「小松左京さん流創作スタイルに関する私的覚え書き ~音読的発想法のススメ?~」片理誠

(PDFバージョン:komatusakyousannryuu_hennrimakoto
 2011年7月26日、小松左京さんが80歳でこの世を去られました。氏のあまりに突然の訃報に我々の多くが茫然自失、驚き、狼狽え、その巨大な喪失感に打ちひしがれることとなりました。
 知らせを聞いた直後は、とにかく何かしなくてはという焦りだけが空回りしている状態で、何をすればよいのかは皆目見当もつかない。大勢がきっとそんな状態だっただろうと思います。
 それでもとにかく、今は「SF Prologue Wave」というサイトがあるのだから、まずはきちんと追悼をしよう、偉大な英雄のお弔いを皆でしようじゃないか、ということになり、不肖片理めがその取りまとめ役を拝命いたしました。

 なにしろ急な話でもあり、色々と混乱している中でのことでしたが、それでも小松さんと親しく交流されていた方々にこちらから追悼エッセイの執筆をお願いしましたところ、「小松さんのためならば」ということで大勢の方がご多忙中にもかかわらず、快く寄稿してくださいました。また中には「私も是非書きたい」ということで自発的に原稿をお寄せくださった方も沢山おられます。ファックスや手紙で送ってくださった方も。
 ただその一方で「ショックが大きすぎて今は何も書けない」と申される方が大勢おられたこともまた、ここにどうしても書き残しておかなくてはなりません。これは特筆に値することだからです。自らをして物書きと任じている誇りある人たちに「ショックで何も書けない」などと言わしめる、こんなことがいったい誰にできます? およそ考えられない事態です。日本SF作家クラブ会員の方たちにとって小松左京さんがどれほど大きな存在であったかということの、これもまた一つの証明であることは間違いありません。

 そんなこんながありつつ、それでも大勢の方々のご厚意により、沢山の原稿を頂くことができました。また、小松さんを偲ぶ作品は、きっとこれからも寄せられるのではないかと思っております。

 さて、そのようなわけで、私の取りまとめ役としての大任もおかげさまでひとまずは無事に終了したわけなのですが、その途中、皆様の原稿を取りまとめている内に実は気づいたことがありまして、今回はそのことを是非書き残しておきたいと考え、この原稿を執筆することに致しました。
 本稿は論文等の類では一切ありません。私個人の勝手な思いつきや感想を綴っただけの雑文です。そんなことは個人の日記にでも書いておけとの向きもあるかもしれませんが、取りまとめ役兼作家の端くれとしてあの時に自分なりに感じたことや閃いたことをここに残しておくのもまた、あながち無駄とばかりも言えないのではないかと考えました。
 もちろん小松左京さんほどの作家ともなれば、星新一さんと同様、いずれ然るべき研究者の手によってきちんとした再評価がなされることは間違いありませんが、もし当備忘録がその際の何らかのお役に少しでも立つようなことがあったら、私としては幸いです。

 集まった追悼エッセイを読んでいてまず思ったのは、さすが小松さんと直接交流されていた皆様は、氏の特徴や生き生きとした個性をよくご存知だなぁ、ということでした。それはまた小松左京という人がそれだけ魅力的な人物だったということでもあるわけですが。
 皆様から頂いた原稿の中から私が感じた小松さんの特徴は、次に挙げる①~⑨の九つです。そしてこれら9個の特徴は、「小松さん流創作スタイル」という観点から眺めると、実はピッタリと辻褄が合うのです。
 少し長いのですが、論拠となった引用箇所と併せてご覧くださいませ。

       ◆◆◆

①知的好奇心が旺盛で、とにかく博識。
『小松さんは、いったいどうして科学技術の将来のみならずアメリカン・ライフの細部に至るまで、あれほど詳しく知っていたのだろう?』 「小松左京氏追悼企画」より、巽孝之さん。

『なんでも吸収しようとするお人柄』 「小松左京氏追悼企画」より、天瀬裕康さん。

『短い会話で示された広範な知識と鋭い頭脳は想像を超えていました』 「小松左京先生のこと」より、有村とおるさん。

『ちょうどその頃、私は、はじめての新書書き下ろし『海神の逆襲(コマンド・タンガロア)』を執筆中で、南洋の神々についての資料を集めていた。その話をすると、「それじゃあ」とイースト・ウェスト・センター内の民俗学博物館に案内してくれ、あれこれ、蘊蓄と示唆を与えてくれた。忘れがたい思い出である』 「小松左京氏を偲んで」より、川又千秋さん。

