「豆腐洗い猫その4 『豆腐洗い猫トーテム』」間瀬純子

(PDFバージョン:toufuarainekototem_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』


 トーテム【totem】
社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結びつけられている自然界の事物。
主として動物・植物が当てられ、集団の祖先と同定されることも多い。(広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店)

一、雛祭りの午後の優美な豆腐洗い儀式

 豆腐洗い猫をトーテムとする一族などが繁栄するはずはなかった。
 幡倉真弓(はたくら・まゆみ/人間/オス)は、豆腐洗い猫を崇拝する一族の末裔であり、現在、彼の知る限り、唯一の生き残りだった。
 幡倉真弓の、何となく立派な名前から察せられるとおり、幡倉家は、かつては明治の元勲の親戚の出入り商人の番頭という栄華を手にしていた。山手線の内側に建つ、広壮な屋敷で過ごした少年時代を、真弓は夢のように覚えている。

 ああ、幡倉家の人々は、この栄華も豆腐洗い猫のおかげと信じていた。
 猫でありながら、あの崩れやすい豆腐を洗う、そんな難事業をなしとげるのならば、何でもできるはずではないか。
 豆腐を洗うのは、女たちの営みと密接に関わり、だから、豆腐洗い猫を祭るのはもっぱら一族の女たちであり、メインイヴェントは、雛祭りの日に行われる、豆腐洗いの祭典である。

 三月三日の午後、中庭に面した座敷に、振袖姿の若い叔母たちが、とろけるように座り、甘酒を優雅に口に運ぶ。お雛様の緋毛氈が、あまり光の当たらない座敷の奥に深く沈んでいる。
 少年の真弓もその日は紋付き袴を着た。紋は豆腐絞りである。少年は母に手を取られ、中庭に出た。ぼうっとした陽光があふれている。中庭の奥にある築山の石段を、母に手を引かれて、一段一段登っていく。薄桃色の梅や椿が咲き、蜂の羽音がした。
 築山の頂上には、タチバナの大木がこんもり繁り、その木陰に、樹木に守られるように、小さな朱塗りの鳥居が建っている。鳥居の先にはカメムシの厨子がありとても臭い。厨子の中には、素朴な木彫りの豆腐洗い猫の像が鎮座している。
 優しい母が神像に向かって手を合わせてみせた。真弓も見よう見まねで神像を拝む。母は丸髷を傾け、白い美しい手で真弓の髪をかきあげ、耳元に囁いた。「真弓さん、私たち一族の神様ですよ、いつも真弓を見守ってくださいます。よく拝むのですよ」

 参拝をすませて座敷に戻ると、中庭の枝折り戸の外から、使用人頭の中村さんの声がした。「奥様方、お嬢様方、さあご覧くださいませ」
 幡倉家の女たち、懐かしい母や祖母、独身の叔母たちが縁側に移動した。いつの間にか、中庭には、縁側と平行に、水を張ったタライがずらりと並べられていた。
 中村さんが枝折り戸を開けると、この日のために集められた近所の猫がいっせいに中庭に飛びこんできた。一〇八匹の猫が、一匹につきタライ一個に向かい、水に浮かんだ豆腐を洗いだす。
 縁側の上から、美しい叔母たちが、豆腐を洗う猫たちの愛らしい仕草のひとつひとつを、指さしては笑いさざめく。
 春風に女たちの香水の匂いが漂う。翡翠や鼈甲のかんざし、よく拭き浄められた清潔な縁側に眩しく広がった長い振袖の袂の、その柔らかい絹に鮮やかに描かれた春の花や御所車や手鞠、縮緬の帯揚げが、春の午後の、まるで水の中にいるようにおぼろに霞んだ空気の中で、ちらちらと白金色にまたたいた。
 座敷にちんまり座った曾祖母が、重々しく猫たちの品定めをした。「うん、あの白いのがいいね、あっちのキジ猫はちょっと洗い方に品がないね」
 一〇八匹の猫たちはぼってり座り、真剣にタライにうつむいている。素早く前足をタライにつけては、豆腐を洗い、すぐに手を引っ込め、小さな手をぶるぶる振って水を切る。その仕草は大変かわいいのだった。
 その後はもちろん豆腐づくしのご馳走であった。

 幡倉家の屋敷はとうになくなり、美しい叔母たちも四散してしまった。悲惨な運命をたどっているのではないかと、深夜、真弓は彼女たちのために枕を濡らした。

二、豆腐谷(とふだに)盆地の民俗探訪・人柱儀式

 幡倉真弓は、長じて民俗学者になった。
 しかし彼には民俗学者として致命的な欠陥がある。内気で繊細な彼は、コミュニケーション能力が低く、実地調査先の村の古老から話を聞きだすなど不可能だ、というか世間話すらできない。挨拶するだけで何か引かれてしまい、村の古老は舌打ちをしたり塩を撒いたりして、わらぶきの家の土間に去っていくのだ。

