(PDFバージョン:iimerosu_yosikawaryoutarou)
心の赴くままに諸々のテーマを書き散らしては途中で放り投げる。
という投げっぱなしジャーマンなこのコラムは実は確信犯的なスタイルで、あえて途中で終わることで、読者の皆様に続きはどうなるのだろうといつまでもワクワクしていただこう、なんなら自由に続きを考えていただければという、あれです、小泉八雲が『怪談』でやってたテクニックですね、そして昨今の若者において著しく衰退しているという「想像力」を賦活し、ひいては日本SFの興隆に資するという深謀遠慮? そう深謀遠慮(考えながら書くなよ)にもとづく遠大な計画の第一歩なのですよ!
という屁理屈をヘンリさんに「ダメです」と一刀両断されて今これ書いてます。
しかしあの続きは、続きはどうなったの! という読者の要望でもあれば別ですが特になんもないので、やはりこのあらかじめ失われた未完成コラムは続くのであった。
学生時代、国文科に籍を置くXという友人がいた。
Xというのはもちろんイニシャルではない。ていうかイニシャルがXってフランシスコ・ザビエルかプロフェッサーX(本名チャールズ・エグゼビア。これもザビエルの英語読みですな)くらいしか思いつかないんだが。まあそれはいいんだ。
このXは現在、塾で小中学生に国語を教えている。
で、ある日ひさしぶりにXと電話で話していたら、こんな話が出た。
「今の子供は『走れメロス』に感動しないんだよ。それより、なんでメロスはこんなにすぐキレるのって」
まあ冒頭から「よその国へ来たら国王が悪い奴だったので即座に刃物持って王宮に突撃」という純粋すぎる主人公(しかも失敗する)は今どき感情移入しにくいのだろう。これじゃキレる若者というより七〇年代の番長マンガだ。
御存知の通り、その後メロスは「期日までに帰らなかったら親友を処刑していい」という約束でマブダチのセリヌンティウスを人質におき、一旦故郷へ帰りまたUターン、その途上で国王の放った刺客をぶちのめしたりという『バトルランナー』ばりの大活躍の末に見事約束を果たし王様は改心し大団円となる。このへんはスリリングでアクションもあって今読んでもけっこう面白いと思うんだが、この二人の熱すぎる友情にも引いてしまうらしい。
しかし先生が
「そうですね。みんなはすぐキレて凶器を持って公共建築物に突撃したり、親友だからといって簡単に保証人になったりしてはいけませんよ」
と教えるわけにはいかない。
近代の教育制度に国語がある理由の一つは、国民の感性の同質性を涵養するため、ひいては共同体の精神的基礎を作ることなのだ。ということはドキュメンタリーなんかで戦前の国語教科書を見たことがある人ならなんとなくわかるんじゃなかろうか。でなければ西洋の実学吸収に必死になっていた明治政府が国語なんぞ教えるわけがない。
で、戦後日本の教育では『走れメロス』を読んだらまずは指導要綱の通りに友情の美しさなり正義の勝利なりを感じてるよう誘導せねばならないのである。まあ現実世界が物語ほど単純ではないということは大人になればイヤというほど知るのだが、後にパンクになろうがアナーキストになろうが、まず型を身につけるのは大事なことで、そうした型をまずは素直に身に着けて、しかるのち各自がカスタマイズしていくのである。
「で、先生はそういう時どう教えるの?」
「まず生徒たちに自分で考えさせた。そしたらある子が、先生メロスのイニシャルはMですかと」
「まあ、そうだね」
「セリヌンティウスはSですかと」
「……あ」
「つまり、あれはそういう趣味のゲイカップルの、そういうプレイなのではないかと」
「すると最後にメロスがなぜか街中で全裸になるのは!」
「趣味なんだろうなあ」
「じゃあ最後に改心した王様が『わしも仲間に入れてくれぬか』というのは!」
「ハードコアだよね」
「わっはっはっは!」
思わず脳内にヤマジュン版コミカライズ『走れメロス』が展開しました。
しかしいつまでも笑ってはいられなかった。
「先入観にとらわれない子供の自由な想像力」なんて話をよく聞くけど、大人が勝手に思い描く子供らしさの規範を軽々と逸脱する、この想像力の自由さ。これこそ作家が、ことにSF作家こそが持っていなければならない心構えではなかっただろうか。常識を揺るがし、硬直した思考をぶち壊して、新鮮な風が通る風穴を開ける。それがSFの、センス・オブ・ワンダーの力だと思っていた。だからこそぼくは処女作に天下の無法者ビリー・ザ・キッドをもじった名をつけたのではなかったか。
それに比べて今のぼくはどうだ! ぼくはまだ子供の魂を、ナチュラルボーン・アナーキストの魂を持ち続けているだろうか!
「ツンデレの元祖って菊池寛の『恩讐の彼方に』だと思うんだけどどうだろう」
「なんで対抗する」
仕事しよう。
吉川良太郎既刊
『解剖医ハンター 3』