『お話はそれはまた大変に愉快で、わたしが知らないことを何十倍も知っておりました』 「夢のよう」より、伊藤致雄さん。

『SFのこと、文化、天文、地理のことなど、こっちが知ったかぶりで書いたことに、反論されたりする。博覧強記というか、多芸多才というか、いつもギャフンと言わされてばかりいた』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『知の巨人なんて言葉があるけれど、小松さんに対する私の認識は、そんなものではない。あの人は……知の化け物ではないのか』 「小松左京さんの思い出」より、新井素子さん。

『旅の日々、様々な質問を小松さんにぶつけた。そのたびに百科事典以上に詳しい答えが返ってきた。“歩く百科事典”という小松さんのアダ名は本当であることを悟った』 「巨頭の人 小松左京」より、永井豪さん。

『小松さんはどの学問分野でも専門家と対等に議論ができた』 「D-3プロジェクトのころ」より、谷甲州さん。

『日本人としてはニュータイプの知識人であった。たとえば、ゲーテの描くファウスト博士のように。いったい、なにが小松左京をアクタオン・コンプレックス(知識欲)の使徒にしたのだろうか』 「小松左京の遺産を『継ぐのはだれか』」より、荒巻義雄さん。

②おしゃべりが大好き。
『そしてよく食べ大量の原稿を書き、しゃべりまくった。まるでバルザックのようなひとだった。もうあんなひとは出てこないだろう』 「小松左京氏追悼企画」より、田中光二さん。

『銀座のバーのボックスで、くつろいだ気分の中で、星新一さんとのバーでの想い出から、酒の話、戦争と宗教、昔のテレビ・タレントの話、日本人論……と話題がどんどん発展していく』 「小松左京氏追悼企画」より、井上雅彦さん。

『80年代、プラザホテルの22階にあった小松左京事務所は「SFの聖地」であった。わが住居からタクシー1メーターの距離にあったから、電話で呼び出されたり押しかけたりした。SF関係の誰かが来阪すると、ここで飲みながらSF談義となった。あとは1階のバー「マルコポーロ」に移って延々としゃべりつづけた』 「小松さんのいる場所」より、堀晃さん。

『小松さんは、上京すると、あれほど忙しいのに、必ず連絡をくれた。ぼくたち在京のSF作家は、小松さんから召集がかかったと、呼んでいた。そのとき在宅していたかどうかによって、その都度メンバーは変わるのだが、星新一さん、筒井康隆さん、平井和正さん、そして、ぼくなどが、電話を貰うなり、小松さんの定宿のホテルニューオオタニへ駆けつける常連だった。ホテルの一室で、SFの話、進化論の話、最新の宇宙論など、あれこれ、喋りあうのだが、まさに知的サロンのような雰囲気だった』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『当時すでに七十代の前半だったにもかかわらず、小松さんの知的好奇心はいささかも衰えをみせていなかった。さすがに体力は低下していたようだが、精神的なタフさはそれを上まわっていた。かえって若い我々の方が、先に体力が底をついて動けなくなることさえあった。驚くべきことに小松さんは、その間も集中力が落ちていなかった。十時間以上も話しつづけているのに、疲労している様子をまるで見せないのだ』 「D-3プロジェクトのころ」より、谷甲州さん。

③タブーというものがなく、発想が自由だった。
『「いいか、タケ! SF作家にタブーはないんだ。なんでもおちょくったれ。なんでもネタにしちまえ」と、小松さんから厳しく教わっていた』 「小松左京氏追悼企画」より、高千穂遙さん。

『今は亡き<怪獣博士>大伴昌司が言い出した<死券>ごっこという遊びがあります。<馬券>ごっこじゃありません。「SFの仲間のうち誰が一番最初に死ぬか?」 それを当てっこしよう、というブラックな遊びです。
 全員の一致した<本命>は、しょっちゅう飛行機で海外取材を続けている<デブで大食漢の小松さん>でした。万事に鷹揚な小松さんはまったく気にせず「バカヤロウ」と笑っていました』 「とりとめもない思い出」より、石川喬司さん。

