(PDFバージョン:kagetoyamito_okawadaakira)
男の額には決死の汗がにじんでいた。
まるで何かに追われるかのように、必死で走ってゆく。
何のために?
男は沈黙の内に答える。理由などは必要ないのだと。
ただひたすら、男は駆けて行く。さっそうと、飛ぶが如く。
その速度は音速を越え、今や光をも凌駕しようとしている。
全身全霊の力を振り絞り、彼は、走り続けた。
それは、まさに、永劫の時の呪縛を解き放つ唯一の光明のようであった。
ああ、人の虚しさよ。
懸命に、懸命に、それでも彼は走り続けている。
だが、彼の体はもはや限界に達していた。彼の体を蝕む毒は、すでに彼の全身にまわろうとしていた。
とうとう、彼は寒風吹きすさぶ荒野の中、倒れた。
くそっ、もうこれまでか……。
神よ、どうか我に御慈悲を……。男の目から一筋の涙がこぼれた。
と、彼に、なぜだか新しい闘志が湧いてきた。
こんな所で負けてどうする。
お前の実力はそんなものだったのか!
「違う!」彼は叫んだ。
「俺は、俺は……」かすれて声にならない。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
だが、今までの彼とは何かが違う。
そう、今や彼は数多の苦難を乗り越えた王者の風格を身に付けていた。
雷鳴が轟く中、彼は吠えた。
「嵐よ、来るなら来い! 何人たりとも俺のゆくてを阻むことはできん!」
そして、彼は再び走り始めた。
そんな彼をあざ笑うかのように、風はますます強くなっていく。
暗雲が辺りを包み、悪魔が彼の耳元で誘惑の言葉を囁く。
だが、もう彼はくじけなかった。
彼の鉄の意志は誰も打ち破ることができなかった。
目的の場所が見えてきたのだ。
あそこにさえたどりつければ、今までの苦労が全て報われる……。
だが、またもや運命は彼に対して大きな試練を与えたのだった。
突然、神の槍、グングニルで腹を突かれたかのような激痛がはしった。
毒は未だ拭い去られていなかったようだ。
彼は死を覚悟した。
全身の気力が否応なしに抜けてゆく。
だめだ!
ここであきらめては、いったい何のために俺はここまで戦いぬいてきたというのだ。
ここで倒れるというのが、たとえ神の御意志といえども、それに従うわけにはいかぬのだ!
かの偉大なるメロスを見よ、彼は、友情のために自らの命も顧みずに走った。
俺がこんなところで負けてどうする!
彼は必死で自分を叱咤し、立ち上がろうとした。
だが、体がいうことを聞かない。
「おお、何ということだ、呪わしき我が体よ! ああ、天よ、地よ、精霊よ、どうか、どうか、このベルジュ・ヴァンズの体に、今一度、今一度活力を与えたまえ!」
ベルジュは雄叫びをあげた。その声は、天地に多大な鳴動を与えるかのようであった。
いったいどこにそんな力が残されていたというのだ……。
驚くべきことに、彼は立ち上がることができた。
奇跡だ、奇跡がついに起きたのだ!
暗雲の間から一筋の光が差し込んだ。
神の御加護だ!
そして、彼は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、一歩一歩、目的地へと近づいていった。
目の前に、建物がそびえ立っている。
とうとう、ここまでたどり着いたのだ!
彼は、感動のあまり慟哭した。
思えば長い道程であった。
だが、ついにベルジュは勝ったのだ。
今、彼は勝利者だった。そして、彼はその建物の中へ入っていき、静かなる余韻を噛み締めた。
あとに残るのは、静かな、小川のせせらぎのような水の音。
そして、すっきりと晴れわたった彼の笑顔だけであった。
(2XXX年某月某日、市内の公園の公衆便所より実況生中継)
初出「TILL」(第2期創刊号、新風舎、1998年10月)
ショートショート・コンテスト「短いのがお好き?」入選作品(選者:藤井青銅)
※再掲にあたって、一部の誤記を修正した。
岡和田晃 協力作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』