「方舟」井上剛

(PDFバージョン:hakobune_inouetuyosi
 吹き荒ぶ嵐を避けて、彼は方舟の中に閉じこもった。〈ノアの方舟〉の名を冠されたその巨大な建造物は、彼の周囲に生じた大洪水から身を守るために十分な強度を有していた。
 嵐が四十日間に及んだ時、彼は〈方舟〉の小部屋の窓から一羽の鳩――ではなく、九官鳥を放った。
 ほどなく九官鳥は彼のもとへ戻ってきた。そして、次のような会話を諳んじた。
「談話取らせてよ、談話! 中にいるのは分かってんだからさあ」
「国民には知る権利があるんだよ! 隠し立てするとためにならないよ!」
「そのようなお客様はいらっしゃいませんし、仮にいらっしゃっても、ご家族以外の面会はお断りしております。お引き取りください」
「お客様、だってさ。ハハ、笑っちゃうよな」
 彼は、まだ洪水がまったく引いていないことを知った。
 それから幾日か経って、彼は再び九官鳥を放ってみた。戻ってきた九官鳥は、今度は次のような会話を諳んじた。
「特別室の患者さんって、仮病でしょ、結局」
「しっ! 外に聞こえたらどうするのよ。あと、ウチでは患者じゃなくて、『お客様』よ」
「平気よ、外に張りついてた記者さんとかも減ってきたし。でも、なんでウチって企業の偉い人とかばっかり入ってくんのかしら」
「経営母体の宗教法人の方針で、情報保護や守秘義務の遵守がガチガチだから、安心なのよ。ああいう後ろ暗い人にとっては」
「ふうん。汚職とか賄賂とか、そういうの?」
「そうね。ま、今の政局が収まるまでの辛抱だって先生が言ってたから、我慢しましょ」
 彼は、洪水がやや引いてきたことを知った。
 およそ七十五日が経った頃、彼はまた九官鳥を放ってみた。戻ってきた九官鳥は、もはや脈絡のある会話を諳んじることはなかった。
 彼は洪水が引いたことを知り、ひっそりと〈ノアの方舟〉を出た。

井上剛プロフィール


井上剛既刊
『死なないで』