④その人柄が皆から愛され、慕われていた。後進からは畏怖されるほどの存在でもあった。
『あちらでお目にかかるときは、また愚痴を聞いていただこうと思っている』 「小松左京氏追悼企画」より、辻真先さん。

『小松さんのおかげでSFも人生も一層大事なものになりました』 「小松左京氏追悼企画」より、森下一仁さん。

『今となってはひたすら懐かしいエピソード』 「小松左京氏追悼企画」より、難波弘之さん。

『これからも、地上の小さな私たちの旅の道しるべとなり、遠くまで行けるよう導いて下さると信じています』 「小松左京氏追悼企画」より、高野史緒さん。

『ありがとうございました。また、どこかで、お目にかかれますように』 「小松左京氏追悼企画」より、大原まり子さん。

『わたしにとっては大切な想い出です』 「小松左京氏追悼企画」より、森岡浩之さん。

『私は自分のことをついに小松さんから入門を許されなかった弟子だと考えている』 「小松左京さん」より、山田正紀さん。

『年に一度か二度、貧乏学生が懐をはたいて、夜行列車で梅田駅にたどり着いて、筒井康隆さんが経営していたヌルスタジオへ転がりこむ。そこで、小松さん、眉村さん、堀晃さんなど、大阪の同志に出会えたのだが、そう年中いけるわけがない。そこで、小松さんとは、文通を始めた。今でいえば、メル友といった関係である』『それ以後、半世紀にも及んで、お付き合いいただいたわけだが、小松さんといっしょにいて、不快な思いをしたことがない。これは、不思議な才能だろう』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『「TOKON5」に行ったとき、筒井康隆さん、豊田有恒さんに連れられて、小松さんが仕事場にしていたホテル・ニュージャパンを訪れた。
「オー!君が『ハレンチ学園』で騒がれている永井豪チャンか~?!」と、小松さんは巨大な頭を振り、満面の笑みで迎えてくれた。
「十兵衛やアユちゃんのオッパイを大きくしろ!」と小松さん。「小さめだから初々しくて良いのだ!」と筒井さん。たちまち、私をそっちのけでオッパイ論争が始まった。
 当時、『ハレンチ学園』を批判する大人とばかり会わされていた私は、即座にSF作家という人種が大好きになった』 「巨頭の人 小松左京」より、永井豪さん。

『メキシコ旅行中、毎晩のように、ビールを片手に歌を口ずさんでいた小松さん』 「巨頭の人 小松左京」より、永井豪さん。

『こんなファーストコンタクトは、生まれてはじめてだった。「おい、横ちゃん」だもんね』 「小松さんの思い出」(抄)より、横田順彌さん。

『小松さんは上京すると、SF作家の卵たちを、ホテルニューオータニに呼び寄せることが、しばしばだった。電話が鳴る。
「おい。みんなに連絡して連れてこい」
「なんの用事ですか?」
「用事なんかない。飯を一緒に食うんだ。必ずくるんだぞ」
 某氏いわく。
「小松さんは、いい人なんだけど、東京にくると飯を食わせてくれるのが問題だな」
 ちなみに、某氏はぼくではない』 「小松さんの思い出」(抄)より、横田順彌さん。

『「小松さん、ぼくを公認の弟子にしてください」
 食事中、どさくさまぎれに、お願いした。「うん。いい。どうでも。このギョウザはうまいぞ」
 とにかく、ぼくは小松左京公認のただひとりの弟子になった』 「小松さんの思い出」(抄)より、横田順彌さん。

『それ以降は、恐れ多くてこちらから話しかけることはできなかった』 「継ぐのはどなたか?」より、北原尚彦さん。

(他、多数)

⑤情に厚く、冗談好きで明るい性格。人間が大好き。
『作品も業績もおひとがらもお腹まわりも「これぞ大人物!」でいらした』 「小松左京氏追悼企画」より、久美沙織さん。

『お会いしたときには、いつも星さんのお話をされていたような記憶があります』 「小松左京氏追悼企画」より、東野司さん。

『「親分」に接して、「子分」であることの喜びや嬉しさを味わうという、貴重な経験をさせていただき、本当にありがとうございました』 「小松左京氏追悼企画」より、かんべむさしさん。