 もう二十年も前になるであろうか。大学に在学中、担当教官のK教授に論文提出後、面談した時のことである。
 研究室のソファを勧め、自分はデスクの回転椅子に座ってK教授は言った。「幡倉君、君の論文によると、豆腐洗い猫神の信仰は、各地を遍歴しつつ豆腐を売る商人が、猫を連れて、市や社寺の門前で、猫に豆腐を洗わせる芸能をしつつ豆腐を売りつつ、何らかの宗教活動を行ったために、発生したというわけですね……」
「……は、はい……、まだ仮説で……さらに……あの、彼らは……、タライを持って、踊りも踊った……猫も」(幡倉真弓は話し下手である)
 K教授は、当時出始めたばかりのワープロ打ちの論文をぺらぺらめくりながら、言った。「幡倉君、よく調べているのは認めます。君の真面目さはレジャーランド化した昨今の大学では大変、貴重ですが」K教授は当惑したように続ける。「うーん、僕は動物学をよく知らないから断言はできないけれど、……リアル猫は豆腐なんか洗わないよ」

 その言葉は雷のごとく幡倉真弓を撃った。

「いえ、猫は豆腐を……」洗うにゃ! 洗うにゃ! 洗うにゃ! と、架空ねこ軍団が熱烈に同意した。架空ねこ軍団はいつも空中を飛びかっている。そして、あなたが賛同が欲しい時、力づけて欲しい時、無責任にあなたの意見と感情に激しく同意する。
 そうにゃ! そうにゃ! そうにゃ! とはいえしょせん、架空ねこの集団だから、K教授には通じなかった。
 それではいったい、幼いころに幡倉家の中庭で見た、今でもはっきり脳裏に映る、一〇八匹の猫が豆腐を洗う姿は何だったのか。猫たちはタライに張った透きとおる水に前足をつけ、絹ごし豆腐や木綿豆腐をぴちゃぴちゃ洗っていた。あれが幻だというならば、幡倉真弓の半生は幻に支配されていることになる。

 いや! そうはいかない! 豆腐洗い猫信仰の実在を探しださなければならない! そうにゃ! そうにゃ! そうにゃ!
 そして幡倉真弓は、コミュニケーション能力皆無という不利な条件をものともせず民俗学の道に本格的に踏み込んだのだ。そして現地調査に行きあちこちで無視された。もちろん学界でも無視された。

 幡倉真弓は、それでも頑張って、新たな調査のために豆腐谷(とふだに)盆地へ向かった。豆腐谷盆地のさらに奥の、奥豆腐谷こそが幡倉家の父祖の地だった。豆腐谷や奥豆腐谷には、豆腐洗い猫信仰がまだ残っているかもしれない。
 電車を乗り継ぎ、ショッピングセンターや温泉宿のそろった豆腐谷駅に降りたが、青く切り立った山並みに囲まれた、駅前商店街には人気がまったくなかった。
 ロータリーに停まった奥豆腐谷行きのバスも無人で、フロントガラスに『本日休み』の札が下がっている。幡倉真弓は困惑し、観光センターやキオスクを覗くが、無人だ。これでは聞き取り調査もできないではないか。

