「マーズ・サイクラーの帰還」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:maazusaikuraashoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版の翻訳監修者である朱鷺田祐介の手になる短篇小説第2弾「マーズ・サイクラーの帰還」をお贈りする。
 今回の舞台は、なんと巨大な宇宙船。
 『エクリプス・フェイズ』は魂(エゴ)を遠隔地に投射し現地で義体(モーフ)を調達するエゴキャスティングという独特の移動手段が広まっているが、一方で、昔ながらの宇宙船を使って旅を行なう者たちも根強く存在するのだ。
 火星周回船(マーズ・サイクラー)「美味なる沈黙」号のエキゾチックな描写と、そこで秘密結社ファイアウォールの一員がいかなる働きをするのか、とくと注視されたい。

 朱鷺田祐介は日本を代表するゲームデザイナー/ライターの一人として知られるが、『超古代文明』、『酒の伝説』といった設定資料本の執筆も手がけている。本作はそうした社会史的な仕事のセンスがゲームの文脈で発揮された逸品と読むこともできるだろう。(岡和田晃)


(PDFバージョン:maazusaikuraa_tokitayuusuke
 十年間、ずっと考えていたことがある。
 あの狂気、あの混乱、そして、あの閃光。
 ニュー・ムンバイを忘れない。絶対に。

 宇宙船の船倉の底にもモスクがある。
 それは地球が滅びた後でさえ、神が人々の心の中に生き続けている証だ。
 メッカの時刻に合わせ、礼拝を知らせる声が響き、船倉内のムスリム商人たちがばたばたと店を閉ざす。礼拝の時間には「働いてはいけない」。そんな戒律すら生きている。
「昼の礼拝の時間か」
 アリシア・スミスは、船倉の壁に背をもたせかけたまま、そう呟いて、支援AIがメッシュに流れてくるクルアーンの一節の引用を始めるのを精神のちょっとしたニュアンスで押し留めた。説教を聞きたい訳じゃない。

 彼女自身はムスリムではないが、礼拝の声そのものは、ありがたいものだと思っていた。地球と火星を結ぶ、五ヶ月もの長い航海の間、あの声のおかげで、一日の周期がずれずに済んでいるからだ。
「ちょっと、健康的スギるヨ」
と、相棒のドンが煙のでない代用葉巻を口に加えたまま、つぶやき、背中の毛をかいた。
 ドンは半知性化されたマントヒヒ(バブーン)だ。完全に知性化された従兄弟たち、チンパンジーやゴリラ、オランウータンとは異なり、彼は人間レベルまでは至っていないが、飼い主と人語で会話し、人間の習慣や文化の一端を理解できる。
「お前が不健康なんだ」とアリシア。
 ドンは、火星の荒野で喫煙を覚えた。
 テラフォーミングが進んでいる火星では、温室ガスが足りないとかで、二酸化炭素を発するような行為、例えば、喫煙などが奨励されている。

#知恵とは悪徳なり。

 だが、宇宙船の内部では話が違う。
 限られた生命維持システムへの負荷を減らすため、喫煙は禁止され、ドンは煙の出ない代用葉巻で我慢せざるを得ない。
「なんで、宇宙船ナノサ?」とドンが愚痴る。「アリシアは火星の保安官だろ?」
 そう、アリシア・スミスはタルシス・リーグから、火星の荒野の法執行を委託されたレンジャー隊員、いわゆる「赤い荒野の保安官」である。こんな宇宙船の船倉の底でじっとしているのは、似合わない話だ。
「タルシス・リーグの仕事だ」と、アリシアは傍らのレイルガン・ライフルを取り上げて立ち上がる。「地球=火星周回船(マーズ・サイクラー)の保安要員が足りないから、お前と一緒に乗っていけとさ」
「宇宙は、オイラの荒野じゃない」
 ドンがぶつくさ言いながら、アリシアの後に続く。
 分かっている。こいつは左遷か、誰かの嫌がらせに違いない。
 さもなくば、ジャスパーの差金かもしれないが、それは考えないことにした。とりあえず、今の義体(マーシャル・アルピナー/火星高地仕様)は金がかかるし、定期的なメンテナンスが必要だ。仕事があって、維持費が出るならOKだ。こいつから追い出されて、安っぽいケース型機械外殻(ロボット・シェル)に押し込められるのはまっぴらだ。
 支援AI(ミューズ)がより効率的で、この船の中で手に入る生体義体(バイオモーフ)の値段リストを視界の片隅に置いたが、無視した。ミューズは微妙な感情の機微を感じ取り、リストを潜在記憶野に移動し、検索機能を一段階落とした。
 入れ替わりに、潜在意識の底から、「ファイアウォール」の言葉が浮かび上がる。