『ぼくは「親っさん」と呼ぶことが多かった』 「小松さんのいる場所」より、堀晃さん。

『高千穂遙が、一緒にハワイへ行かないかと誘ってきた。なんでも、ガラパゴス取材からもどってくる小松さんが彼に「セブンスターが切れたから買って届けてくれ」と頼んだらしい。こりゃ面白いというので、永井豪さんや中島梓さんも一緒にワイキキへ出かけ、現地で御大を出迎え。
 すると、いきなり、「よし、麻雀やろう」となって、ハイアット・リージェンシーの客室に雀卓を据え、連夜の対局。昼間、みんなで地元の映画館へ出かけて「エイリアン」を観たり……』 「小松左京氏を偲んで」より、川又千秋さん。

『酒席も談話もとても愉快。酒をたくさん飲みましたが、小松さんは秘書さんには禁酒と叱られましたが、蔭で、わたしのグラスの焼酎を「それ、こちらのグラスに足してくれるかね」』 「夢のよう」より、伊藤致雄さん。

『ぼくにも想像できる。人が大好きという小松左京は、人間性を無視したメリトクラシーを、嫌ったのだろう』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『そして、多分小松さんは、感謝されるつもりもまったくなかっただろうと思うのだ。
 ただ、御自分が、盟友である星新一さんを悼みたかっただけ』 「小松左京さんの思い出」より、新井素子さん。

『私が「日本SF作家クラブ」の会長をしていたとき、星新一さんが亡くなった。「小松さんが落ち込んでいる」と、事務局長の高千穂遥さんから電話をもらい、高千穂、とり・みきさんの三人で、小松さんを慰めに行くことになった。星さんとの楽しかった思い出話、星さんのすごい冗談の数々を、三人で頷きながら聞いた』 「巨頭の人 小松左京」より、永井豪さん。

『──寝るときは、何を着ているんですか?「シャネルの五番だよ」──南北問題を、どう考えますか?「そんなのは鶴屋南北にでも訊いてくれよ」。どんな質問にも機知に富んだ答を返してくれた』 「SF界のブルドーザー 小松左京さんを悼む」より、梶尾真治さん。

『ぼくが鬱病になった。
「小松さん、ウツになっちゃいました」
「そうか。横ちゃんも男になってきたな」
「はあ?」
「飲む、鬱、買うというだろう」』 「小松さんの思い出」(抄)より、横田順彌さん。

⑥多岐に渡る話題は、一見取り留めがないようでいて、きちんと整合性が保たれていた。
『いざ帰宅してテープ起こしを始めると、構文の乱れもなくそのまま原稿にできるくらい見事な文章になっているのは毎回本当に驚かされました』 「小松左京氏追悼企画」より、瀬名秀明さん。

『SF大会などでお目にかかると、話題があまりに豊富で、しかも冗談混じりであちこちにジャンプするので、戸惑うこともありました。しかしお別れした後で、会話の文脈を反芻してみると、話題転換の背景に先生の明晰な思考の軌跡が察せられ、その鋭さとスピードに驚嘆したものです。お忙しいなか、それでも若輩者にアドバイスしてやろうと、あれこれ圧縮して話して下さっていたのだと思います。さすがはコンピュータ付ブルドーザー』 「ただただ、残念です」より、長山靖生さん。

『他の論説からも感じられることなのですが、大兄は論旨の立脚点というものを大切にしておられます』 「広島から巨大過ぎた人へ」より、天瀬裕康さん。

⑦とにかく行動力があった。
『小松さんは、そのバイタリティを「まるでブルドーザーのよう」と呼ばれたと聞きます』 「小松左京氏追悼企画」より、菅浩江さん。

『すごいヴァイタリティのある人やなあ、吉本の人かいなあと思ってました』 「小松左京氏追悼企画」より、江坂遊さん。

『大会前夜、台風か何か影響で、ゲスト作家の多くが途中足止め。そんな荒天をモノともせず、一人、タクシーを飛ばして駆けつけてきたのが、小松左京氏だった』 「小松左京氏を偲んで」より、川又千秋さん。

『仕事でも、小松さんと旅行した。水曜スペシャル「マヤ文明の謎」では、メキシコ、グアテマラ、ベリーズなど各地を、強行軍でひと月も回り歩いた』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『国際SFシンポジウムは、小松さんが、政治力、行動力を発揮して、実現したプロジェクトである。冷戦当時、SF作家といわず、日本、アメリカ、イギリス、ソ連(当時)の作家が、一堂に会したのは、これが最初で最後だった。小松さんの細かい気配りは、この時も発揮された』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