 駅員が駅のシャッターをガシャンと閉めた。駅員たちは連れ立って小走りに駆けていく。「あの、……(どこに行くんですか)」もう接客モードを終えた駅員たちはもちろん幡倉真弓を無視し、いかにもわくわくした様子で軽自動車に向かう。「世紀の一戦だな!」「牧貝選手のホームランボールを貰うぜ!」
 豆腐谷盆地六万人の住人はみんな、野球場に行っているのだ。『豆腐谷トーテムズ』対『猫山ニャーちゃんズ』の試合の日なのだ。仕方がないから、あまりお金を持っていない幡倉真弓は豆腐谷球場まで歩いていった。
 割れんばかりの声援が、球場の外にも響いてくる。
 入場チケットを買えない幡倉真弓が、球場の駐車場に座りこんで試合が終わるのを待っていると、ピカピカのトヨタのプリウスが流れるように入ってきた。
 運転席からさっそうと降りたのは、働き盛りの、自信にあふれた男だった。きれいな奥さんと可愛い男の子と可愛い犬(犬種はジャックラッセルテリア)が続いて車から降りる。磊落に笑う男は、幡倉真弓の大学時代の同級生だった。当時の同級生は、テニスサークルにいてラガーシャツの襟を立て、ボディコンを着た人間/メスとクリスマスイブに赤阪プリンスホテルでデートだった。
 同級生は財布から六八〇〇〇円札を出し、露店に並んだ、豆腐谷トーテムズの球団グッズや犬用のお菓子を次々に買った。六八〇〇〇円札は虹色に光っていた。
 高額紙幣を見慣れない幡倉真弓は六八〇〇〇円札などというものが出ていることすら知らなかった。札はここ数年、千円札しか見ていない。
「お父さん、豆腐谷トーテムズの最強打者、牧貝東五郎(まきがい・とうごろう)選手のサインボールが欲しい」子供が言った。
「ああじゃあ、お父さんがmy人脈を駆使して貰ってやるからな」
 洗練された美人で知的なお母さんが言った。「健人、お父さんもお母さんも忙しいのよ。ねだってはいけません」いかにも賢そうな子供が、両親を見上げて答える。「豆腐谷トーテムズの牧貝東五郎選手は歴史的な名バッターとして後世に名を残すでしょうから、そのサインボールは、将来確実な利益を生みますよ」
 ジャックラッセル犬のココアちゃんもそうだというように、ワンと鳴いた。

 幡倉真弓は感慨にひたる。ああ、昔、野球のニュースを見て、『誰々が殿堂入り』という言葉を聞いては、なんか、生きたまま、その選手が白亜のギリシャ神殿みたいなところに閉じこめられるのだ、その殿堂の中でさらに、透明アクリルとかの中に封じこまれ、名前と功績を刻んだ札をつけられるのか? と想像して恐怖していた自分と彼らとのなんという違いであろうか。
(置き去りになった人物は、事実を確かめる術を持たない。ゆえに、彼/彼女のまわりでしばしば信じがたい奇妙なできごとが起こるのも不思議ではない)
 あちこちほつれた背広に登山靴、黄色いリュックサックという姿で駐車場の隅にうずくまっている幡倉真弓を、かつての同級生はまったく気づかない。晴れがましい三人と犬は、楽しそうに球場に消えていった。

 ……豆腐谷トーテムズの最強打者、牧貝東五郎選手の打順が回ってきました!
 ウグイス嬢の声がする。『四番バッター、牧貝東五郎、四番バッター、牧貝東五郎』アナウンサーが言う。『さあ、豆腐谷トーテムズ満塁です。バッター牧貝、ホームランが出るか!』
 歓声はいよいよ大きくなるばかり、『猫山ニャーちゃんズのピッチャー大野、大きく振りかぶりました。第一球、投げます!』球場中の観衆が見守る中、百八十キロの剛速球がホーム目掛けて飛び出した。
『あああ! デッドボールだ!』
 硬球は牧貝東五郎選手の鍛えあげた横腹に大きく食い込んだ。
 続いて内野手も外野手も、それぞれグローブからボールを出し、バッター牧貝東五郎に向かって凄まじい勢いで投げつけた。
 塁に出ている味方チームの選手も全員、ポケットからボールを取り出し牧貝東五郎にぶつけた。全員の球が牧貝選手に命中した。さすがプロ野球選手の怖ろしい投球力だった。牧貝選手が血を吐きながらうめき、ホームベースに膝をついた。
 ホームベースは血と肉で真っ赤に光った。

 観客も一人一球ずつボールを持ち、次々と牧貝東五郎選手に向けて投げ始めた。ウグイス嬢もアナウンサーもボールを投げた。

 牧貝東五郎選手は六万個のボールに埋もれて息絶えた。これは野球ではなく、人柱儀式だった。大宇宙の、公団住宅の十四号棟一階におわす一神教の神に捧げる生贄である。日本野球史に残る強打者・孤高の天才・牧貝東五郎ほど、聖なる神への生贄にふさわしい人物がいるであろうか。
 牧貝東五郎選手を捧げられた一神教の神は宇宙からこの模様を見、お怒りになった。「間違った方法で礼拝する人は予を侮辱するに似たり」
「豆腐あれ」と神は言われた。神がおられる、宇宙の公団住宅の十四号棟一階の、ゴミの落ちた庭の隅では、一神教の神の使い走りである、妖怪で零落神の豆腐洗い猫が怯えている。
 神は言われた。「豆腐あれ。増えよ、かの広き球場じゅうに満ちみちよ」

