「旧友」飯野文彦

(PDFバージョン:kyuuyuu_iinofumihiko
 仕事部屋でノートパソコンに向かっていると、背後から、声がした。
「よ」
 ふり返ると、背後に置かれた簡易ベッドの上に、あぐらをかいてDが坐っていた。
 妖彦は答えず、ノートパソコンに視線をもどした。
「何だよ、無視か。相変わらず、冷たいやつだな」
 背後から聞こえてくるのは、まちがいなくDの声だった。
 答えるどころか、全身が凍りついた。その意味ではたしかに妖彦は〈冷たいやつ〉になった。それもとうぜんだ。何しろDは、すでに死んでいる。
 Dとのつきあいは古い。大学時代に所属していたサークルの同級生だった。学生時代は、よくつるんで飲み歩いたものだ。大学を卒業後、妖彦がフリーのライターになったのに対して、Dは某出版社に就職した。何年か営業部を勤務した後、小説誌の編集となり、前々から作家志望だった妖彦に声をかけてくれた。
 おかげで、その雑誌がつぶれるまでの五年あまりの間に、いくつかの短編を発表することができた。謂わば恩人である。
 小説誌がつぶれた後、Dはアニメ雑誌の編集にまわされたものの、郷里で母親が体調を崩し、介護のために会社を辞めた。以後五年あまり、年賀状のやりとりだけで、毎年、今年こそ飲もうとお互い書きながらも、そのまま疎遠になっていたのである。
 Dが死んだのを知ったのは、三ヶ月ほど前だった。同じサークルの同級生から、電話があって聞いたのだ。最初は介護していた母親のほうではないかと思い、聞き直したがちがった。
 ――それならなぜ、もっとはやく連絡してくれなかったんだ。
 妖彦はそう訊ねた。
 ――俺もさっき、聞いたんだ。俺、今OB会の幹事だろ。Dのやつ、ここんとこ出てこないから、あいつの予定に合わせて開こうと思って、電話したんだ。そしたら妹さんが出て……。
 ――それでも、なぜ……。妹さんがいるなら、連絡くれてもいいじゃないか。
 ――それが、どうも自殺だったらしい。
 その言葉を聞いて、妖彦は驚きと同時に、やっぱりと納得すらしていた。Dは博学で頭の切れる男だが、繊細なところがあって、些細なことを気にしたり、深く悩み込んだりする性格だったのだ。
 学生時代だけでなく、編集者と物書きとしてつきあっていた時期にも、極度に落ち込むDの姿を見たことがある。慰めたり、宥め賺したりしながらも、
 ――こいつはどうして、そんなにぐじぐじ考え込むんだろう。こんなことでやっていけるのか。
 と思ったのは、一度や二度ではない。だからというのも変だが、友人から自殺だったらしいと聞いたとき、やっぱりと感じてしまったのだろう。
 Dの実家に電話してみようと思ったが、決心がつかず、妖彦はお悔やみの言葉を連ねた手紙を送った。一週間ほどして、Dの妹から返事が来た。
 やはり自殺だったとのこと。妖彦のことはDの口から聞いていたが、そのような事情もあって、連絡できなかった詫びが、書き連ねてあった。
 手紙が届いた日は、Dを忍んで、一人飲み明かし、近々墓参りに行こうと決めた。それなのに……。妖彦の郷里からDの郷里まで、特急電車を乗り継いでも五時間近くかかることもあって、足を運べないまま月日だけが過ぎていった。
 そのDが後ろにいるのである。
「まあ、いきなりこんな風に現れたら、びっくりするよな」
 Dが言った。妖彦が答えられず、ジッとしていると、さらに、
「安心しろ。手短く済ませて、帰る」
 と笑いを含んだ声で言った。それに神経のどこかが引きずられたのか、気がついたら、
「帰るって、どこに?」
 と訊ねていた。
「気になるか?」
 訊ね返されて、なぜそんなことを聞いたのかわからず、
「いやッ」
 と否定したものの、凍りついた気持ちが、オンザロックの氷のように揺れた。それに追い打ちをかけるように、Dが言う。
「ネタになるぞ」
 たしかに、と思い、それなら……と振り向こうとしたが、だめだ。膝から下ががくがく震えて力が入らない。
「まあ、やめておこう。時間もないことだし。さっそくで悪いが、本論に入る」
