳でこちらを見つめるだけ。なのにその眼差しが、彼をむず痒いような不思議な気持ちにさせるのだった。だから殺さず、連れ帰った。
以後、獅子王は子供を常に側に置いた。
獅子王は最初、子供に贅沢な服を着せた。しかしどんなに美麗な衣装も子供に着せると場違いで珍奇な風体になってしまう。何度か試した後、結局最初のような布一枚で済ませることになった。
山海の珍味を与えたりもした。しかし贅沢な食べ物は受け付けず、無理に食べさせると苦しんで吐き出した。結局わずかな穀物と汁物だけの食事になった。
不思議なことに、子供はいっかな成長しなかった。いつまでも子供のままだった。
側近たちは子供の存在を訝り、表向きはおもねるような態度を取るものの、内心では嫌悪していた。しかし直接獅子王に諫言する者はいなかった。彼の意に染まないことを言えば命がないことを知っていたからだ。
属国の王たちを招いたときも、獅子王の傍らには子供がいた。ひとりの王が興味を引かれ、尋ねた。その子供は何者ですか、と。獅子王は答えた。我が宝だ、と。
本心を言えば、獅子王はそのように答えるつもりなどなかった。彼自身、子供が自分にとってどんな存在であるのか、明確にわかってはいなかったのだ。だが、ふと口をついて出たのは、そんな言葉だった。
その話は、たちまち領土に広まった。獅子王は奇妙な子供を侍らせている。もしかしたら彼の隆盛は、その子供がもたらしたものではないのか。子供は幸運の守り神ではないのか。だからこそ獅子王は子供を宝と呼んだのでは。
その噂を聞いた獅子王は笑った。この子供が守り神などであるはずがない。もしそうなら、あの小国は簡単に滅びなどしなかっただろう。あれはただの子供だ。子供に過ぎん。
獅子王はその後も侵略を続け、遂に西の海から東の海まで、手の届く範囲はすべて我が物とした。天地始まって以来、もっとも広大な領土を得た王となったのだ。
しかしそれは、獅子王の力の限界でもあった。手に入れるべきものをすべて手にした彼は、目標を失った。次に何をしたらいいのか、彼にはわからなかった。
さらに獅子王を悩ませたのは、領土管理の問題だった。彼は戦いに関しては天賦の才を供えていたが、統治の才を持ち合わせていなかった。征服した国の運営は側近か降伏した王属に任せ、自分は次の戦にしか関心が向かなかった。その結果、内政は混乱を窮め、民は飢え、嘆き、恨んだ。
王国が内部から崩壊するのは、自然の理だった。
一箇所で上がった反乱の狼煙は、次から次へと伝搬していった。属国の王が、為政者として送り込まれた側近が、彼に歯向かって武器を取った。
獅子王はすぐさま鎮圧に乗り出した。しかし当初は大勢の軍を投入して制圧することができたものの、各地で多発した反乱すべてに対することは不可能になった。獅子王の軍は方々の戦いに引っ張り回され、疲弊し、弱体化した。
次第に情勢は不利になっていった。獅子王の軍は各地で敗れ、その度に兵力は削がれていく。
獅子王は己が劣勢に回っていることを自覚した。今までの人生で初めての経験だ。焦り、怒った。
さらに彼の耳に届いた噂が、不安と焦燥を煽った。
反乱の軍は、あの子供を手に入れようとしている。子供こそが獅子王の力の源泉だからだ。あの子供を手に入れた者が、次の覇者となる。
だから獅子王は憂えた。皆が自分から子供を奪い取ろうとしている。もしも子供が手許からいくなったら。そう考えるだけで、気が遠くなるほどの喪失感が襲ってきた。
獅子王は城の中心に小さな祠を建て、そこに子供を匿った。
そうしている間にも彼の軍勢は各地で敗退し続けた。そしてついに都にまで攻め入られた。
都の民も、すでに獅子王から心が離れていた。反乱軍はたいした抵抗も受けず、城を包囲した。
残る軍勢はわずか。そのすべてを獅子王は祠の守護に当てた。そして自らも祠の前に立ち、剣を取った。
程なく、敵が攻め入ってきた。味方はたちまちのうちに蹴散らされた。悲鳴が上がり、血潮が舞った。
その様を獅子王は、見ていた。味方の軍が屠られるのを。敵が眼を血走らせて向かってくるのを。
彼らは口々に叫んでいた。子供を! 子供を!
将軍から一兵卒に至るまでが、子供を欲していた。手にすれば天下を我が物にできると信じて。
獅子王は祠の扉を開けた。子供はその中心に佇んでいた。
おまえは、絶対に誰にも渡さん。彼はそう叫んで子供を抱きしめようとした。が、子供はその手を逃れた。そしてはじめて、口を開いた。
――よくわかった。この星の知的生命体はすべて、こうして自ら滅びていく。もう、わかった。
人の言葉ではなかった。直接心に突き刺さってくる声だった。
獅子王がその言葉の意味を問い直すことはできなかった。敵の刃が、その背中を深々と貫いたからだ。
子供に手を伸ばしたまま、獅子王は息絶えた。
彼を殺した兵士は、意気揚々と祠に入った。そして、すぐに困惑の表情を浮かべた。
祠には、誰の姿もなかったのだ。
その後の子供の消息は、知れない。
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