『SF界のブルドーザーとよく喩えられるが、同期の作家の方からも同様の話を聞く』 「SF界のブルドーザー 小松左京さんを悼む」より、梶尾真治さん。

⑧書いて書いて書きまくった。
『隣接するグランドホテルで、65年に2度、小松さんとカンヅメになって、徹夜で仕事をしたことがある』『流行作家というのはこんなに大変なものかと思い知った』 「小松さんのいる場所」より、堀晃さん。

『ときには、メンバー過剰で、小松さんが二抜けになったりする。「豊田くん、ちょっと机、貸してくれ」などと言って、なにも書いてない二百字詰めの原稿用紙を手に持って、ぼくの仕事部屋のほうへ出ていく。一時間ほどして、ちょうど半荘(ハンチャン)おわったころを見計らったかのように、小松さんが戻ってくる。いつも持っている黒い鞄に、ぱらぱらと原稿用紙をめくって確認してから、しまいこむ。さっきまで、なにも書いてなかった用紙は、ペンフレンド時代からお馴染みの体に似合わない細かい文字で、びっしり埋められている。麻雀を抜けている一時間かそこらのあいだに、二十枚ちかい原稿を書いてしまったのだ。しかも、座につくと「さあ、やるぞ!」などといって、さっきからいたみたいな雰囲気で、麻雀に集中し、しかも小憎らしいことに、勝ってしまう。小松さんの麻雀、けっして巧くはないが、なにしろ強いのである』 「小松左京の不思議」より、豊田有恒さん。

⑨後世に多大な影響を残した。
『作品を通してSFの素晴らしさを教えて下さっただけでなく、小松左京賞によって私に作家としての道を開いて下さった』 「小松左京氏追悼企画」より、上田早夕里さん。

『それは私が「解釈の正当性とは何か」について、ある程度つきつめて考えた最初だった』 「小松左京氏追悼企画」より、宮野由梨香さん。

『私が高校1年のときに書いたショートショートです(1973年12月14日脱稿)。 “世界大沈没”』 「小松左京氏追悼企画」より、高井信さん。

『デビューのきっかけを与えてくださった先生に、改めて感謝いたします』 「小松左京氏追悼企画」より、機本伸司さん。

『ずっと小松先生の手の中で転がされていたのかも知れません』 「小松左京氏追悼企画」より、藤田雅矢さん。

『Peace on Earth, his words toward men. Oh well, what more can I say?』 「小松左京氏追悼企画」より、新城カズマさん。

『それぐらいぼくにとって「小松左京」が当たり前の存在として心に根ざしていた』 「小松左京氏追悼企画」より、八杉将司さん。

『今思うと「裂島」には小松左京先生の創り出したミームが憑いているようである』 「小松左京氏追悼企画」より、伊野隆之さん。

『それらの物語に込められた情熱の小さなかけらだけでも、受け継ぐことができればと願っています』 「小松左京氏追悼企画」より、秋山完さん。

『それがとうとう、思い切って仕事を辞め、親にも黙って小説を書き始めた。そのきっかけの一つになったのは、小松先生のお言葉だった。
「SFという表現形式は、巨大にして永遠のテーマに立ち向かえる“武器”なのである――」』 「向こうのホームに」より、機本伸司さん。

『あのときの小松さんの後ろ姿を見てSF作家になった人々がどれほど多いことか』 「SF界のブルドーザー 小松左京さんを悼む」より、梶尾真治さん。

『もとより小松左京がいたからこそ、日本のSFは今日の地位を築けたのだと思う。創生の時代から福島・柴野時代まで、初期の日本SF界は外部から多くの批判を浴びせられたが、われわれは小松ブルトーザーを先頭にして戦ってこられたのだ』 「小松左京の遺産を『継ぐのはだれか』」より、荒巻義雄さん。

『小松左京は、SFは大文学だと言った。それが旗印だった』 「小松左京の遺産を『継ぐのはだれか』」より、荒巻義雄さん。

『想えば小松さんは「時代の先端のもう一つ先を行く」人でした』 「広島から巨大過ぎた人へ」より、天瀬裕康さん。

(他、多数)

