「被験者」江坂遊

(PDFバージョン:hikennsha_esakayuu
「どうしたのですか。長い間、研究室に顔を出さないで」
「先生、申し訳がありません。いろいろあったもので」
「書きかけの論文は、その後進んでいるのですか」
「あぁ、はい。すみません」
「謝ってばかりでは分からない。あれにはこの研究に関わった者、全員が期待しているということをあなたは分かっておいででしょ」
「はい、それはもう」
「書けていないのですか、書けたのですか」
「先生、書いていません。書けなくなってしまいました」
「書けない。そんな馬鹿な。あれだけ実証データを揃えたじゃないですか。被験者データも三十人分ある。十分ですよ」
「データは確かに」
「噂を聞きました。何でも、被験者の一人と結婚されたとか」
「お知らせもせず、本当にすみません」
「お幸せすぎて、論文に手が回らなくなったというわけですか。残念です」
「先生、わたしの身に起こったことを聞いていただきたく、今日は思い切って顔だししました」
「そうですか、何かあったのですね。聞かせてください」
「はい、お手間をかけてしまいます」
「珈琲をいれましょう」
「ありがとうございます。涙が出ます」
「以前どおりだから、気にすることはありません」
「先生にあの仮説をお話した時の感激は今でも忘れはしません」
「本当にびっくりしました。でも絶対に間違っていないなと直感で思いました。トンでもないことだなと冷静にとらえられたのは随分、後になってからです」
「わたしも同じです」
「脳の中に未来の記憶が収納されている領域があるなどということは誰もが考え付くことではありません」
「はい。あるはずだと確信がありました。デジャブーの解釈が脳の混乱をおさめるためだという説に反論したくてならなかったということもあって」
「そうですね。それがとっかかりとおっしゃっていましたね」
「先生はすぐに協力してやろうと言ってくださいました。荒唐無稽なアイデアだったのにも関わらず」
「協力している未来像がわたしの脳に焼きついていたのだと考えるのが自然じゃないですか」
「まさにそういうことでしょう」
「あなたは精力的に動かれた」
「学生に被験者になってくれないかと募集をかけました」
「すぐに集まったようですね」
「はい。脳のどの領域にどんな形で蓄積されているのかはおおよそ見当がついていました」
「その記憶の取り出し方もユニークでした」
「はい。記憶映像の断片をスライスしてウェブページの貼り付けイメージにする方法は既に確立できていました」
「それだけでも賞賛に値するものです。早く論文発表しておかなければね」
「すみません、先生。これを公表すると世界を混乱させてしまうことになるので」
「混乱するか、進歩するか、一科学者が判断することではないとわたしは考えますがね。珈琲が入りました。どうぞ」
「いつもの香りです。美味しいです。先生の期待を裏切ってしまって、本当にすみません」
「話を続けてください。その募集した被験者の一人に惹かれていったのですね」
「はい。彼女の未来の記憶を調べていて仰天しました」
「分かってきました。あなたと結婚する未来像を発見した。そうでしょ」
「さすが、先生ですね。実はでも、彼女と結婚しようと考えた理由はそれだけではありません。彼女の未来の記憶の中にもう一つ興味深いシーンを偶然見つけました」
「ほおっ」
「わたしが病院のベッドで老いさらばえて亡くなる瞬間を彼女が見とっているところです」
「なんと」
「わたしはこんなことを昔から考えていました。自分より先に亡くなる妻はもらわない。そう決めていたのです」
「おやおや、そんなことをね。そうですか、この実験で分かって、良かったじゃないですか」
「はい。未来には逆らえません。高い実験設備を、とても私的なことに使ったことになり心が痛みます」
「ドクターが被験者と結婚された例はこれまでもありましたよ。そんなことで後ろめたい思いにかられなくても良いでしょう」
「有難うございます。少しは気が楽になりました。おかげでわたしは彼女と長く幸せに暮らせるだろうと思いました」
「あなたがお亡くなりになられるまでですがね」
「はい。でも、式をあげ、すぐに妻は亡くなってしまいました。不幸にも交通事故に遭遇してしまったのです」
「えっ、何ですって。じゃ、あなたを見とるシーンの映像は? な、なんてことだ。未来の記憶は間違って収納されている場合もあるってことなのですね。理論に穴があった」
「もう本当に目の前が真っ暗になりました。わたしの仮説がガラガラと崩れていきました。人は皆、大人の脳になったときにそれぞれの未来が確定されるという考え方に間違いがあったとは。もう立ち直れない気分でした」
「奥様が亡くなられたというショックが何より大きかったのでしょうからね。そうだったのですか。それで、論文が書きかけのままになってしまったのですね」
「当初はそういうことで」
「なるほどね。えっ、当初というのはどういうことですか」
「先生、実はひょんなことで、その仮説は正しいということが立証できました」
「ええっ。おっと、こぼしてしまいました」
「大丈夫ですか、先生。これで拭いてください」
「動揺が走ったのでね。もう、大丈夫。そう、仮説が正しかったとまた証明できたとはどういうことなのですか?」
「・・・、・・・」
「確か、あなたがお亡くなりになるシーンは奥様の脳には未来イメージとして収納されていたのでしょ。起こり得ない間違った未来を持っておられたのでしょ」
「いいえ、先生、起こり得ない未来ではありません」
「はい。あなたがお亡くなりになるというのは確かに起こり得ないことではないでしょう。でも、奥様はもうこの世にはおられない。そんなシーンを見ることは永遠にできないじゃないですか」
「はい、妻は亡くなりました。ええ、そうです。でも、妻は今でもずっとわたしの傍を離れようとはしません。今だって、壁際に。ほら、ぼんやりと彼女の輪郭が見えませんか、先生。けっこう綺麗なボディラインをしていまして」
「な、何てことを言うのです。冗談にも程があるでしょ」
「先生、わたしはつまり・・・・・・、幽霊になったときの未来の記憶、それを収納している脳領域も発見していたのです」
「・・・、・・・」  

江坂遊プロフィール

 
江坂遊既刊
『きまぐれラボ』
『小さな物語のつくり方』