(PDFバージョン:juice_yamagutiyuu)
遙か昔、僕たち人類が未だ地球という惑星だけに住んでいたころ、そして、同じ惑星の中でも、人類同士がまだ互いに知り合っていなかった頃、『欧州』という場所では、ビール醸造器をかついで旅をして、旅先でビールを造っては売っている行商人がいたという。なら、ワインの行商人はいたのだろうか? それが発酵していなければジュースだろうか? 僕はとりとめのないことを考える。僕、という存在を形作っている遺伝子という形而下の情報が、いつものとおり吹き荒れる概念空間の猛攻に犯されていないことを無意識に確認しつつ。……概念の使徒たちは、僕等、形而下の輩(ともがら)たちをあざ笑っているのだろうか? それとも、彼等を阻む時空軍の攻撃に息をひそめているのだろうか? 僕には、それを意識する権利はない。ただ、この宇宙を護る時空軍の働きに、いくばくかの嫉妬と後悔、そして羨望を以て思いはせるだけだ。そして、先輩の選択に尽きせぬ疑問を抱くだけだ。
「……ケン、どうしたの? 悩んだみたいな顔しちゃって?」
僕はなぜあなたが悩まないのか不思議で仕方ないですよ、先輩。心の中ではそう思いつつ、僕は表面上は慇懃な回答を返す。
「悩んでなどいませんよ。ご心配ありがとうございます」
先輩――アレクサンドリーナ・レヴィ。通称リーナ。年齢は一八歳。時空軍士官学校をトップの成績で卒業した、僕の誇るべき先輩、……のはずだが。なぜ彼女が落ちこぼれの僕と共に、こんな行商船で宇宙をほっつきあるく気になったのか、僕にはよく分からない。それだけでなく、なぜ彼女がわざわざ概念の使徒らに勝負を挑み、彼等の概念情報を液体の形にして売り歩くような、法律スレスレ……というか完全に違法な活動に手を染めているのかも。概念空間は広大だ。そこには、僕等のような肉体に縛られた者たちが持ち得ない多くの形而上の価値がある。だが、それだからこそ、時空軍と光円錐政府は、僕等に彼等との接触を禁じ、彼等からの接触を封じるために戦っているのだ。我々の、「ニンゲン」という形がかけがえのないものだと信じるが故に。自らの肉体に、ニンゲンならざる概念を取り込み、ニンゲンという形を危険に晒してまで。
ああ。それなのに。先輩は何がしたいのだろう? 違法な活動による儲け? ……なぜ、時空軍の将校に容易になれたこの人が……。
慇懃な僕の回答に、リーナ先輩はちょっと不安そうな顔をした。
「もしかして、気分が悪い? ほら、あたしの汁、飲む?」
おかしな所を省略しないでください。『あたし(が概念の使徒たちと戦って奪い取った形而上情報を摂取可能なように液状にした、そ)の汁』でしょ、それは。それにしても、なぜ先輩はいつも飲ませたがるのか。僕には要りませんよ。そんなの。いくら訳の分からない理由で時空軍士官学校を追放されて、生活に困って惑星軌道施設でホームレス寸前になって先輩に拾われたからってなんでそんな汁を飲まなきゃいけないんですか。……僕には、これでも誇りがあるんだ。
「いえ、気分がすぐれないだけです。それに、その汁は飲まないって、いつも言ってるでしょう」
先輩は不服そうに、肩を竦めた。
「頑固なんだから。でも、いいわ。ケンの分はとっとくから飲みたいときはいつでも言ってね」
「本当に要りませんよ」
先輩はぐっと僕に身を近づけた。額と額が接触するほどに。
「本当に……?」
まるで、僕が病人で薬を要らないと言ってるみたいに。
「要りませんって……!」
僕は少し気丈にはねつけた。
先輩は、はあ、とため息をつき、踵を返して操縦室へと消えていった。
僕は自分が嫌になって、あてがわれた寝室でふて寝するように身を丸めて横になる。もしかして、先輩は究極のSなのか。わけもわからず士官学校を追放された僕を、更にこんな違法な汁で貶めようとしているのか。そんなひどい運命に墜とされるような何を、僕はしたというのか。
(……理由は言えない。今すぐ荷物をまとめて、出て行き給え)
あの日の教官の顔が脳裏に浮かぶ。いつもの謹厳な表情のままの。
(そんな! なぜです!)
成績はよくはなかったが、追放されるほど悪かったわけじゃない。それに、成績が悪くて追放なら、ちゃんとそう言うはずだ。それが……何の理由も無く! 理由も無く!!
僕はあの日の屈辱を思い出して、涙を流した。質量銀行の口座も閉鎖され、一テラトンも引き出せなかった。当然、ワームホール通信は使えず、実家にも連絡ができない。あてどなくふらふらと、惑星軌道施設のふきだまりのような場所にうずくまっていた。全てに絶望して。
(ケン。みつけた)
……たぶん、ホームレス生活を始めてから三日ぐらいだろうか。先輩がそこに立っていた。真新しい時空軍少尉の制服……それが少し汚れた格好で。
(先輩……何をしてるんです……?)
(ケンを探しに来たのよ)
(軍はどうしたんです?)