       ◆◆◆

 以上、①~⑨、全て論拠があってのことであることがお分かりいただけたかと思います。またいずれも複数の方が証言されていますので、大変に信憑性も高いものと思われます。
 ところで、私がかねてから小松さんに対して抱いていた疑問は①についてでした。
 小松さんのイメージと言えばまずは、博覧強記の人。でも本当にそれだけだったのでしょうか?
 例えば人工知能という存在は、知識を蓄積するデータベース部と、蓄積した知識から結論を引き出す推論部の2つからなっています。データというのはただ溜めれば良いというものではありません。むしろ膨大なデータを溜めれば溜めるほど、それを生かすための推論部が重要になってくるのです。
 小松さんが人並み外れた知識を持っていたことは間違いありません。ですが小松さんが凄かったのは本当にデータベースの部分だけだったのでしょうか? それを生かすための凄まじい推論エンジンをも、本当は持っていらしたんじゃないでしょうか? わたしはそのことを疑問に思っていました。もし本当にそんなものがあるのなら、その秘密を是が非でも知りたいものだ、と。
 ですがもちろん私ごときが小松さんに面と向かってそんな質問をできるわけもなく、もたもたしているうちにとうとう小松さんは宇宙に旅立ってしまわれました。私の疑問は永遠に分からずじまいに終った……かに見えました。ところが、小松さんの追悼で集められた原稿の中に、その答がちゃんとあったのです! 小松さんはヒントをあちこちに残しておられた!

 小松さんの創作方法について知る上でとても重要なのは、谷甲州さんの追悼エッセイ、「D-3プロジェクトのころ」です。谷さんは『日本沈没 第二部』で小松さんの創作の現場に立ち会っている、『小松さん本人と創作の時間を共有し、作者の一人として物語が生みだされていく瞬間に立ちあった』数少ない作家のお一人。谷さんは小松さんの創作方法を見ているはずで、実際それは書いてありました。

『その日もそうだった。午後から夕食をはさんで真夜中ちかくまで、小松さんの解説を拝聴していた。ときおり小松さんに質問される以外は、ただ話を聞くだけでよかった。結論らしきものは出なかったが、なんとなく得をした気分になっていた。とはいえ終電の時刻が近いことでもあるし、今夜はそろそろお開きかと思った時だった。ほろ酔い機嫌の小松さんが、皆に酒をすすめはじめた。ようやくエンジンがかかって、構想の取りまとめに入ったらしい。だが話のペースは、まったく変わらない。あいかわらず脱線をくり返しながら、少しずつ本質に近づいていく。そして明け方が近づくころ、突如それまでの成果を無視するかのようなアイディアが飛びだした。日本列島の沈没が原因となって次の氷河期がはじまるという『第二部』の基本構想は、このようにして決まった』