 野球場に豆腐が氾濫し、人々は豆腐と硬球の中を這いまわりキャッチボールをしつつ、豆腐を食べて暮らした。これが豆腐谷・人間豆腐牧場の由来である。元・豆腐谷市民は、豆腐を食べては豆腐を排出した。豆腐は、人々の腸の中を通る際に、腸内細菌? とかの働きを受け、よりおいしい豆腐にブラッシュアップされるのだ。遠くの街からも豆腐マニアが豆腐牧場に豆腐を買いに来た。

 幡倉真弓は、野球場が豆腐牧場になる有様をぽつねんと見守っていた。痩せた猫が一匹、球場からあふれ出た豆腐の匂いを嗅いだ。もちろん、その猫は普通の猫だから、豆腐を洗いもせず、どこかへ行ってしまった。K教授の言葉が蘇る。『リアル猫は豆腐なんか洗わないよ』

「教義を間違って解釈するとああいうことになるんです」
 一神教の勧誘員が、呆然としている幡倉真弓に言った。
 勧誘員は勧誘語句を喋りだした。「忙しい毎日をお過ごしのことと思いますが、そんなせわしない日々の中で、時折お考えになりませんか。あの、神のことを……」

三、天使になった豆腐洗い猫が神の祝福

 零落神で妖怪の豆腐洗い猫は、本当に落ちぶれて、一神教の神の使いっ走りになっていた。
 奴隷境遇なので、豆腐も洗えず、肩甲骨の上の柔らかい毛を剃られ、布ガムテープで天使の羽を貼りつけられていた。ガムテープの糊が皮膚にちくちく痛い。
 まあそんな姿で、上司の神に命令され、罪悪にまみれた球場の様子を見に来たのである。
 豆腐谷球場にあふれる豆腐を洗おうとすると、遠隔操作で空に引き戻され、上司の神から雷で撃たれた。
 罪のないものは助けよ、と神は豆腐洗い猫に命じた。罪のない者などないのが豆腐洗い猫のボスの教えであった。
 ただ、幡倉真弓のかつての同級生が飼っていたジャックラッセル犬のココアちゃんだけは牧貝東五郎選手に投げる球を持たなかった。だから豆腐洗い猫は、豆腐の表面でボールを追いかけるココアちゃんを猫爪に引っかけ、ニセの羽を羽ばたかせ、宙に舞い上がった。ココアちゃんがうなりながら、猫の腕を囓る。豆腐洗い猫は歯を食いしばって痛みに耐え、犬を球場の外に下ろした。ココアちゃんを家族の一員として迎える、素晴らしい飼い主もみつけた。ココアちゃんは、新しい家族の車に乗り、楽しく帰っていった。

 会話能力のない幡倉真弓は、勧誘員に、切れ切れに答えた。「……いえ、神……僕は民俗学者で……、神考え……る……豆腐洗い猫、あの……お、奥豆腐谷……、トーテム……豆腐谷を囲む山の奥に豆腐洗い猫をトーテムにした一族が……神は豆腐洗い猫……」
 勧誘員は、幻に幻惑されている、目の前の哀れな人物を助けたかった。熱烈に話し続けた。「偶像崇拝ですか? アニミズムですか? そんなのは駄目です。我が神の威力はあなたもご覧になったでしょう。アニミズムのあなた、自然がかくのごとく霊妙なのは何故だと思いますか、それは我が神が緻密に設計したからです、創造する我が神の力がなくて何故このように美しく素晴らしい自然ができたのですか」
「え……、あ……」
 ココアちゃんを無事に助けた豆腐洗い猫は、布ガムテープで貼られた羽で空に浮かんでいたのだが、地上の駐車場に、自分がかつて守護し、また崇拝を捧げられていた一族の末裔がいることに気づいた。今、猫は豆腐を洗っていないので、今の猫は豆腐洗い猫ではなく、幡倉真弓に豆腐洗い猫の姿は見えない。
 豆腐洗い猫は、弱った幡倉真弓に何かしてあげたいと思った。そしてふたたび、上司の神から雷で撃たれた。

 今の猫は、一神教の神の使い走りである。熱心な一神教の信者である勧誘員に、猫は薔薇の花びらを雨のように散らした。もちろん勧誘員さんにだけ降らして、幡倉真弓のところは避けるのである。勧誘員も幡倉真弓も、神の奇跡に驚いた。
 薔薇の花びらは、勧誘員の肩に触れると、一枚一枚が虹色に光る六八〇〇〇円札に変わった。勧誘員が六八〇〇〇円札を一枚、幡倉真弓に渡すと、たちまちそれはカメムシに変わった。