先輩はぺろりと舌を出した。
(辞めちゃった。あたしには窮屈だったみたい。概念の使徒との戦いはおもしろいけど、組織は窮屈なんだもん。だから、あたし一人で続けることにした。使徒との戦いを)
(そんな……違法です)
(だからこそ、一般人の人質がいるんでしょうが。さあ乗った乗った)
そのままひきずられ、僕は先輩の戦闘艦に乗せられた……。あれから、一ヵ月。先輩は「人質」の僕を丁重に扱ってくれた。ことあるごとに戦利品であり商品でもある「汁」を飲ませようとする以外は、そこそこの待遇だったと思う。けど、こんなの、生きてることにならない。僕は、……こんな……。絶望が僕の心を覆っていく。無意識に僕の形而下の肉体を襲う使徒の攻撃に、身を任せてしまいそうになる。僕なんて、……僕というゲシュタルトなんて、必要ないんだ。この世界に、必要……ないんだ。
「ケン!」
僕は目眩と息苦しさの中で、嵐の無意識の大海から少しだけ意識を浮き上がらせる。
「ケン! とりこまれちゃダメ! あっちに行っちゃダメ! あなたはこっちの存在なの! たとえどんな出自であっても! もうこっちの存在で、あたしの大切なケンなんだから!」
「先……輩……」
僕は先輩が何を言っているのか分からず、けれど僕の具象の存在を消してしまいたいというタナトスにあらがえず、先輩の声は遠くなっていく。
「ケン!」
先輩は強く僕を呼んだ。そして、僕の意識がふわりと浮上した刹那。先輩は「汁」を口に含み、僕に口づけした。
その瞬間、今まで僕の身に溢れていたタナトスがいっせいに肉体からひいていき、僕は、ベッドに横たえられ、あせぐっしょりで、先輩に覆い被さられている自分の存在を見出した。
「リーナ……先……輩……?」
先輩は泣きそうな顔のまま、微笑んだ。
「ごめん……ね……」
「飲みたくないもの、飲ませちゃったね……」
疑問符を更に浮かべる僕に、先輩は、ベッドに座って、僕の頬に手を当てた。
「ケン。落ち着いて聞いて。あなたは、元々、人間じゃないの」
僕は、その言葉を、なぜか落ち着いた精神のまま、聞いた。さっき気付いた。概念の使徒が妙に懐かしく感じられたことに。今まで、僕の肉体に、ずっと覚えていた違和感の理由に。
「そう、概念の使徒だったのよ。形而下の、あたしたちの具象の宇宙にあこがれた、変わり種のね……。あなたは全てを忘れてこの宇宙に肉体をまとって現れた。その出自が明らかになったから、追放されたのよ。理由を教えなかったのも、絶望したあなたがその場で概念の使徒に変化するのを避けるため」
先輩は言って、やわらかく微笑んだ。
「間に合ってよかった。彼等の概念を抽出すれば、ワクチンができることは分かってた。それをあなたに適用すれば、こっちに安定して肉体が保てることも。でも、どうしても言い出せなかった。本当のことを言ったら、あなたがどうなるか分からなくて。嫌がるあなたに、汁を無理矢理飲ませる勇気も無くて」
リーナ先輩は、惚けたような顔をしているであろう、僕に再び微笑みかけた。
「でも、良かったでしょ、こっちに残って」
僕は、何と答えて良いか分からなかった。ただ、僕の両目から、暖かい液体が溢れているのだけが、分かった。
「ね。またあたしの汁、飲んでくれる?」
先輩はぐっと顔を近づけて聞く。
「こっちにずっと残ってくれるって、約束してくれる?」
感情が高ぶりすぎて、声にはならなかった。だが、僕はこれからも、この物好きな旅人の先輩の汁を飲みたいと思った。
【解説】
今から一世紀以上先の未来の、とあるカップルの挿話。技術的特異点を突破してから少なくとも数十年が経過している世界の物語。
現在で言う、多次元的多元宇宙論モデルが実現象をよく説明し得ると証明された世界であり、現在人類と呼ばれている知的種族は、現宇宙を構成するパラメータ(光速度、プランク定数、重力定数など)を維持し、従って現在の形而下の物理の枠組みを維持して生きていこうとする一派(形而下の輩)と、宇宙の真空を相転移させてそれらの枠組みを壊し、取り得る宇宙のランドスケープの中で、最低限の論理演算の構成要素を実現し得る程度の枠組みを選び、その時空(概念時空)の上で走らせる概念のみで生きていこうとする一派(概念の使徒)に分離し、抗争を繰り返している。
概念の使徒は現宇宙の余次元方向の諸宇宙を概念時空に変貌させ、自らの領土として確保、そこから現宇宙を攻め立てている。一方、形而下の輩は、「時空軍」と呼ばれる、重力子を介した攻撃と防御に特化した軍隊を組織、現宇宙を防衛している。
特異点後の世界において尚、形而下の輩が「士官学校」「法律」「銀行」などの古い概念に耽溺しているのは、彼等の特徴たる肉体の維持(=現宇宙を構成するパラメータの維持)という拘りと同じく、進歩――演算力の増大とそれによる種と個体の生存確率の維持拡大――という観点から見れば、無意味な行為である。光円錐政府(形而下の輩の統治機構)は、種と個体を、それらを構成するパターン情報ではなくその構成要素そのものであると強引に定義することにより、そうした批判を抑圧している。
山口優既刊
『シンギュラリティ・コンクェスト
女神の誓約(ちかひ)』