「手のひらに銀の河」木本雅彦


(PDFバージョン:tenohirani_kimotomasahiko
 私は夜空を見上げて言った。

「天の川に歩道橋をかけると、いいと思う」

 銭湯からの帰り道で、濡れた髪の毛の間をかすかな風が通りすぎていく。肩にはタオルを乗せて、服が濡れないようにしているが、濡れた髪やタオルを他人に見せるというのは、どこか気恥ずかしい。その一方で、恥ずかしいものを見せているけれど公序良俗には反していないから見せてよいよね、などとも思ってしまう。露出狂なのだろうか。

「それはどういうことだろうね。少し考えてみないといけない」

 しばらくたってから、彼は答えた。その頃には私の頭の中は意外と空気が澄んでいるな、などという別の考えに移っていたので、何のことか思い出すのに時間を要した。彼はいつも、こんな感じだ。

「考えるの?何を?」

「まず歩道橋という概念について考えてみよう。歩道橋ということは、歩行者が歩くための橋だ。橋をかける場所は川じゃない。川なら普通に『橋』と言えばいいだけだ。船以外の何かが走っているところに、橋をかけなければ歩道橋にはならない。このことから、天の川に歩道橋をかけたら、まず天の川には何かが走ることになる」

「はあ」

 私はあからさまにまたかという顔をした。彼がこの手のことを喋り始めると長くなることを、私は知っている。

「歩道橋の下を走る何かは、大抵の場合は自動車だな。うん、自動車なら収まりがいい。ヘッドライトの光は、実に天の川的じゃないか。そこにバイクが混ざってもいいな。光のバリエーションは多いほうがいい」

「川でいいじゃない。天を流れる川で隔たれた織姫と彦星って、ロマンティックでしょ?自動車がばんばん走る道路で離されていたりしたら、全然イケてない」

「そうはいうけどね。そもそも星座ってのは、恣意的なものなんだ。地球からそういう配置に見えるというだけであって、実際に銀河を軸として織姫と彦星が対称的な位置に存在しているわけじゃない。地球から見える配置も、少しずつ変化しているしね」

「だけど私は天の川の話って好きよ。人間がそういうラブストーリーを想像したのなら、やっぱり織姫と彦星はそこにいると思う。人間が見てくれているから、織姫も彦星も物語として生きていられるっていうのかな」

「ある意味、人間原理――つまり人間中心主義的宇宙論だね。僕はその考え方が嫌いではないな」

 典型的な理系の彼は、いつでも会話をややこしくする。ややこしくする割に、私の言葉を頭ごなしに否定することもないので、彼なりに私の言うことを聞いて相手をしてくれているつもりなのだろう。

 そんな会話をしながら、私たちはアパートに帰る。1DKの小さな木造アパートだけれど、私たち二人の家庭が、そこにはあった。

 かつて、織姫と彦星と呼ばれた私たちが地球に降りて、ここ三鷹市上連雀のアパートで暮らすようになって、一年以上が過ぎた。今年の七夕は二人で空を見上げて、

「あそこに浮かんでいるのは、偽物なのにね」

 などと語り合ったものだ。

 上連雀の生活は静かでいい。彦星であった彼は、大学の助教の仕事を見つけ、私は家で家事をする。正直に告白すると、彼の給料だけで生活するのは少々厳しいものがあったので、私は彼のいない昼間にネットの出会い系サイトのサクラのバイトをしていたりする。これが意外と楽しい。彼には内緒だ。彼は私のために生活費を稼いでいてくれていると思っているし、実際私はそれに寄りかかっている。

 私たちのような関係は悲恋なのかもしれないが、駆け落ち同然で地球に降りてきてしまった今は、悲しんでいる暇も余裕もない。私たちは二人で生きていく自由を手に入れた。同時に生き延びる方法を自分たちで探さなければならない義務も負った。それでも私たちには、自由のほうが価値がある。

 歩道橋の話をしてからしばらくして、彼の帰宅が急に遅くなった。仕事が忙しいのだという。どういう仕事をしているのかと聞いても、珍しいことに言葉を濁す。それまでは、私には意味不明の話を延々としてくれていたというのに。彼が帰宅してからの今日の出来事を報告しあうのが、とても楽しみだったのに。

「たいしたことじゃない。いや、たいしたことかな。でも大丈夫、もうすぐ山場を越えると思うよ」

 彼は言う。仕事人間が言いそうなことだ。

 などというようなことを、バイトの出会い系サイトのお客さんに相談していたら(一応人妻という設定にしてある)、「奥さんそれは、浮気だよ。旦那さん、浮気しているね」と言われてしまった。

 こう言ってはなんだが、あの理系オタクの彦星が、そんなにモテるはずがないと、私は断言できる。私の趣味はマニアックなのだ。自慢にならないけど。

 ということで、彼を尾行することにした。

 出勤する彼を見送ったあと、マスクとサングラスを装着し、家を出る。私は今尾行しているので、周囲の皆さんは放置してくださいという暗黙のアピール。

 彼はまっすぐに大学にいき、カフェテリアで昼食をとり、夜まで研究室にいて、遅くに大学を出て、牛丼屋で遅い夕食をとって、家に帰ってきた。それをずっと監視してた私は、とにかくお腹が減った。何の成果もあがらなかった。