 ちゃんと「突如それまでの成果を無視するかのようなアイディアが飛びだした」と書いてあります! これだ! この瞬間が作家・小松左京が閃いた瞬間であり、ここに彼の創作の極意の重要部分がつまっている!
 ではその直前まで小松さんが取っていた行動は何だったのでしょう? それも谷さんによってきちんと明示されています。小松さんは「話のペースは、まったく変わらない。あいかわらず脱線をくり返しながら、少しずつ本質に近づいていく」ことをしていました。つまり特徴の②です。そうなんです。小松さんの創作の神髄は、実は「しゃべりまくる」ことなのです!
 私はこういうことだったのではないかと推測しています。例えば我々でも会話をする時、「こんにちは。良いお天気ですね」→「ええ、まったく。景気もこのくらいスカッと晴れてくれるといいんですけどねぇ」→「そうそう、景気と言えば、また増税だとか」→「参っちゃいますなぁ、ますます物が売れなくなる」→「売れないと言えば、私の新刊もサッパリでして」→「それは景気とは関係ないと思いますよ」、みたいな感じで、連想ゲームのように話題を次々に数珠繋ぎにしてゆきます。前の話題が次の話題を引っ張り出すキーになっているわけですね。おしゃべりが大好きだった小松さんが人一倍この能力に長けていたとしても何ら不思議はありません。この次から次へと頭の中から情報を芋蔓式に引き出してゆく「会話」という手法を、小松さんは推論エンジンとして活用していたんじゃないでしょうか。
 谷さんの「D-3プロジェクトのころ」の記述によれば、小松さんの発想方法はおよそ次のようなものになります。
 とにかくまずはしゃべってしゃべってしゃべりまくる。会話によって話題を全方位に向かって凄まじい勢いで広げてゆく。その姿勢にタブーなどはなく、あくまでも自由奔放にして変幻自在(特徴の③)。とにかく満足がいく「何か」をつかめるまではひたすらそれを続ける。だが広げに広げた枝の先にほんの少しでも「これは!」というものが引っかかったら、途端にそれまで構築していた膨大な話題は惜しげもなく全部捨て、そのかすかな取っ掛りを足場にして、また最初から新たに発想を広げてゆく。
 小松流「しゃべくり発想法」とでも名付けるべきこのやり方は、実は「KJ法」と呼ばれるブレーンストーミングのやり方によく似ているような気がしています。とにかく出せるだけアイデアを出しまくった後、それを整理したり分析したりする、というわけですね。
「KJ法」で大事なのは「書く」という行為です。出てきたアイデアの一つ一つをカードに書いて、そのカードを使ってアイデアの整理を行います。人間というのはアイデアが浮かんでも放っておくとすぐに忘れてしまいますので、「KJ法」では文字にすることでそれを防ぐわけです。
 一方、小松さんのやり方ではアイデアを文字に書いたりはしません。その代わりに彼は発想の一つ一つを「音」にしていたんじゃないでしょうか。発音することによって内容を耳から再度入力しなおし、そのことで記憶に重み付けを行っていたのだとしたら、これは驚愕すべきやり方です。
 普通の人はいくら音で聞き直したとしても、たいていの場合はやっぱり忘れてしまうだろうと思います。次々に移ってゆく話題についてゆくだけで精一杯のはずで、これまでのアイデアの変遷を系統だってきちんと押さえておくことなんて、常人には不可能業でしょう。ですがもし、それをできる人がいたとしたら? そしたら、その人にとってその「しゃべくり発想法」は、無敵のやり方です。何しろいちいち文字で書かなければいけない「KJ法」と違って、思考が途切れませんから。話題が続く限り、凄まじいスピードでとめどなく情報が検索され評価され続けるのです。
 本当にそんな芸当をできる人がいるとは思えない? ですが小松さんはそれを行っていた節があります。その証拠となるのが特徴の⑥です。たぶん小松さんには小松さんなりの話をしながら情報を整理するやり方があって、それでどれだけおしゃべりをしても話題の整合性がずっと保たれるのです。
 ですがこの無敵に見える「しゃべくり発想法」にも、成立するための条件というものがあります。その神髄は会話にあるわけですから、言葉のキャッチボールをしてくれる「相手」がどうしたって必要。一人ではできないんですね。予想外のキーワードを投げ返してくれる他者という存在が重要なんです。
 しかもできればその相手は、とんちんかんなことばかり言う門外漢ではなく、ある程度は同じ方向性を有してくれている人の方がやりやすいでしょう。しかもお互いに気心の知れた仲であればリラックスした状態で思う存分アイデア出しができますので更になお良い、ということになります。
 丁度、小松さんにとって、そんな人間ばかりが集まっている集団があります。そう。日本SF作家クラブ、です。
 もちろん言うまでもなく、小松さんは損得尽で友人の方々と接しておられたわけではありません。人懐こい上に親分肌で面倒見の良い人だったので自然と大勢から慕われるようになったのだと思います(特徴の⑤)。小松さんは皆さんのために、皆さんは小松さんのために。そんな自然なやりとりの中から関係が発展していったのでしょう。現に大勢の方々から愛されておられます(特徴の④)。つまりこの「しゃべくり発想法」は、小松さんの誰からも愛される嫌味のない人格があってこそのものです。
 私がここで言いたいのは、結果として、日本SF作家クラブが小松さんの“発想の揺りかご”のような役割を果たしていたのではないか、という可能性です。
星新一公式サイト」に寄せた「星新一さんについて」という文章の中で実は小松さん自身、そのことを匂わされております。

『星さんの天才的諧謔、ユーモアのセンスに触れてからは、星さんに会うために東京の仕事を作って大阪から夜行列車に乗って東京まで行き、電話がダイヤル即時通話になってからは、「愛の深夜便」と称して夜中に電話をしては、お互いに相手の原稿の手を止めさせていた。あいにくと活字にはできない冗談が多かったのだが、いつも思いもつかない発想で死ぬほど笑わせられていた』