心はソフトウェア。
 プログラムせよ。
肉体は入れ物に過ぎない。
 交換せよ。
死は単なる病気だ。
 治療せよ。
絶滅の危機が近付いている。
 立ち向かえ。

 魂(エゴ)がデジタル・コピーでき、人類は身体(モーフ)を加工した義体(モーフ)として乗り換えて行くことのできるようになって百年近くが経過している。金さえあれば、人類は無限に生きられる。最低限度の食料や空気、生活物資ならば、国家や宇宙居住区が保有するコルヌコピア・マシンが作ってくれる。「豊穣の角」の名前で呼ばれるナノテク万能合成装置は社会の最低ラインを完全にカバーする。さらに、機械義体に乗り換えれば、電力さえあれば、食事も空気も睡眠もいらない。肉体を捨てれば、情報体(インフォモーフ)として、通信ネットワーク(メッシュ)の中でバーチャル・ライフを送ることもできる。
「だが、金がなければ、不自由なだけさ」

 ハッチを開けて小部屋を出ると、広大な船倉の空間が広がる。
 高さ十メートル余り、幅三十メートル以上、奥行き数百メートルはある巨大な船倉は、かつて、火星移民船として巨大なコンテナを腹一杯詰め込んできた。
 今、そこにあるのは雑踏だ。
 中国人、ムスリム、白人、黒人、あるいは知性化されたゴリラやオランウータンが右往左往している。義体は安くて生命維持が楽な機械外殻(ロボット・シェル)が多いが、生まれたままの生体義体(バイオモーフ)も多い。行き交う言葉も雑多だ。響き渡る礼拝呼びかけはアラビア語だが、広東語、北京語、呉越語、スペイン語、スワヒリ語、英語、韓国語が入り交じる。
 マーズ・サイクラー(火星周回船)。
 地球と火星の間の重力井戸を利用し、ほぼ推進剤を使わずに巡回航路を周回する超巨大輸送船である。99%以上の運行を重力に依存するため、周回航路を一周するのに2年間、短い方の航路を使っても、火星=地球間の移動に5ヶ月を要するものの、推進剤を消費しないため、大型物資や大量の移民を運ぶために欠かせない存在であった。この計画を積極的に推進した中国政府は、火星移民船を多数、マーズ・サイクラーとして投入した。
 この「美味なる沈默」号もそんな中国船のひとつだったが、〈大破壊〉で、地球と一緒に中国が滅びたもので、雑多な難民を乗せた難民船になっている。乗客の半分が金のない旅行者で、あとの半分はこの船を家にしている屑(スカム)、まあ、宇宙の流れ者たちだ。
 それもしかたない。
 魂(エゴ)がデジタル化され、通信による転送(エゴキャスティング)が可能な今、惑星間の移動に宇宙船を使うなんて、至極、非効率で馬鹿馬鹿しいことだ。エゴキャスティングなら光速で移動し、現地でレンタルした義体に入って仕事を始めるのに半日と掛からないのに、五ヶ月かけて移動するのは、おそらく、「金がないから」か、そうしないだけの理由、例えば、宗教上の教義でもあるからとしか言えない。魂の不変性、一回性にこだわるクリスチャンだって、大脳皮質装置(スタック)を入れて、バックアップ保険に入るご時世である。

「やーはー。アリス!」
 部屋から出た途端に、近くの床に据えられたテーブルで、合成ビール(アルコール度数7度)を飲んでいたホアナ・カタルーニャがメッシュ経由でメッセージを飛ばしてきた。ホアナは、屑(スカム)だが、マシな方で、銃の腕もいいので、「美味なる沈默」号の保安官助手に雇われている。

