「幻想郷民譚 ジンライブ1」片理誠

(PDFバージョン:jinlive1_hennrimakoto
 ハイライの奴が「洞窟に寄っていこう」などと言うものだから、“詫びしらの森”に到着したのは昼をだいぶ過ぎてしまってからになった。まったく、エルフ族の考えることはよく分からない。これからこの暗い森の奥まで進んで、日のある内に帰ってこなくては、こちらの身が危ういというのに。
 自然と俺の足は速くなる。ハイライめは後ろから、まるでハイキングでも楽しんでいるかのようなリラックスした様子でついてくる。まったく、事態がよく分かっていないんじゃないか? いくらエルフが優れた狩人だからって、夜の森で「あいつ」に出くわしたくはないだろうに。
 樫や楓、楢、椚。鬱蒼とした木々に囲まれた小道は昼なお暗い。湿っていて、夏だというのに風すらもひんやりとしていた。
 ここは辺境の村ジンライブの、東の外れの森の中。全体がゆるやかな下りの傾斜になっていて、ずっと行くと深い谷へと続く。危険なモンスターどもの跋扈する、商人はもちろん、ハンターですら容易には近づこうとしない場所だ。
 俺たちがこんなところにやってきたのにはもちろん、訳があった。
 近頃村では子供の誘拐事件が多発している。そして目撃者の証言を総合すると、どうやら犯人はモンスターらしいのだ。鋭いかぎ爪のついた毛むくじゃらの細長い腕のようなものが子供を引っかけて素早く屋根の向こう側に消えた、と何人かが言っている。襲われるのは決まって子供で、犯行は月のない夜に行われる。そしてさらわれたが最後、村中の大人が総出で探し回っても二度と見つからない。もう四人もやられているのだ。これ以上の犠牲者を出すことはできない。
 人間をさらってゆく化物には色々いるが、夜行性で、異様に素早くて、毛むくじゃらな上に真っ黒で、鋭いかぎ爪まで持っている、ということになると範囲はだいぶ絞られる。まず間違いなく「アラクネ」であろうと思われた。
 アラクネ。早い話が馬鹿でかい蜘蛛のモンスター、だ。通りかかった獲物を爪で引っかけて木の上に引きずり上げるか、巣穴の奥まで引きずり込むかして食らう。大きな顎を持っていて、牙からは神経を麻痺させる毒を出す。そのため襲われたものは暴れることはおろか、悲鳴すら上げられない場合がほとんどだ。アラクネから採取できるこの毒は優れた麻酔薬として大都市の病院などでは高値で取引されるが、そのような訳なので、こんな物騒な化物を狙おうなんて命知らずは滅多にいない。生きながら食われるなんて、誰だってご免だろう。アラクネも大きい奴になると体長が五メートルを越える。人間の大人だって平気で襲うのだ。
 今回の奴はまだそこまでの大きさにはなっていないようだが、このペースで人間を食らい続ければ、いずれすぐに大人も襲うようになる。いや、もしかしたらもうすでにそこまで育っているかもしれない。
 一つ分からないのは、どうやって冬を越しているのか、ということだった。奴らの生息域は普通ならもっとずっと南だ。この辺りは冬になれば雪が降る。奴らは凍りついて死滅するはずだった。自然な状態ならば。
 そう。つまり、誰かが奴の越冬の手助けをしているのだ。そうとしか考えられない。いったい何のために? 分からない。
 今にもどこからか化物が襲いかかってきそうな不気味な森だった。こんなところで背後から襲われたらと思うと、自然と腰のショートソードに手が伸びる。腕に多少の自信はあるが、アラクネは名うての魔物狩人や冒険者ですら手こずることのある難敵だ。正直、出会いたくはなかった。
 小道から外れ、羊歯などの下生えを掻き分けて進む。あるかないかもよく分からないような獣道の先に、その建物はあった。
