(PDFバージョン:kuuotoko_iinofumihiko)
ぼくは生きている。ほかのみんなは死んだが、ぼくだけは生きている。なぜぼくだけが生きているか。それはかんたんだ。みんなが死んだのは、食べるものがなくなったからだ。ぼくだけ食べるものがあったからだ。
ぼくは、子供の頃から馬鹿だと皆に言われていた。馬鹿だから馬鹿にもされし、いじわるもされた。中でもいちばん多かったのが、変なものを食べさせられたことだ。
「おい、あやひこ。これ食べてみろよ」
そういうのは、たいてい、あきら君だ。あきら君は、ぼくをいじめるのが何より好きなのだ。
いやだなあと思いながらも見ると、ゴキブリだった。だからぼくは笑いながら、
「これ、ゴキブリだろ。食べられないよ」
と言った。
なぜ笑いながら言ったかというと、もしもぼくが怒ったりしたら、あきら君は、
「生意気だ、逆らった」
とみんなを誘って、ぼくを殴ったり蹴ったりする。ぜったいにそうするとわかっていたからだ。
「何言ってんの、おまえ。知らないの。これゴキブリに似てるけど、いま流行ってんだぜ」
あきら君がそういうと、ほかの子供たちも、同じように言った。
「テレビでコマーシャルしてるだろ。見なかったのか?」
「うまいんだぞ、これ」
そんなことを言われると、ぼくの気持ちはだんだんゆるんできてしまう。そうしてほんとうにそうだと思ってしまう。
「ちっ、せっかくやろうってのに、人の厚意を無にしやがって」
「やめよ、やめよ」
そんな風に言われると、何てぼくは悪いことをしたんだ。そう思う気持ちと、そんなにおいしいなら食べてみたい、という気持ちがぱっと爆発してしまう。
「やっぱり食べさせて」
気がついたら、ぼくは言っていた。
「何だよ、今頃」
「ごめん。うっかりしたんだ。うん、テレビでやってたよね。うん、見た見た。一度食べてみたいと思ってたんだ。お願いだから」
「そんなに言うなら、しかたがないな」
ぼくはそれを受け取り、食べた。ガリガリと音を立てて噛むと、中から苦い汁がしみ出して、顔が歪んでしまう。
それを見て、あきら君たちは大笑いした。
「こいつ、ゴキブリ食べやがった」
「きたねえ。ゴキブリ喰いやがった」
そこでやっぱり、悪戯されたんだとわかり、吐き出す。気持ち悪くなって、ゲロまで出てしまう。それを見てみんな、笑う。
だがぼくは怒らない。怒るよりも、かなしくて涙が出る。するとさらにみんな笑うので、ますます悲しくなる。でも、いつまでも泣いているわけにはいかない。そんなことをしたら、あきら君たちが怒り出すからだ。
「てめえ。先生や親にチクんじゃねえぞ」
「もし言ったら、ぶっ殺すからな」
そう怒鳴られると悲しいよりも、恐い。あわてて涙を拭って、へらへらと笑いながら、
「わかってるよ。誰にも言うもんか」
と言う。みんなは安心した様子で、
「ばかをからかうとおもしれえや」
と笑いながら去っていくのだった。
ゴキブリは美味しくない。でも食べられる。蛇やカエルのほうが美味しい。だから見つけたらつかまえ、食べた。土団子は美味しいとは言えないけれど、土の種類によって、ずいぶんと食べやすかったり、まずかったするものだ。
ほかにも新聞紙、雑誌、ちり紙、コンクリートの欠片、煙草、マッチ、画鋲やガラスなんかも食べさせられた。これらはやっぱりダメだ。食べ物じゃないんだから。
あの頃は、ひどい悪戯をするなあと思っていたけれど、考えてみれば、そのおかげでほくだけがこうして生き残れた。
戦争が起きたんだと思う。すごい爆弾が、あっちこちに落ちて、父ちゃん母ちゃんともいつの間にかはぐれて、一人になっていた。
ぼくは山にこもった。何人かの人とあったけれど、いつしかそれらの人とも別れて、一人になっていた。運が良かったんだと思う。一人になっても、何でも食べられるように鍛えられていたから。
しかし、実はすべてが毒だったんだ。山の中で偶然出会った、おじいさんが教えてくれた。そのときぼくは木の皮や土を食べていたんだ。それを見たおじいさんが言った。
「そんなものを食べると死ぬぞ」
「どうしてですか?」
「すべてが毒で汚染されている。この世界にあるすべては敵の蒔いた毒で汚染されているんだ」
「ぼく、元気ですよ」
「まだ量が少ないからだ。このまま食べつづけたら、おかしくなるからやめろ」
