(PDFバージョン:shuutomenoteinenn_miyanoyurika)
その昔、「ぬれ落ち葉族」という言葉があった。仕事ひとすじで生きてきた会社人間の男が、定年後に妻にまとわりつく始末の悪さを皮肉った言葉である。もちろん、これは現在でも解決された問題ではないのだが、既に十分、「社会的な認知」を得ている。むしろ、「終身雇用」が生きていた牧歌的な時代の幸せな男たちという見方も成り立つ。
厄介な現象というのは、実は社会的な認知を得た段階で九十九%終わっているものだ。逆に言えば、現在において切実な問題ほど認知されないし理解もされないし、それを言い表す言葉もない。
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故郷の友人から、メールが来た。
「家を出ました。息子と一緒にアパートを借りました。これだけでも、ずいぶん楽になりました。まだ離婚していないけど、そのうちするつもりです。また、会ったら話すね」
さすがにちょっと驚いたが、予想外のことではなかった。
宮野は一九六一年(昭和三十六年)の生まれである。「結婚適齢期」(←死語)の頃は、まだ「女はクリスマスケーキ(二十五を過ぎたら売れ残り)」(←化石語)と言われた時代であったから、同世代の友人たちはほぼみんな二十代で結婚した。
メールを寄こした友人は、三十年ほど前に二十三歳で見合い結婚し、専業主婦になった。その時、彼女が宮野にこう言ったことを覚えている。
「相手の両親と同居だけど、大丈夫。お姑さんはフルタイムで働いていて、家にはほとんどいないし、家事のできない人だから、こちらのやることに文句もつけて来ないの。楽でしょう?」
先に結婚して相手の両親と同居した友人の中には、それこそ一挙手一投足、文句をつけられている人もいた時代であった。「家事のできないお姑さん」というのは、その意味では珍しくも画期的な存在だったのだ。
「じゃ、その家、今まで誰が家事をやっていたの?」
「おばあちゃんがいたのよ。お姑さんのお姑さんね。去年亡くなったんだって」
「なるほど。その方が専業主婦だったんだね」
「昼間は家に誰もいないから、家事は午前中に終わらせて、午後は本を読めるよ。図書館も近くにあるし」
彼女はかなりの読書家なのである。特にシリーズ物が好きで、栗本薫さまの作品を愛読していた。
結婚二年後に女の子、そのまた二年後に男の子が生まれた。
その頃から、彼女は愚痴るようになった。姑の家事能力が「男以下」であることはわかっていたが、子育ても全くできないし、する気もなかったからである。
「『オムツ替えなんか、一回もしたことがない』って言うのよ。息子が二人もいるのによ。信じられる?」
「まあ、代わりにしてくれる人がいれば、そんなもんでしょう。女だからって、生得的にできるわけじゃないもの。学習機会に恵まれなければ、男と同じよね」
さて、子どもは大きくなり、娘は結婚して家を出た。息子は就職したが、まだ独身で家にいる。
舅・姑は定年になった。二人とも家事能力はない。
定年は六十歳である。平均余命を考えると、この先、三十年近くは彼女がひたすら、食事・洗濯・掃除などなどの世話をし続けることになる。
「おじいちゃんは、まだ手伝ってくれるのよ。おばあちゃんは意地でもやらないって感じなの」
それは、そうだろう。男が慣れない手つきで料理をつくったり洗濯を干したりすれば、それだけでほめてもらえるが、女はそうはいかない。男なら失敗も愛敬だが、女だとそうはいかない。だったら、やらない方がいい。やらないからできない。できないからやらない。プライドの高い人ほど、この循環の中に陥る。
そして、自分が役に立っていないことを半ば自覚するからこそ、「嫁」に対して強圧的になるし、息子の歓心を買おうとする。
この状況は本人もつらいだろうが、周囲の者もつらい。
友人は心療内科に通い始め、数年前に栗本薫さまが亡くなった時には、こう言っていた。
「ずっとの間、続きを読むのだけを楽しみに生きてきたのに、これからどうすればいいの?」
それでも舅が存命のうちはまだよかったのだった。
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見舞いの言葉を綴った宮野の返信メールに、友人はこう返してきた。
「もう本当に限界だったの。息子と二人で何とかやっていきます」
「夫に『どっちを選ぶの?』と尋ねました。妻よりも母を選ぶそうです。『妻には代わりがいるが、母には代わりがいない』と言われました」
「『早く離婚しろ』とか『今、離婚すると損だから、絶対にするな』とか、まわりにいろいろ言われて、何かとても疲れています」
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さて、この姑さんのような女性は宮野の親の世代では少数派であった。だが、宮野と同世代には、結婚していて子どもがいても、家事能力がほとんどないと思われる女性というのがいくらでもいる。別に不思議ではない。「ぬれ落ち葉族」の男だって結婚していたし、たいていは子持ちだったのだ。
そして、現在の日本の職場というものは、まだまだ「主婦」をしてくれる誰かがいることを前提として成り立っている。就職も結婚も、我々の世代よりもはるかに難しい。となれば、この友人のように、両親と同居して自分が家事をこなすことで問題をクリアしようとする若い女性は、我々の世代よりも多くなっているのかもしれない。
もちろん、先々どうなるかはケースバイケースであろう。
どうか幸せな人生を送って欲しいものである。
(了)
宮野由梨香 協力作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』