「ふぅ、やっとだな」
 俺は額に浮き出た汗を拭う。
 森がその辺りだけ拓けており、強烈な陽光が煉瓦でできた小さめの館とその周囲の雑草だらけの荒れ果てた庭を照らしていた。
 後ろでくすくすという忍び笑い。
「クラウ、まだそれほど森の入り口から歩いていないよ。緊張のしすぎだ」
 金色の髪に瑠璃色の瞳。雪のような白い肌に尖った耳。すらりとした体躯。ハイライは、ザ・エルフ、と言っても良いようなくらいエルフ族らしいエルフだ。要するに嫌味なくらいの美形、ということ。エルフはあらゆる種族の中でも最も美しいと言われている種族なのだ。背丈が俺とほとんど変わらないということは、彼らの中では小柄な部類なのかもしれないが、それ以外は良くも悪くもエルフっぽいエルフだ。良く言えば優雅、悪く言えば上から目線。
 俺は口を尖らせる。
「悪かったな。俺たちは森が苦手なんだ」
 ハイライが横にやってくる。若草色の上着に枯れ草色のズボン、という出で立ち。弓矢とナイフを装備している。腰のベルトからは薬草などの入ったポーチや水筒などを吊していた。
 何がおかしいのか知らんが、くすくすと笑っている。俺はどうもこのエルフ族という奴らが苦手だ。ったく、何だって村長は俺をこんな奴と組ませるんだろう。
 そうとも。村の自警団の一員である俺は、同じく自警団の一人であるハイライと一緒に、村はずれにあるルド婆の館に行くよう、村長に命じられたのだ。で、そのルド婆の館というのが、今目の前にあるアレだ。元は偏屈な錬金術師が住んでいたという話だったが、彼だか彼女だかの死後、長らく空き家になっていたところへ、村からルドという名前の魔女が引っ越してきた。もう十年以上も住んでいる。
 館を訪問して彼女が無事かどうか確かめてくるように、というのが村長からの表向きの指令だった。
 婆さん、いるかなぁ、と俺。
「すでに蜘蛛に食われちまってたりして」
 いるさ、とハイライ。
 意味ありげに微笑んで、館に向かう。

 敲き金を鳴らして待つこと数分。こりゃひょっとして本当に食い殺されちまったか、と心配になったころ、ようやく扉が開かれた。真っ黒なローブを被った皺々の老婆が出てくる。年齢は見当もつかない。
「何か用かい」
 ギロリ、と睨んでくる。
 村にいたころは、多少怪しげではあったが、それでも愛想の良いまじない師だった彼女。だが、この十数年ですっかり変わってしまっていた。その顔はまるで仮面のようで、一切の表情を読みとらせてはくれない。
「あ、あの、ご無事かな~、と思いまして」
 俺は愛想笑いを浮かべながら用件を切り出した。ハイライの奴を尻目に、だ。あ! あいつ、口笛吹きながら館の周りを呑気に散策してやがる!
「村長の差し金かい? え? あの若造によく言っときな。ルドはピンピンしていて、生憎だが当分はくたばりそうもないってね!」
 六十五歳の村長を若造呼ばわりとは。それにしても口の悪い婆さんだ。楽しい訪問になりっこないことくらいは俺だって覚悟をしていたが。
「ち、違うんですよ、ほら、最近は村の方で物騒な事件が起きているじゃないですか。どうやら化物の仕業らしいんです。それでちょっと心配になりまして」
「へ! 調子のいいことをお言いでないよ。どうせあたしのことを疑ってるんだろ!」
 う! 鋭い。俺はギクリとする。まさにそのとおりだった。
 アラクネを村の中に匿っておけるとは、ちょっと考えにくいのだ。辺境の例に漏れず、ジンライブ村も、閉じた、狭い世界だ。臭い、うなり声、蠢く影……何か少しでもそんな異常があれば、噂はあっという間に広がる。それがないことから察するに、奴の巣は監視の目が十重二十重に張り巡らされている村の中には恐らくない。