「それなら何を食べるんですか?」
訊ねたらおじいさんは、自分がすみかにしていた場所に連れて行ってくれた。地下に掘ったシェルターというところだった。おじいさんは金持ちで、戦争が起こる前に、それをつくっておいた。
しかし戦争がとつぜんだったので、そこに入れたのはおじいさんだけで、ほかの家族はダメだった。
「食料も缶詰以外は危険だから、食べないでいるが、まだまだある。水も充分にある」
おじいさんとは長いあいだいっしょに暮らした。十年以上だと思う。おじいさんはぼくにいろいろなことを教えてくれた。こうして文章が書けるようになったのも、おじいさんのおかげだ。
おじいさんはある日突然死んだ。ぼくはまったく知らなかったんだけど、蓄えておいた食料や水がついになくなったのだ。それを悲観したおじいさんは、首をつった。
〈あやひこ。私はもう生きていく望みを失った。先にいってるよ〉
悲しかった。父ちゃん母ちゃんと離ればなれになったときよりも悲しかった。
一人になったぼくはシェルターを出て、山を下りた。そうして町に出たけれど、誰もいない。人はもちろん、犬も猫も鼠も蛇もカエルもいない。ゴキブリはいた。何を食べているのか知らないけれど、たくさんいた。
前にも書いたけれど、ゴキブリはまずい。でも生きるために食べた。ところがある日、ゴキブリがいなくなった。ぼくが食べ過ぎたせいだろうか。ぼくの近くにいると食べられると覚えて、それで逃げたのか。
ゴキブリが消える前に、長い間、冷たい雨が降ったから、それに原因があるのかもしれない。そうだ、ぼくのせいじゃない。雨のせいだと信じた。ゴキブリにまで嫌われたとは、いくら嫌われ者のぼくでも思いたくはない。
雨が止んだ後は、すべてがまずくなった。きっとあの雨は、ゴキブリだけではなく、すべてダメにしてしまったのだ。まずいだけではなく、何を食べても吐いてしまう。
ぼくも困った。しかし……ほんとうのことを書こう。嘘をついても仕方がない。どうせ誰も読まないんだから。と、書いたところでしばらくぼくは笑った。
昔、ぼくをいじめた一人の口調で、頭に浮かんだからだ。
「あやひこさあ、誰も読まないと知ってて、なぜ書くわけ?」
ほんとだ。そんなことは馬鹿なぼくにだってわかる。どうして書くんだろう?
考えた。わかったこと、ほかにすることがないから。それに……これも誰かに聞かれたら、馬鹿にされるだろうけれど、どうせぼくは馬鹿だからいいやと思って書く。
どこかに誰かが生きていて、いつかぼくの書いたこの文章を見つけてくれるんじゃないか。誰かが生きていて、ぼくが死んだ後にここに来たとき、この文章を読んだら、
「へえ、馬鹿でも長生きしたヤツがいるんだなあ」
と思ってくれたら、うれしいと思う。
いや、それもちがうか。なぜなら、これを読んだ人は、よけいぼくのことを馬鹿にするだろう。
「なんて、野郎だ。そんなことをしてまで生きていたくなんかねえよ」
そう言うかもしれない。
「いやいや、馬鹿でもこれだけ生きられるのは、すごい」
そう言ってくれる人も、いるかもしれない。
「いや、これは真っ赤な嘘だ。そんなものを飲み食いできたとしても、それだけで生きていられるわけがない」
そう言う人もいるだろう。ぼくもこの意見には賛成だ。ぼくだって、そう思った。だからそうしなかった。
ところがついにそれしかなくなった。そうするしかなかった。喉が渇いたし、ひもじかった。それでもぼくも人間だから、それだけはやめようと抵抗した。しかし……。
正直に書きます。ぼくは子供の頃に、それらを飲み食いしたことがある。前に書いたように悪戯された。
あきら君にだ。一度や二度ではない。それらを飲み食いさせられた悪戯が、ほかの何よりもいちばん多かった。
もちろんいやだった。けれども、何度か続けていくうちに、いやではなくなった。いやでなくなったどころか、正直に書きますと誓ったので、書きます。好きになったのだ。もちろんあきら君をはじめ、誰にもいわなかったけれど、どちらも美味しい。ものすごく美味しい。
母ちゃんの作った料理と同じくらい美味しいと思った。母ちゃんの作った料理を食べているぼくが出したものだから、美味しいのもとうぜんかと思った。
