(PDFバージョン:torikago_zusikei)
去年の年の暮れに、十年来持っていた鳥籠を処分した。
買ったのは香港で、値段は日本円で一万円ぐらい。竹細工でてっぺんがドーム型のよくある鳥籠だった。香港の市場でみた瞬間、猛烈に欲しくなった。鳥屋のおじいさんに交渉して、思い通りの形でスーツケースに入る大きさを探してもらった。
一緒にいった友だちは、「鳥も飼わないのに、そんな高い鳥籠を買って」と呆れていた。だが、どうしてもどうしても欲しかったのである。ブランドのバッグより、化粧品より、その鳥籠が欲しかった。
その鳥籠は今はない。だから思いだしながらこれを書いている。青磁の小さい水差しとえさ入れがついていた。巣もあった。
いつでもみえる場所に十年以上ぶら下げていたのに、形状についてうまく説明できない。みるたびに、「こんなパーツがあったのか」と驚いた。埃がつくので、普段はカバーでおおっていた。鳥籠をながめるのは特別な楽しみだったので。
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つくづくながめながら、これはどういう種類の愉悦なのかとよく考えた。思いついたのが、『気休め』だった。本当にながめていると、気分が楽になったのだ。
空の鳥籠相手に物語をつむいだり、ということはまったくなかった。
物語性を楽しむのなら、鳥籠ではなくドールハウスを買ったと思う。
ドールハウスは、ミニチュアの階段や家具をみて、そこに暮らす自分の姿やこびとの家族を空想して楽しむ。物語が立体化して奥行きを持つ。
鳥籠には、そうした物語性の肉付けはなかった。
あるのは錯視に近い感覚である。
曲線と直線、平行線が、厳密に配置されている。ワイヤーフレームの3D画像が、現実に立ちあがってくれば、こうだろう、と思う形状に一番近いものが、鳥籠なのである。
日に一度、カバーをはずして鳥籠をのぞきこんだ。
ワイヤーフレームのドームの真下に、平行線が二本、クロスしている。その下へ目をおろすと、同一平面上に並列に直線がある。球形の巣がある。クラインの壷のような小さな青磁の水差しがある。水差しには龍と牡丹が描かれている。
底は、新聞紙を敷けるように二重になり、竹の升目がかさなりあってみえる。
こうしたものは一目で視野に入るのだが、一度に憶えきるには情報量としてちょっとばかり多い。その少しの過剰さのせいで、毎回みるたびに、おや、という感覚が生じる。
その認知のズレの感覚が面白かったのである。
十年考えて納得がいったので、処分した。
目が慣れる、というのは新奇性がなくなることを意味している。鳥籠は、わたしにとって目新しいものではなくなったのだ。
鳥籠を買ったとき、鬱病が悪化しつつある時期だった。
香港から帰って半年ほどで、朝刊が読めなくなった。新聞を開くのだが、そこに書いてある文字が理解できなかった。文字の形は知っている。言葉の意味もわかる。だが、文章としてのつながりが理解できないのだ。当然、仕事ができない。書くことができても、自分の書いたものが読めないので、仕事にならないのである。
「新聞が読めない」
とわかった瞬間の解放感は、はっきりおぼえている。
仕事しなくてもいいんだ、と思ってすごくうれしかった。(治ったあとが地獄だったが……)
病気になった原因は、介護と仕事と育児である。育児で細切れ睡眠になり、仕事で睡眠時間が減って、介護のストレスで壊れたのだ。言語中枢のどこかが最初に逝ったらしい。壊れるのは一番使うところだから、運送屋さんが腰をやられるように小説書きも頭が壊れるのだろう。
鬱病の人は、一般に情報処理能力が落ちる。体感としては、通常時の二割ぐらい。なので、人と顔をあわせての対話が一番むつかしい。
目で相手の表情をみながら、話を処理して自分がなにを話すか考えるのは、本人の処理能力をこえるのである。そのため、会話中、視線をほとんど動かすことができない。鬱病独特の表情になる。わたしもかなり怪しい人になっていた。(今もそうかもしれない)。自転車も二度ほど電信柱にぶつかったので、処分した。
本が読めない状況で、気休めがなかったときに、鳥籠はちょうどいい娯楽だった。
悪かったときは、日がなボーッとながめていた。最初のころは、みているだけで気持ちよかったのだが、頭がだんだん復調してくると、「籠の鳥」とか、自分の心を閉じこめていることの具象か、などという考えが浮かんでくる。これは凹んだ。
テキスト的な肉付けが、視覚の遊びの邪魔になったのである。
完全に治ると、鳥籠をながめることもなくなった。
こういう話の場合、鳥籠は、病気のわたしのお守りだった、と結ぶのが流れとして自然だろう。しかし、そこまでの思い入れは鳥籠にはないのである。
鳥籠になんの物語も持てなかったせいかもしれない。
腰を壊した運送屋の人が治ったあとで、コルセットをながめたとき愛おしいと感じるだろうか? 病気が治ってよかった、という安堵感とともに、古いコルセットをちょっとうとましく思うにちがいない。
わたしが鳥籠に対して思うのも、安堵感とうとましさである。
次に病気になったときのために、とっておくかどうかも、ちょっと考えた。
腰とちがって、頭の場合、同じ場所が壊れるとは限らない。しかし万一、同じ症状になったとしても、この鳥籠には効果はない。なぜなら見慣れてしまったからだ。どうせなら新しいものが欲しい……、と思ったので、捨てたのである。
もし、鳥籠をほしいと思いはじめたら、それは病気の兆候かもしれない。
図子慧既刊
『晩夏』