 その点、村人すら足を踏み入れたがらないこの森ならおあつらえ向きだった。誰かが詫びしらの森でモンスターを飼ってやがるんだ。誰かって、誰が? 決まってるだろ、あの森に住み着いている魔女の婆さんだよ、というわけだ。もっぱらの噂である。
 実際、この婆さんは村と村人のことをひどく憎んでおり、動機もある。ここへ引っ越したのも、要は村にいられなくなってしまったからで、実質的には追い出されたようなものだった。
「どうせ村の連中はあたしの悪口をあれこれ言ってるんだろ? 都合の悪いことは全部、あたしに押しつけようって魂胆なんだろ!」
「い、いや、決してそういう」
「まさか証拠もなしに家宅捜査しようってんじゃないだろうね? 捜査令状は、捜査令状はあんのかい? 村長の署名が入った、正式な奴さ、ほれ、あんのかい?」
 それはなかった。彼女が怪しいというのはあくまでも噂であって、疑うに足る証拠は今のところ何もない。アラクネが彼女の屋敷の中に入っていったという目撃情報はないのだ。
「なら、さっさと帰るんだね! さぁ、帰れ帰れ! 早く! 早く早く早く!」
 なんて婆だ。取り付く島もありゃしない。凄まじい剣幕で一方的に吼えられまくって、俺は後ずさる。
 村長からは怪しい点があったら子細漏らさず見てくるようきつく言われていたのだが、これではアラクネ隠匿の証拠を発見するどころではなかった。今にも噛みつかれそうだ。館の中も覗かせてもらえない。
 一方、ハイライの奴は入り口横の芝生の上で、庭の一角に設けられた鉄格子の奥を、腰をかがめて興味深そうに眺めていやがった。
「……これは地下室の換気口ですよね。酢漬けでも作ってるんですか? 随分とすえた臭いがしますが。それにしても、ちょっと漬けすぎなんじゃありません? ひどい臭いだ」
 ルド婆の血走った目が、すぅ、と細くなる。
「フン! 放っといておくれ。漬け物はどうも苦手でね、よく失敗しちまうのさ」
 ハイライの方に注意が向かった隙に扉の奥を覗こうとしたが、婆さんは見かけによらぬ素早い動きでドアを閉めちまった。
「さぁ! これ以上話すことなんて何もないよ! 帰れ帰れ!」
 駄目だこれは、と観念する。
「分かりましたよ、分かりましたってば! おい、ハイライ、帰ろうぜ!」
「ああ。ん? ……おや、ブーツの紐がほどけてしまった。ちょっと待ってて」
 のんびりとしゃがみ込んでいる。
 奴がもたもたしている間も俺はルド婆の口から繰り出される容赦のない悪口雑言にさらされ続けた。

 昔はあんなんじゃなかったんだがなぁ、と帰り道の途中でこぼす。
「事故で最愛の一人息子を亡くしてから、すっかり頭がおかしくなっちまった」
 でもあれは間違いなく事故だったんだよ、とハイライ。
「誰のせいでもない。村を恨むなんて、筋違いもいいところさ。ましてや他人の子を殺しても良いなんて法は、古今東西のどこにもない」
「……やっぱりあの婆さん、怪しいよな。何もやましいことがないのなら、ああまでムキになったりはしないもんな」
 奴からの返事はなかった。
 二人で押し黙ったまま、森の中をとぼとぼと歩く。
 唐突にハイライが口を開いた。
「それにしても、恐ろしいモンスターだね」
 ああ、と俯いたまま俺も同意。
「まったくだ。素早い上に力も強い。外皮はさほど丈夫じゃないそうだが、アラクネの中には毒を霧状にして吐きかけてくる奴もいるっていうから油断はできない。正直、一対一では戦いたくない相手だぜ。考えただけでも身震いがする」
 くすくす、という笑い声がした。
「あん?」
「違うよ、クラウ。僕が言っているのは、スライムのことさ」
 はぁ? スライム?
 俺は小首を傾げる。あんなものを恐れる奴がいるか?