それは馬鹿な考えだ。人間は、自分が出したおしっこやうんちなんか食べたりはしない。食べないから、悪戯して無理やり食べさせるのだ。食べると、あまりにぼくが馬鹿だとわかるから、おもしろがるのだ。
でも、何度も書くけれど、正直に書くと、ぼくはどんな飲み物よりも、おしっこが美味しい。どんな食べ物よりも、うんちが美味しい。ああ、書いてしまった。だからぼくは馬鹿なんだろう。
ほかに何もなかったから、仕方なくそうしたと書けば、かわいそうにと同情してくれる人もいるだろう。ダメだ。ぼくには嘘は書けない。ぼくはしょうべんとうんちが大好きだ。
ついにほかに何も食べられなくなって、本格的にというのも変な話だが、ショウベンとうんちだけで暮らすようになった。以前より元気になった。活動的になった。身体も痩せるどころか、太った。だからどんどんおしっこもうんちも出て、ますます元気になった。
馬鹿だと思われるだろうけれど、ほんとうのことを書いて、すっきりした。これからいつまで生きられるかわからないけれど、これからもぼくはしょうべんを飲み、うんちを食べて生きていくつもりだ。それしか生きる道はないし、それしか楽しみはないのだから。
七十歳の誕生日に、いのあやひこ。
◇ ◇
私は特殊ガラスにさえぎられた向こうの部屋にいる男を見た。
我々が保護した、唯一の人類の生き残りである。そして彼が書いたのが、今私が読み終えた文章である。
いのあやひこ、それが男の名前らしい。いのあやひこは、何を与えても飲み食いせず、文章にあるように、自分の排泄物を食している。年老いてはいるけれど、小太りの体型をしている。医師によると、どこにも悪いところはなく、あと二十年はまちがいなく生きるだろうとのことだ。
科学者は言う。
「完全なまでのリサイクル。究極の生物として、研究の余地があります」
私も同意する。いのあやひこのようになれれば、我々の星で深刻化している食糧問題、老化問題を解決する糸口を見いだせるかもしれない。だがしかし……。それまでして、生きていく価値があるのだろうか。価値以前に、生物としてのプライドがゆるさない。
私は扉を開けて、いのあやひこのいる部屋に入った。扉をあけるなり、凄まじい悪臭にあわてて、特殊マスクをつけた。
「おい、食事は終わったのか」
仰向けに寝ているいのあやひこに声をかけた。いのあやひこはあくびをしながら身体を起こして、あぐらをかいた。ぽりぽりとはげ上がった頭を掻きながら、私を見つめて、馬鹿にしたように笑った。
全身の血液が、瞬間に沸騰したかのようだった。地球人などという下等な種族の、その中でももっとも下劣な男に、屈辱的な表情をされ、我慢できなかった。
「きさまなど、生きている価値などない」
拳をにぎりしめ、足を踏み出すと、いのあやひこはおびえるどころか、声を上げて笑った。
「きゃははは。怒ってる怒ってる。ざまあみろ、ざまあみろ」
「なんだと」
「そんなお面つけても、おまえが誰かわかってるぞ。おまえは、あきら君だ。そうだろ。当たったんだろ。へん、もうぼくは昔のようにやられてるばかりの馬鹿じゃないんだからな」
「ほざくな。あきら君などという者は、とうの昔に死んでいる」
「嘘だよ。嘘をついても、わかる。あきら君だ。おまえは、あきら君なんだよーだ」
カッとなった私は、感情に流され、特殊マスクを外していた。投げ捨て、顔を見せ、
「これでも私が、あきら君――」
と怒鳴りつけた刹那、私の顔を異物が直撃する。まともに目と鼻に入り、たまらずしゃがみこむ。
「どうだ、あきら君。おもいしったか」
いのあやひこが私に襲いかかってきた。
「どけ。私は別人だ」
「嘘だ。だまされないぞ。長いあいだの恨み。思い知れ」
いのあやひこは私にしがみつき、私の顔を舐めた。自分の排泄物を味わい、さらに、
「うんちもおいしいけど、おじいさんが死んだ後、食べたら、もっとおいしかった。あきら君はどうかな? いじわるだから、まずいかな?」
鼻をかみちぎられ、悲鳴を上げると、いのあやひこは、笑いながら叫んだ。
「うまいよ。ははは、あきら君、意地悪だけど、とってもうまいや。どうやらうんちとか意地悪とか変なもののほうが、おいしいのかもしれないね」
しがみついたいのあやひこは、夢中で私を喰らう。(了)
飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』