「元気にファックしているかい?」
 彼女の弱点は、至極、下品で、いつでも発情していることだ。それも、愛の形にこだわらない。魂(エゴ)も義体(モーフ)も女性だが、性指向はオールOK、強いて言えば、ヴァギナで男をくわえこむ方がいい、というあたり。
 安物で今にもぶっ壊れそうなケース型機械外殻とわざわざ、アクセス・ジャックで優先接続しているのは、礼拝時間にも関わらず、仮想現実(VR)でファック中かもしれない。
「ファックもしているが、取り調べ中でもある」
 アリスの顔を読んだのか、ホアナは報告する。
 強制的に「アクティブ・モード」へ移行させられたケースのPAN(パーソナル・エリア・ネットワーク)によれば、こいつは、犯罪シンジケート「ナイト・カルテル」の末端にすがりついた、チンケな虫だ。
 被疑者とファックするなよ、VRだろうが、パワハラ扱いされるぞ。
「大丈夫」
 とホアナは、笑って銃を取り上げ、ケースの頭を吹き飛ばす。
 狙いは小脳の下。大脳皮質記録装置(スタック)だ。
「これでこいつはもう、アタシのことをしゃべれない」
「やりすぎだ」
と、アリスはケースの安い機械外殻をホアナの隣の椅子から蹴り落とす。
「こいつのバックアップは?」
「メイン・サーバーよ」
 火星周回船は、巨大な街も同様だ。
 魂(エゴ)を記録し、死に備えるエゴブリッジ・ステーションもある。たいていの乗客は、2、3ヶ月に一度、魂(エゴ)のバックアップを取り、不測の事態に備える。
 そのおかげで、昨今、命の値段がやたら軽い。
 誰かが死んでも、もとの魂(エゴ)が残っているから、義体を用意する金さえあればいつか復活できる。たいていはバックアップ保険に入っているものだ。まあ、買えないなら、到着まで、データストアの中で眠らせるか、情報体(インフォモーフ)として、デジタルな奴隷労働についてもらうかだ。メッシュの中でテータ・ファイルを数える簡単なお仕事さ。
 命の安さは、ここにいる誰もが分かっている。
 ホアナの銃声に一瞬、みんなが静まり返ったが、銃声の主を確認し、その隣にアリシアとドンが姿を表すと、みんな納得したのか、喧騒がすぐに戻ってきた。
 保安官助手が犯罪者をVRで拷問した挙句に射殺するなんて、この船の中じゃ日常茶飯事だ。
 ケースの残骸は、近くにいた知性化タコのジャンク屋「光悦」がすばやく引っ張っていった。床に落ちたパーツも、光悦の修理ドローンがかすめていった。
「光悦、何か面白いデータが出たら、こっちへバックしろ!」とアリシアは巨大なマダコの触手を踏んづけた。タコは確かに高い知性をもっていたが、知性化されたら、人間より狡猾で宇宙に適応した生き物になってしまった。
「毎度あり~」
 こいつらがなぜ、日本語を使うのかはよく分からないが、キリスト教やイスラム教では悪魔の魚扱いだから、触手プレイ大好きな変態日本人にシンパシーを感じるのだろう、というのがホアナの意見だ。
「で、そいつが何をした?」とアリシア。
「大規模テロの準備」とホアナ。
「この船ごと自爆でもしようっていうのか?」
「だいたい、間違いない」
「おいおい、後三日で地球軌道だぞ」
「ブリッジへのゲートウェイをハックした馬鹿がいた」
「OK、アラートを出してから、そいつをぶち殺そう。デジタル禁錮刑で、そいつの肉体はレンタル屋送りだ」
「そうもいかないよ」とホアナ。「だって、そいつ、導師(イマーム)だぜ?」
 船倉の中には、今もモスクから説教の声が響いている。今、この船の中に導師の信徒が何人いるかなんて数えたくもない。
「あー、うー」とアリスは、まるでナメクジ(支援AIの支援を受けていないぼんくら)みたいな声を出した。「そいつ、本物?」
「少なくとも4日前までは」
「OK」とアリスは答えて、空中に手を振る。「バグ、バグ」
 床の隙間からざっと機械虫の群れが湧いてでてきた。
「バグ21%分」
 機械虫の群れがメッシュ通信で挨拶する。スワームノイド=群体義体の上にクラウド・コンピューティングされたハッカー「虫(バグ)」だ。21%というのは、群体義体の一部がここに姿を現したということだ。
 いや、ハッカーにしちゃあ、前向きでアウトドア指向だとは想うね。
「イマームをハックしろ」
 アリシアの声に、虫たちはOKマークを作った後、また、床の隙間に消えていった。