 スライムというのはゼリーのような、半透明で軟泥状の、というよりは液状に近いモンスターだ。洞窟の奥などの多湿な環境でなければ生きてゆくことができない。
 確かに雨期などに大発生されると厄介な時もある。洞窟の奥から這い出てきて家畜などを襲うことがあるからだ。それゆえ俺たちも定期的に見回りをし、大きな固体は除去するように務めていて、今日もここに来る途中で洞窟を一つチェックしてきた。もっとも、先月に大々的な駆除を行ったばかりだったので、拳大ほどの小さな奴が数匹いただけだったが。
 今度は俺が鼻で笑う番だ。
「スライムゥ~? あんなもんのどこが恐ろしいんだ? ハハッ!」
「でも切っても刺しても叩きつぶしても死なないんだよ? 獲物を体内に取り込んで、酸でゆっくりと溶かしながら食らうんだ」
「だが乾燥と高温には笑えるほど弱い。松明の一本もあれば、子供だって勝てるんだ。火がある限りは恐くも何ともないさ」
 僕らはね、とハイライが目を細めた。
「でも火を使えない他のモンスター、そうだな、例えばアラクネとかはどうだろう? あの巨大な蜘蛛も昼間は暗くてじめじめした環境に潜むことを好む。両者がかち合うこともあるんじゃないだろうか」
 スライムが一メートル進む間に、奴さんは隣の国までだって逃げてっちまうだろうさ、と笑いながら俺。
「何せスライムはナメクジにだって追いつけるかどうかって速さだ。アラクネにとっても脅威でも何でもない。戦いになんかならないさ。化物同士で殺し合ってくれれば、こっちは世話なしで助かるんだが、ま、そう上手くはいかないってことだな」
「確かに自然界ではね」
 あん? いちいち突っかかる奴だ。俺はカチンとくる。いったい何について喋ってる?
 だが奴は相変わらず涼しい笑顔のままだった。
「もし誰かがアラクネを匿っているのだとして、あの狂暴なモンスターを野放しにしておけるとは思えない。当然、金網か何かを使って普段はどこかに閉じこめておくはずだ。それはできるだけ暗くて湿った場所の方がいい。地下室なんかが最適だろうね」
 にっこりと微笑んだ。
「そのような閉鎖された空間にもしスライムが侵入してきたら、アラクネは逃げられない。そして相手は噛みつこうが切り裂こうが絶対に死なないんだ。スライムにはそもそも神経がないから、麻痺毒も効かないしね。アラクネはいずれ取り込まれて、ゆっくり溶かされてゆくしかないんだよ。いったい、どれほどの恐怖を味わうことになるんだろうねぇ。それを想像すると、さすがにちょっとだけ同情的になってしまうよ」
 俺は足を止める。
 この時になってやっと、奴の腰で揺れている金属製の水筒の、蓋が外れていることに気づいた。
「そう言えば、お前……来る途中で研究用とか言って、スライムを一匹、採取してたよな。あれ、どうした?」
 ん? おや、空になってる、と奴はわざとらしく驚いてみせた。
「ブーツの紐を結ぼうとしてしゃがんだ時にでも、誤ってこぼしてしまったのかな?」
 悪びれた様子もない。再び歩き始めた。
 俺はやっと理解した。村長が、こいつを差し向けた訳を。
「……それじゃ、本当にルド婆が?」
 ハイライがこちらに振り返る。生まれて初めて見る、奴の鋭い視線だった。
「クラウ、あの年頃の女性が酢漬けを作り損なうことがあるなんて、本気で信じてるのかい?」
 背中に氷柱を突っ込まれた気分。
 俺は思わず「お前、恐ろしい奴だな」とこぼしてしまう。
 奴はきょとん、と不思議そうな顔をした。
「恐ろしい? 僕が? とんでもない。僕は優しい男だよ。スライムの子供一匹、殺せやしなかった。……もっとも」ここでハイライは口の端を大きく歪めた。「明日の今頃は、もう子供とは言えない大きさになってるだろうけどね」

片理誠プロフィール


片理誠既刊
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『Type:STEELY タイプ・スティーリィ (下)』