「ドラキュラ馬鹿一代」吉川良太郎

(PDFバージョン:dorakyurabakaitidai_yosikawaryoutarou
 世に「ドラキュラ馬鹿一代」といえばルーマニア出身の俳優ベラ・ルゴシ(1882~1956)のことですが。いやたぶんぼくしか言ってないと思うが。そもそもこんなところにこんな話を書いて「ルゴシキター!」とか喜ぶ人がどれだけいるのかと三行目で思い至りなにやってんのぼくはと自問せざるを得ずじっと手を見ております(あ、頭脳線が短いよ!)
 えー。なんといいましょうか。ヘンリさんからコラムの御依頼を受けたんですが、実はあんまりSFの素養がない人間なので(実は、でもないか)前回は一応ぼくのホームであるところのフランス文学にからめた話でお茶を濁したものの、二度目となるとなにを書いたものやらこまってしまいまして。急な来客でなにも準備がないんだけど、そんな時は家にあるものを工夫して何か一品つくるのが主婦の腕の見せ所なのよ、と思って冷蔵庫を開けたら納豆とブルーチーズしかなかった。そんな心象風景。
 いいんだよ! 明日も明後日も使えないムダ知識の墓場、それがオレのコラムだ! と叫んでみてもまるで怪獣墓場のシーボーズの鳴き声のよう。

 気を取り直して。えー。今回は吸血鬼について考えてみたいと思います。
 各自、目を閉じて心の中で山本直純のお囃子を聴いていただいたところで。
 スタンダードな吸血鬼といえば棺桶で寝起きしマントを翻して夜をさまようおなじみのイメージを思い浮かべますが、最近はもうなんでもありですな。ガンアクションやってみたり、狼男の一族とケンカしてみたり、ホストクラブで働いてみたり、女子高生と恋に落ちてみたり、ヴィクトリア女王と結婚してみたり、ゲイカップルになってみたり、ウィル・スミスだけ村八分にしてみたり。さすがにロックスターになってみたりするのは自分を見失ってる気がしましたが。あと吸血鬼の女戦士が身内の裏切り者を倒す手段が「長老に告げ口」ってどうなのよ。クラス委員長か。と書いていたらちょっと好きになった。ケイト・ベッキンセイルはメガネをかけなさい。さあ早く! まあそれはいいんだ。閑話休題。
 そんな自由な吸血鬼像が今この時も世界各地の作家たちによって生みだされていることは御存知の通り。かく言うぼくもアルラウネになったサディストの少女が義理の弟を踏みつけて足から血を吸う(植物だから)というダークファンタジー変態小説『吸血花』を書きましたが(『短編ベストコレクション2009』所収)
 かくもイマジネーションが広がる吸血鬼だが、かつてそれは想像上の怪物などでは決してなかった。少なくとも近代以前の人々にとっては「実在」するモンスターであり、驚くなかれ、十八世紀半ばくらいまで「実在する」とかたく信じられていたのだ。
 ちなみに吸血鬼の本場、東欧では狼男と吸血鬼がごっちゃに語られていたというから、原初の吸血鬼像はかなり獰猛なモンスターだったのだろうと思われる。末弥純氏の描く『ウィザードリィ』のバンパイア(ハゲ、青い肌、半裸に獣の毛皮。顔はサイレント映画『ノスフェラトゥ』のオルロック伯爵に似てる)みたいな感じだろうか。

 だが十八世紀後半、いよいよ啓蒙主義ブームが高まってくると、迷信の闇に住まう怪物はやがて絶滅に追い込まれていった。なんとなく消えていったのではない。あまり知られていないが、この時代の文献には吸血鬼についての「科学的研究」がべらぼうに多い。ワットが蒸気機関を実用化し、プリーストリーが酸素を発見していたころ、ヴォルテールをはじめ名だたる啓蒙主義者や科学者が著書の中で吸血鬼の真偽について大真面目に論じていたのである。これは逆説的に「当時なお人々が吸血鬼の存在を信じていた」ことの証拠でもあったのだが、科学者たちの答えは当然ノーだった。
 啓蒙。Enlightment。蒙(くら)きを啓(あきら)む。すなわち「光を当てる」の意。吸血鬼にとってそれは最大の天敵だった。ヘルシング教授が何十人も現れたような猛攻勢に、吸血鬼は狼男や魔女、その他諸々の怪物たちとともに、近代の夜明けの中に消え去っていったのだった。

 しかし時は流れて十九世紀、吸血鬼はよみがえった――今度は小説の中に。
 シェリダン・レ・ファニュの「カーミラ」、ジョン・ポリドリの「ルスヴン卿」、そして現代の吸血鬼の神祖、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ伯爵」の登場。彼らはまだ生きていたのだ。「マダ、生キテイル……」といえば矢吹ジョーと対戦したホセ・メンドーサが倒しても倒しても立ち上がるジョーに戦慄しつぶやいたセリフだが、科学の光を当てられ真っ白に燃え尽きたはずの吸血鬼はしぶとくも帰ってきたのである。
 だが復活した吸血鬼たちは、かつての野性味あふれていた彼らではなかった。古城に住み、爵位を有し、どこの社交界に出してもおかしくない優雅な気品を漂わす紳士。灰になったジョーが生き返ったらなぜかホセ・メンドーサになってたような(ちなみに声は岡田真澄)どんなイリュージョンだ。
 どうしてそんなことが起こったのか。
「小説は街路に持ち歩く鏡だ」とスタンダールは言った。
 吸血鬼は鏡に映らないというが、小説の中に復活した吸血鬼自身が十九世紀という時代を映し出していたのである。

 とか思いつくまま書いているうちに時間切れとなりました。ぼくはこれから夕飯作りますので。続きは要望があればまた次回に。セイム・タイム! セイム・チャンネル! さようなら!

 ……あ、冷蔵庫に納豆とブルーチーズしかない。

吉川良太郎プロフィール


吉川良太郎既刊
『短篇ベストコレクション
現代の小説〈2009〉』