 Dはそう前置きしてから、
「金返せ」
 と言ったのである。
 ピキッと音がして氷が溶けたように、妖彦の身体が動いた。椅子を反転させて、一メートルと離れていないDと向き合った。状況の不可解さも恐ろしさも忘れて、
「何だよ、それ」
 と訊ねていた。
「俺が編集してとき、打ち合わせの後、中華料理屋でおごっただろう。そのときの二千円、返してくれよ」
「前々から言おうと思ってたんだけど、それおかしくないか?」
「何がおかしい。借りたものは返すのはあたりまえだろう。忘れたって言うんじゃないだろうな」
「覚えてるよ。でも、そうじゃなくて、お前、矛盾に気がつかないのか」
「あのとき四千円なにがしの料金を払ったのは、俺だろうが。おまえは払ってない」
「それはそうだが、その前にお前『おごった』って言っただろう」
「そうだっけ?」
「しらばっくれるなよ。『打ち合わせの後、中華料理屋でおごった』って、今言ったじゃないか」
「間違ってないだろう。金を出したのは俺だ。払っていないおまえが返すのは当然だろう」
「そうじゃない。おごりなら、なぜ返さなくちゃならないんだって言ってるんだよ」
「ふっ、相変わらず、せこいな」
 Dが鼻で笑ったため、妖彦の怒りモードに油が注がれた。
「せこいのは、おまえのほうだ。だいたいあのときも、私が帰るって言ったのに無理やり『まあまあいいじゃないか』と誘ったのはお前だ。しかも店に入ってから、勝手に注文の品を決めて、私が遠慮すると『まあまあ、たまになんだから』といかにも、経費で落とすような口ぶりだったじゃないか」
「何だよ、それ。じゃ俺が悪いみたいじゃないか」
「みたいじゃなくて、悪いだろうが」
「何だよ、おごってやって文句言われるなんて、はじめてだ」
「おごったんじゃないだろう」
「金を払ったのは、俺だろうが」
 Dが怒鳴った。
「それなら、返せなんて言うなよ」
 妖彦は椅子から腰を浮かさんばかりの勢いで怒鳴り返した。
 睨みあいとなった。鼻息を抑えながら妖彦が眼を細めると、Dはふっと笑い、首を横に振った。
「最低だな、おまえ」
「何が最低だ」
「そうだろ。わざわざ来てやったってのに、挨拶もなく、この剣幕だ」
「原因はお前だろう。いきなり借りてもいない金を返せと言いだしたのは」
 さらに妖彦は、Dが自分のことを『相変わらず、冷たいやつだな』と言ったことを思いだし、
「どういう意味だよ。私が冷たいやつって」
 と問い質す。
「鏡で見せてやりたいよ。そんな顔で友だちを睨みつけて、借りた金を踏み倒そうとするやつが、冷たくなくて何て言うんだ」
「よし、それを冷たいというのなら、わかった。それじゃ『相変わらず』ってのは、どういう意味だ?」
「妹の手紙を読んだくせに、線香一本上げに来ない」
「それは……」
 痛いところを突かれ、妖彦は口ごもった。Dはその隙間に乗じるように、
「いいよ、来なくて。それだけの金があったら、利子を付けて返してくれ」
 と唇をへの字にすると、右手を差しだして、嫌みったらしく上下に揺すった。
 妖彦の全身の血液が沸騰した。感傷も世話になった恩義も吹っ飛び、
「それなら私も言わせてもらう」
「まだ言い訳する気かよ」
 Dは顔を皺だらけにした。
「臭い顔するな」
「俺の顔より、この部屋のほうが臭え」
「黙れ。勝手に入ってきやがって。不法侵入で訴えるぞ」
「やってみ」
 Dはにやりと唇を歪めた。
 妖彦はクッと喉を詰まらせた。ぐわんぐわんと熱風で煽られた。できないとわかっていて馬鹿にするDの態度に、怒りがこみ上げたのだ。
「それなら、言うぞ」
「警察が信じるかな」
「そうじゃない。金のことだ」
「おお、返す気になったか」
「逆だ。私に返せ」
「お前に?」
「そうだ。私がお前に貸しているのを忘れたのか」
「おいおい、何だよそれ」
「とぼけるな。たしかにあのときの中華料理屋ではおまえが払った。私は払っていない」
「それなら、すぐに……」
「黙れ黙れ。最後まで人の話を聞け」