 あとは簡単な話だった。
 アリシアにも、導師への礼儀ぐらいあった。
 何しろ、礼拝が終わるまでは待ったのだから。

 礼拝が終了した途端、導師はスーフィー(イスラム教神秘主義者)の回転円舞を始めた上、礼拝場のみんなに向かって、「罪深き火星周回船をハイジャックして、月のエラトステネス・クレーターに特攻しましょう」と叫び始めた。
 イスラムとは「平和」と言う意味だ。本物のムスリムは戦いを嫌う。自分たちを守るために、戦うことを厭わないだけだ。まあ、隣人愛を叫ぶキリスト教にも同じ理屈があるが、まあ、それはさておき。
 信徒があたふたする前で、イマームは、この行動がエラトステネス・クレーターにあるドーム都市「エラトー」を敵視する某企業の陰謀であることまでペラペラと喋った。企業名だけ発音できないように、ハードなプロテクトがかかっていたのは、さすがにプロの仕事だ。
 イマームの言葉はイスラムで禁じられた酒でもたんまり飲んだように饒舌になっていった。バグによって、サイバーブレインがハックされ、酩酊アルゴリズムがたんまり流し込まれていたのである。イマームの魂(エゴ)はオマル・ハイヤームの詩のごとく、ジャムシード王の王宮でワインをきこしめしているだろう。
 ハックされたイマームの義体は、そのまま、モスクの外に飛び出して、船倉の中にマーケットの真ん中でメッシュ放送を開始する。テロ宣言だ。
 アリシアは一応警告した。
「治安を乱す行動は……」
 十五秒待った。
 冷静な信徒が取り押さえるチャンスを与えた。
 だが、イフリートにとりつかれたイマームは、背中に隠していた低重力用の翼を広げ、船倉の空中に浮かび上がる。そうして、法衣の下から、レールガン方式のサブマシンガンを取り出したのだ。
「射殺の正当性70%」
 支援AIがメッシュ上に告知した瞬間、ホアナがヘビー・ピストルを引き抜き、3点バーストを2回。心臓をぶちぬいた。
 イマームが心臓停止して、翼が羽ばたきをやめる。
 低重力のため、ゆっくりと落下を始めたイマームの体は、空中でじゅっと燃え上がり、消滅した。
「おいおい」とアリシアが助手を振り返る。
「今日は、焼夷弾なんか使ってないよ」とホアナ。持ってはいるらしい。
「ありゃ、反物質の対消滅反応だぜ」とドン。「緊急用転送機(エマージェンシー・ファーキャスター)だ」
 量子通信で魂(エゴ)だけを遥か宇宙の彼方に転送するシステムだ。必要なエネルギーを得るために、微量の反物質を内蔵しており、通信用に使った残りが一瞬にして肉体まで消滅させてしまう。何も残らない。
「おい、バグ」
「大丈夫」とメッシュで返事。「行き先は分かっている」
「じゃあ、仕事は終わりだ」
 アリシアは報告書の作成と艦橋への提出を支援AI(ミューズ)に命じて歩き出す。

 その夕方。また、礼拝を告げる声が船倉に響き渡る。
 宗教はイマーム個人のものじゃない。誰かが死んでも信仰は続く。
「信徒会がイマームのバックアップを要請したそうだ」とホアナ。
「体は?」とアリシア。「反物質で消えただろ?」
「信徒の体にゴースト・ライドしている」
「ま、明日にはケースにでも入っているさ」
 クローンを作るには時間がかかるが、機械義体ならすぐにも用意できる。
 まあ、そんなもんだ。
 魂(エゴ)がデジタル化されて、義体を乗り換えられる今日、イマームが本当にイマームかどうかなんて、誰にも分からない。エゴIDが信用できないという噂も多い。
 だが、信徒たちの求めているのは個人じゃなくて、平和なイマームだ。
 星間企業の秘密エージェントにハックされて特攻しなけりゃそれでいい。
「一応、地球圏到着までは、アタシの助手に見張らせるることにした」とホアナ。
「助手?」とアリシア。
「タコの光悦が暇そうだったからな」
 ちなみに、イスラム教徒はタコが嫌いだ。主に食用としての禁制だが。

#記録終了。潜在的な「人類絶滅の危機」(X―リスク)コード25721を排除。
 –記録者(ドン)



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朱鷺田祐介プロフィール


朱鷺田祐介既刊
『酒の伝説』