 小松さんの創作方法はお一人ではその真価を発揮できなかった。常に盟友やライバルたちがいてこその小松左京であった。それは人間が大好きな彼のスタイルにピッタリとマッチしていたし、彼との会話は相手にとっても大変な益となるもので、お互いの向上に大いに役立った。お互いが「相手のためにもなり、自分のためにもなる」という関係だった。
 小松さんをよく知る方々の追悼エッセイ全てに共通しているのは、小松さんの周囲にはいつも幸福感があった、という点なのですが、それもそのはずで、彼らは皆、小松さんと相互扶助の関係にあり、言うなればお互いが創作における大事なパートナーだったのです。

 私が考える小松さんの創作スタイルをまとめると、次のものになります。
 まず気心の知れた仲間たちと「しゃべくり発想法」でブレーンストーミングを行い、豊富な知識の中から有望そうなネタを引っ張り出す。
 次に持ち前の行動力に物を言わせて物語のバックボーンを徹底的にがっちりと固める(特徴の⑦)。
 準備を整えすませた後は、驚くべき切り替えの速さと脅威の集中力で、書いて書いて書きまくる(特徴の⑧)。
 そのパワフルかつ人間味にあふれる創作姿勢は、大勢の人々に影響を与えた(特徴の⑨)。
 集まった情報を分析するにつけ、そのあまりに規格外な凄さに私などは圧倒されてしまいます。結局のところ、小松さん流創作スタイルとは、技法ではないのです。小松左京という作家はテクニックではなく、己の生き様で、人生そのもので小説を書いた人だった。それはとてつもなく巨大な器の持ち主だった彼だからこそ可能なやり方で、常人が真似するなんてとても無理。①~⑨の特徴のうち、どれか一つだけならともかく(それとて途方もないことですが:汗)、九つ全部をそっくりそのまま盗める人なんているでしょうか? ズバリ! いるわけがない! そんなことは不可能です。
 小松さんの系譜に連なる作家は今もおられますし、これからも必ずや沢山現れるだろうと思います。小松さんの思いや志を継承し、担ってゆく新たな書き手はきっと大勢誕生することでしょう。ですが小松さん流の創作スタイルを真似できる人が今後現れるとは、前述の理由から、ちょっと考えにくいと思っています。彼の創作方法は凄すぎて受け継ぎようがありません。それは小松左京さん一代限りのものです。その意味で「もうあんなひとは出てこないだろう」という田中光二さんのご指摘は、まさに正鵠を射ているのではないかと私も思います。

 以上が私なりに小松さんを分析した結果です。はっきり言って妄想の産物かもしれません。私という個人の単なる勘ぐり以外の何ものでもないかもしれません。自分としては結構いい線いってるんじゃないかと思いたいところなんですが(汗)、実際のところは、今となっては確かめようがないわけですので……。
 ただ、だからと言って、小松さんについて考えることが無意味であるとは思いません。たとえ真似することはできなくても、見習うことは可能だからです。
 小松さんの「しゃべくり発想法」の極意の一つは「“音”に出して考えていた」という点です。創作の壁にぶつかった時、彼は沈思黙考するのではなく、様々な人とコミュニケーションをすることでその壁を突破していたのではないかと私は推測しております。
 現在、脳科学の発展により黙読よりも音読の方が脳をより活性化させることが判明しています。だとしたらただ黙って考えるよりも、声に出して考えた方がより脳のポテンシャルは引き出せるのかもしれません。会話の相手がいれば、そこから思わぬヒントがもたらされることだって期待できます。小松さんは長年の経験からこれらのことを自然に会得されていたのかも。
 声に出して考えてみる、色々な人と話をしてみる。これくらいなら私でも実践できます。小さなようでいて、実はこういった一つ一つのことが大きいのかもしれない、と今は感じています。

 色々なエピソードを読めば読むほど、やっぱり凄い人だったんだなぁ、と驚嘆させられてしまいます。私も一度でいいからお話を伺いたかった。きっと様々な示唆を得られたでしょうに。でもそんなこと言ったら「ヒントは色々と残したんだから、後は自分で考えろ」と天国から叱られてしまうのかも(汗)。まだまだ勉強していかなくっちゃあいけません。先達の道、未だ遙かなり。
 最後になってしまいましたが、長年SFを牽引し、我々に様々な教えを残してくださった偉大な先輩、小松左京さんに謹んで敬意を表しますとともに、氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

片理誠プロフィール


片理誠既刊
『Type:STEELY タイプ・スティーリィ (上)』
『Type:STEELY タイプ・スティーリィ (下)』