(PDFバージョン:robottoenngekirupo_takatukimaki)
ロボットが俳優となり、人間と共に舞台に立つ。劇作家の平田オリザ氏とロボット研究者の石黒浩氏が手を組み、大阪大学でプロジェクトを進めている。報道で知ったときにはいささか奇抜な印象を抱いたものだが、実際に見てみると、予想しなかったほどにドキドキさせられた。確かにSFファンなら一度は観たい、と思う。とはいえ、それはあくまでハード的な関心なのだと思い込んでいた。だが違った。架空ではない実在のロボットが物語の上に乗って登場するということが、とても興奮させられるのだ。
現在再開発が進んでいる大阪・梅田北ヤードに、ロボットの拠点ができるのだという。「ナレッジキャピタル」というその施設が完成するのは2年後の2013年。そこで何をどのように見せていくべきなのか、何度かモニター調査を行い、企画を磨いていく必要がある。その一環として先日、大阪市内でロボット演劇をはじめとするIT関連の企画がそろい一斉に披露された。梅田北にロボット演劇の常設小屋を作り、観光拠点として育てていきたいというのだからかなり壮大な計画だ。
8月28日、中之島のABCホールで上演されたロボット演劇2本「さようなら」と「働く私」を見ることができた。ここでの観客の反応を参考にして、実際に上演される演劇のスタイルが決められていくことになる。
「さようなら」は人間を精密にコピーした「ジェミノイド」を使った約15分の小品。人間とロボットが向かい合って会話する。かなり人間に近づいているとはいえ、まだ「不気味の谷」の向こう側にある印象を受ける。違和感を和らげるためか、人間の俳優は金髪の白人女性で、片言の日本語をしゃべる。どちらが人間でどちらがロボットか区別がつかない、といったP・K・ディック的な世界はまだまだ遠い。だが、2人の「俳優」によって語られる、「ジェミノイド」が世界中にあまねく散らばった少し未来の世界の物語は、SFファンには本当に興奮させられる。虚構ではなく、現実に存在するロボットがフィクションの片棒を担ぐということが、SFが現実化していく瞬間を感じさせてたまらなく刺激的なのである。
2本目の「働く私」は、三菱重工業の開発したヒト型ロボット「wakamaru」2体と人間の夫婦による20分ほどの作品。こちらは「さようなら」に比べて、はるかにリアルに感じられた。「ジェミノイド」を現実に受け入れるためには、ある程度目をつぶる必要があるのだが、こちらは普通に見ていてもまったく違和感がない。驚いたのは、人間をあまり模倣していないwakamaruの方がはるかに人間らしく感じられたことである。まるでガイコツのような容貌で表情はまったく変化しないというのに。
劇中でwakamaruは悩み、嘆き、思い煩う。そのあり方は人間となんら変わらない。なぜそんなことが可能だったのか。演出を担当した平田オリザ氏は、稽古場にパントマイムの演者と文楽の人形師を引き入れた。人間らしく見せるための先人たちの知恵を研究した上で、wakamaruの動きに取り入れていったのである。
上演後のトークで平田氏が明かしてくれたが、平田氏の演出方法は「バカヤロー! もっと魂を込めろ!」などと怒鳴って灰皿を投げる、というようなものではない。そもそも灰皿を投げつけられてもロボットは演技を改善しようがない。「もう5度首を右に傾けてみて」「もう2秒遅く今のセリフを言って」などなど、もともと平田氏の演出方法は、非常に唯物的で、ロボットに演技をつけるにはうってつけだった。舞台は9メートル×5メートルの空間が1メートル角で45コマのメッシュに切られ、演技の一瞬一瞬で立ち居地が厳密に定められた。共演した俳優たちは「自分たちへの演技指導とロボットへの演技指導がまったく変わらない」とショックを受けたそうだ。
そんなことで演技がつけられるのだろうか。実際に見た感想としては「十分機能している」といわざるをえない。ここで恐ろしいことが判明する。もちろん舞台上で嘆いたり悩んだりしているロボットたちは、本当に悩んでいるわけではない。だが、それは人間の俳優であっても同じことだ。だとしたら、十分に感情があるように見えるようになったロボットは、人間と同じ感情を持つといってもいいのではないか。そんなはずはない、と反論する方もいるだろう。
だが、私たち人間も子供のころから、周囲の反応を見て試行錯誤しながら自分の意識を組み立てていくのではないか。ロボットも同じだろう。他者の反応の集積とそこから導き出される出力としての感情表現。そのデータの塊をわれわれは「意識」と呼んでいるだけなのではないだろうか。実は「意識」は、他者の存在なくしてはあり得ないのではないか。「われ思うゆえにわれあり」ではなかったのだ。ロボットについて考えているはずが、いつの間にか人間について多くのことに気付かされる。
そんな表情豊かなwakamaruが演じるのは「働きたくなくなってしまった」という感情。欝を発症し働けなくなった人間の男と「働きたくなくなった」ロボットとの交流。かつてSFがそんなものを描き得ただろうか。SFが描いてきたロボットの大半は無敵のスーパーヒーローか、あるいはぎこちなく動き融通の利かない「しゃべる機械」ではなかったか。だが実際に実現されたロボットが演じるのは、こんなにも微妙で繊細な世界なのだった。それはSFにとっても極めて刺激的で学ぶべき多くの要素を持っている。
ロボットが実用化されたからといって、ロボットがいる世界は即座に普通小説化するわけではない。そこにはまだまだ、新しいSFの可能性が膨大に眠っている。人間たちが退場した後、2体のロボットが夕陽を見つめながらつぶやく幕切れのセリフは、SFから見ても多くの示唆に富んでいる。
「でも、僕たちは、まだ、そこまで、進化していない」
残念ながらロボット演劇を目にする機会はまだまだ少ない。しかし幸いなことに、研究の成果は一冊の本「ロボット演劇」(大阪大学出版会)にまとめられ、「働く私」の台本もこの中に収められている。カラー写真や図版も豊富で、この本を読めば、ロボット演劇の可能性について多くのことを知ることができるだろう。
二年後、ナレッジキャピタルにて、私たちはどんなロボット演劇を目にすることになるのだろうか。可能性はまだまだ広く、深い。
※筆者付記・この原稿は2011年10月6日に執筆しました。今後の政治の動きによっては、ナレッジキャピタルは大幅な縮小を余儀なくされる可能性があるそうです。関係者の賢明な判断を祈るばかりですが、何にしてもここまでに成し遂げられたことがどれほどのものであったか、ここに記録しておこうと思います。(高槻 真樹)