 翌朝、彼を送り出した私は、猛烈に馬鹿馬鹿しくなった。とりあえず、ぬいぐるみを投げたら、壁にぶつかって落ちる。ずんぐりとしたうさぎが横になった姿を見て、不格好だなと思う。

 どうして私がこんなことを考えないといけないのだろう。あんな、理系オタクのことなんか。

 彼はいつでもマイペースで、一年に一度会える時だって、私がどれだけドキドキしているのかを知ろうともしない。宇宙の仕組みがどうとか、宇宙が生まれるにはどうとか、そんな話ばかりをして、会える時間がどんどん減っていくのに、平気な顔だ。たまりかねて私が彼の手に自分の手を重ねると、そこでようやく握り返してくれるといった始末。私がしっかりしていないと、彼はどこに行ってしまうか分からない。

 面倒なことばかりだ。こんな気持ちになることすら、面倒でしかたがない。

 あんな男、放っておけばいいのに。いっそのこと、出会い系で知り合った人と浮気でもしてみたらいいのだろうか。

 時間ばかりが過ぎていき、気がついたら夜になっていた。もやもやしたものを消化しきれなくなった私は、アパートを飛び出した。

 三鷹通りを歩いていたら、歩道橋をみつけ、なんとなく上ってみる。中央から道路をみると、車のヘッドライトやテールランプが銀河の流れのように見えた。銀の河。昔の人は、なんて綺麗な名前をつけたのだろう。

 もうやめようか。実家に帰ってしまおうか。実家ってどこだっけ?ああ、こと座だった。実家に帰るのも一苦労。ため息をつきながら、三鷹通りの車の流れをぼんやりと眺めていたら、歩道橋のはしから彦星が走ってきた。あの理系オタクが走るなんて!

「よかった、見つかった。探したよ」

「今日は早いのね」

「ああ、このところやってた仕事が終わったんだ」

「何をしていたの?」

「ちょっと、宇宙、作ってた」

「ええ?」

「ちょっと、宇宙、作ってた。やっと、できた」

「そんなことできるの?」

「だって、僕、彦星だし。そのくらいはできるでしょう。それよりも聞いてよ。この宇宙のポイントは、ほら、この前歩道橋の話をしただろ?その時の人間原理でひらめいたことなんだ。人間中心で宇宙が存在して、人間中心で織姫と彦星が存在するのなら、織姫と彦星が視点の中心になった宇宙というのが存在できるんじゃないかって思ったんだ。その宇宙は、織姫と彦星が天の川で邪魔されることなく、一緒にいられる宇宙なんだよ!」

 彼はポケットから球体を出して手のひらに乗せた。

「真っ黒。何も見えない」

「光の定義からして違う宇宙だからね。この宇宙なら、僕と君は、ずっと一緒にいられるよ」

 ああ……。

 ああ……。

 わかってない。全然、わかってない。

 そういうのじゃないのに。

 私はただ毎日小さなアパートで一緒にいられれば、それでいいのに。今、この、地球という小さな惑星で、二人で語らう時間がずっと続けば、それでいいのに。

 この人は、できたばかりの新しい宇宙の中に、一緒に飛び込んでいけと言うのか。

 冒険もいらない。試練もいらない。新しい世界もいらない。ひたすらに、日常があればいい。

 私はそういうようなことを、理屈しか通じない相手に、多分理屈も何もない言葉を並べて叫んだと思う。彼は黙って聞いていた。反論はしなかった。殴られるかと思ったけれど、それもなかった。彼は静かだった。

「何か言ってよ」

「……頑張ったんだ」

 一言だけで、彼は黙る。

 純粋なのだと、思い至る。彼は本当に、私たちの宇宙を作れば幸せになると思っていたのだ。

 そういうことなら、分かった。

「私たちの幸せは、私たちのことを思い描いてくれた人間がいてくれるからこそのものだと思う。だから、この街で暮らしましょう。私はそれで、十分に幸せよ?」

 そして私は彼の手から、黒い球体を取り上げた。

「その宇宙……どうしよう」

「大丈夫。私が預かっておいてあげる。織姫だもの。宇宙のひとつくらい、小さくたたんで持っていられるわ」

「そうだね。それでいいのかもしれない」

 納得した彼の手を握る。私たちはアパートに向かって歩き出した。

 私の中には、それまでにない小さな炎のようなものが生まれていた。

 小さくて若いこの宇宙を、いつか広げる時がくるかもしれない。その時は、これは私たちの宇宙ではなくて、私の宇宙にしよう。織姫の生き方を認めてくれる、私だけの宇宙にしよう。

 私は彼に聞いた。

「ねえ、相談があるんだけど」

「何だい?」

「仕事を探してもいいかしら?」

 私だけの宇宙を作り出す手がかりとして。


「三題について」
 本作品はいわゆる三題噺です。キーワードを決めるにあたり、妻にメールしてみました。「お題ください」「ショートケーキ、すし、紅茶」「それ、あなたが今食べたいものでしょ」「ばれたか。じゃあ、さくら、マスク、歩道橋」「ああ、お散歩に出掛けたのね」「どうして分かるの?」などというやりとりがあり、結局「さくら」「マスク」「歩道橋」の3つのキーワードで書きました。(木本雅彦)

木本雅彦プロフィール


木本雅彦既刊
『MAINTRUNK-01』