四、奥豆腐谷

 翌朝早く、幡倉真弓は水筒に水を詰め、山に入り、奥豆腐谷に向かった。山は紅葉している。幡倉真弓は雑木林の中の、深閑とした一本道をとぼとぼ登っていった。切り立った崖の下を歩きながら、崖を介して空を見上げると、平衡感覚がおかしくなり、青空を雲が動いているのが、まるで地面から雲が湧きだしているか、地面から雲が落ちていくように見えた。
 勧誘員が追いついてきた。そして彼の神の素晴らしさについて語った。
 豆腐洗い猫は、幡倉真弓の横で真の信仰について語り続ける勧誘員に、数々の奇蹟を起こした。おいしそうなケーキが宙から落ちてきたり、素敵な恋人ができたり、宝くじが当たったり、山の動物たちが慕って走り寄ってきたり、ノーベル勧誘賞受賞のお知らせが届いたりした。
 聖なる勧誘パンフレットから神の声がした。『予の忠実なる騎士よ。語り部よ、そなたの行く道には栄光があり宇宙に至ろう』おお! 神が語りかけてくれた! 
 勧誘員が言う。「猫が豆腐を洗うなどと、本当に信じておられるのですか。神はこの栄光ある宇宙に、そのようなくだらないものをお作りにはなりませんでした。……いえ、それは神が冗談を解さないということを意味しません。自然には笑える事柄がたくさんあります。例えば」
 日本猿が通りかかり、バナナの皮で滑って転んだ。勧誘員は大笑いした。もちろんバナナの皮は豆腐洗い猫が置いたのである。「神はユーモアをお持ちです」
 幡倉真弓は初めてまともなセンテンスを喋った。「でも、僕は実際に猫が豆腐を洗うところを見たんです」

 豆腐峠を越えると奥豆腐谷である。峠を下ってしばらく行くと、ブナやカエデの広葉樹林を伐り開いて、わらぶきの小さな家が一軒、建っていた。
 呼びかけても返事はない。扉は開いている。幡倉真弓と勧誘員は、粗末な家の中に入った。土間があって、一段上がったところにムシロを敷いた居室があるが、誰もいない。
 囲炉裏には火が入っている。南部鉄器の鍋がかかり、ムカゴとかムカデとかが煮られている。家の裏手から小川のせせらぎが聞こえる。真弓は、裏口から外を覗いた。
 裏口を一歩出ると狭い大根畑だった。畑は数メートル先で崖になっており、崖の下が小川らしい。畑を突っ切ろうとして、幡倉真弓は大根の葉の陰に驚くべき光景を見た。タライに水が汲まれ、白い清らかな豆腐が浮いている。タライの横にかがみ込んだ猫が、前足をタライに突っ込み、豆腐を引っ掻き、洗っているではないか!
 勧誘員も驚いた。
 幡倉家に仕えていた老人が、川から洗濯物を抱えて上がってきた。元・使用人頭の中村さんであった。「おお、真弓様! まあご立派になって、よくこの爺を訪ねてくださった」
「猫が豆腐を洗って……」幡倉真弓はあふれる涙をぬぐうことができなかった。大昔の雛祭りの午後の豆腐洗い祭りの記憶が蘇る。美しい叔母たち、優しい母の手、猫背を丸めタライにかがみ込んだ一〇八匹の猫たちのこんもりしたシルエットが、ランダムにフラッシュバックした。

 その間にも、豆腐を洗っていない元・豆腐洗い猫が大したことのない神通力を振り絞り、勧誘員にラッキーできごとを次々と起こした。勧誘員が転ぶと、そこから石油と金鉱が出て温泉が湧いた。信者になるという人が山のあちこちから出てきて勧誘員に取りすがって教えを請うた。宇宙の神秘をかいま見た。

 元・使用人頭の中村さんが、幡倉真弓に言った。
「タライにね、豆腐と一緒に、熱帯魚のグラスフィッシュを入れるんです。明治のころはメダカを使っていましたがやはりグラスフィッシュが良うございますなあ」
 ああ、タライの中をよく見ると、体長二センチほどで、肉は透明で、鱗もなく、骨格が透けて見える熱帯魚がちらちら泳いでいた。猫は豆腐を洗っているのではなく、豆腐の陰に隠れる魚を追って、タライに前足を突っ込んでいるのだった。

 幡倉真弓は、そういえば、雛祭りの日のご馳走では、豆腐づくしに続いて、グラスフィッシュ唐揚げとか躍り食いが出たことを思いだした。

    つづく

間瀬純子プロフィール


間瀬純子既刊
『Fの肖像―フランケンシュタインの幻想たち
異形コレクション』