「おまえこそ、人の話を……」
「おまえが人か」
 Dは肩と目尻をぴくっと揺らした。
 やっと一本取った。さらにもう一本とばかり妖彦は、ざまあみろ、とあざ笑い、
「銀座の喫茶店で『やがて空から…』の打ち合わせをしたとき、お前、昼飯がまだだってドリアを食っただろう。打ち合わせだから、そっちが払ってとうぜんなのに、お前金を忘れたから、貸してくれって」
『やがて空から…』というのは、そのとき私が書いた短編のタイトルである。
「あのときは、おまえだって何か注文しただろうが」
「したよ。アイスコーヒーを。私のほうはそれだけで四百円。おまえはドリアとアイスコーヒーで千四百円。つまり私はあのとき、千四百円貸したままだ」
 渋柿でも食ったように顔を歪めたDだったが、チッと舌を鳴らし、
「いいよ。それなら差額の六百円、返せ」
 とまたしても右手をさしだす。
「いや、それだけじゃない。あれは『へらへら転校生』の打ち合わせのときだ。新宿の滝沢で打ち合わせしたとき、お互い千円コーヒーを飲んで、てっきり打ち合わせだからおまえが払うと思って恐縮してたら、銀行で下ろし忘れたから立て替えてくれって、私に払わせたじゃないか」
 妖彦はいきり立ち、もしDがしらばっくれたら切り出そうと、そのときの状況を記憶の表面に引っ張り出す。滝沢の混み具合、どの席だったか、隣りにどんな客がいたか、ウエートレスはどんなだったか。これまで何度も何度もこころの中で反芻してきただけに、すぐにでも言葉にできる。
 けれども、Dも思いだしたらしい。一瞬、しまったとばかりに目を見開いたのだ。そのくせすぐに、フンと鼻を鳴らし、
「ったく、せっかく来てやったのに」
 と吐き捨てた。
「誰が、来てくれと言った。勝手に来やがって、人をおどかしたのは、お前だ。昔からそうだ。だいたい金だけじゃない。お前くらい見栄っ張りで、裏表があるやつは……」
「つきあってられねえよ」
 Dは両手を上げて、人を馬鹿にしたように横を向き、
「いらねえよ。金なんか。くれてやる」
 と言った。妖彦はますます頭に来た。
「計算もできないのか。千四百円プラス千円で二千四百円だ。差額の四百円返せ」
「ふん、知るか」
「何だと。しらばっくれるのか」
「ああ、その通り。死んだんだから、返す義理はない。それに俺が借りたって証明でもできるのか?」
「証明って……」
「できねえくせに」
「てめえってやつは」
 妖彦は両の拳をにぎった。
「殴っても素通りするだけだぞ。やってみるか?」
 Dは身を乗り出し、ふてぶてしく片頬を差しだした。
 限界だった。全力でぶん殴れば、少しはDにも痛みが伝わると思い、力を込めて、右の拳を振るう。
「きゃっ」
 背後から女の悲鳴がした。が、それどころではない。右手を押さえ、妖彦はうずくまる。
「井之さん、何を……」
 ふり返ると、女が立っている。Dの妹だった。ここは……と見回すと、墓地だ。今、妖彦が全力で殴ったのは、墓石だったのである。
 激痛に酔いが醒め、思いだした。Dの妹の手紙を読んだ妖彦は、感傷にかられて、夜が明けると最寄りの駅から、電車を乗り継いで、ここまでやって来た。その間、ずっと飲みっぱなしだったので、現実にいるのか、幻なのかわからない状態だったのだ。
 そんな状態で、Dの実家に電話し、Dの妹と待ち合わせて、ここまで来た。
 ――井之さん、だいじょうぶですか? だいぶ酔っているみたいですけど。
 ――なに、いつものことです。あいつとはいつも飲んだくれてましたから。
 そんな会話をしながら、ここまで来た。わざわざ来てやったというのに……。
「その仕打ちがこれかよ」
 妖彦は墓石を睨んだ。墓石がふてぶてしく笑うDとだぶった。
 さらなる怒りが腹の底からこみあげてきた。あまりの激しさに、胃がねじれ、こみ上げるものがある。
 まずい、と思う以上に、これだとばかり、思い知れと心で叫びながら――。(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』