(PDFバージョン:takeutihirosisanntofuruhonnnoomoide_kitaharanaohiko)
竹内博さんの業績には、昔から触れていた。特撮関係では、後から考えると「あれもこれも、竹内さんが書いていたのか!」というものが多かった。
直接お会いしたのは、おそらく一九九五年のことだと思う。一九九四年から〈SFマガジン〉に執筆するようになっていたわたしは、その翌年、横田順彌さんに誘われて日本古典SF研究会(以下「古典研」と略)に入会し、例会に顔を出すようになったのだ。
竹内さんは、特撮研究の第一人者であると同時に、『ゴジラ』の原作者である香山滋研究の第一人者でもあった。そのため古典研に籍を置いて、会報〈未来趣味〉にも執筆しておられた。
例会にもまめに出席なさり、浅学なわたしともきさくに話をして下さった。この例会は隔月で開催されているのだが、その後、他の場所でも竹内さんにちょくちょくお会いするようになった。古書即売会である。
わたしは兼業作家から専業作家になり、金・土曜日に神田の古書会館で開催されている古書即売会に金曜の朝から行ける身分になった。そして開場と同時に行くと、必ず竹内さんがいらっしゃったのだ。
会場内では、お互い古本漁りが先決。顔を合わせても「おはようございます」と会釈して終わり。
また一時期、わたしは金曜アサイチの即売会で古本を漁った後、同好の士とすずらん通りのシャノアールでお茶をするのが通例となっていた。話をしていると、同じ店に竹内さんも入ってくる。だが竹内さんは、一人で席につき、タバコの煙をもくもくと上げながら、黙々と収穫を確認するのだった。そしてお帰りの際に、わたしの前を通れば「どうも」とお互いに会釈して分かれるのだ。そのシャノアールも、今はもうない。
それから、五反田と神田で同時に古書即売会が開かれた時のこと。こういう場合、古本者はどちらか一方を急いで見て、それからもう一方へ移動する。五反田を先にしたわたしは、神田へ移動する際、同じコースを取る竹内さんと一緒になったことがある。電車で並んで坐り、お互いの収穫を見せ合った。竹内さんは、怪獣映画関係の記事が載った雑誌を、嬉しそうに見せびらかしてくれた。
一方、わたしがシャーロック・ホームズ研究をしていることを知ると「こないだ、こんな本を見つけましたよ」と、わざわざホームズ関連の古本を買っておいてくださるようになった。さすが専門の研究分野がある方はそういう配慮も違うな、と思ったものだった。
たとえばポール・ジョバンニ『シャーロック・ホームズ探偵物語 血の十字架』(サン・クリエート/一九八?年)。これは八〇年代に日本でも上演されたホームズ劇の上演台本。もちろん、非売品である。
それから『中学二年コース 新年号臨時増刊 新選世界名作集』(学研/一九六一年)。この中の〝名作劇場〟は、映画「失われた世界」のスチールをあしらったフィルム・ストーリーだったし、〝名作推理漫画〟の「生きていた死者」(井上球二)はドイルの非ホームズ物が原作だった。恐竜が出ていないので気が付かなかったが、よく見ればそもそも表紙が「失われた世界」のスチール写真ではないか! 他にもミステリがたくさん。貴重極まりない一冊だ。
最後に竹内さんとお話ししたのは二〇一一年のはじめごろ、電話でだった。竹内さんが『定本 円谷英二随筆評論集成』を上梓なさり、星敬さんに謹呈したいのだけれど星さんが転居したばかりで新住所が分からない、ということだった。転居先なら知っていたので、その要望にお応えすることができた。
その後、同書の資料編を抜刷にした、小冊子が竹内さんから送られてきた。個人的には、『…評論集成』の現物を頂くよりも、こちらを頂けて本当に嬉しかった。だって、こちらは非売品。買おうと思っても買える代物ではないのだから。
竹内さんは入院なさってからも、徳間書店のパーティなどへはいらしていたので、次にお会いする際にでも御礼を言おう、と特に礼状は書かなかった。だが同年のパーティには、いらっしゃらなかった。
そして、六月の訃報を聞くこととなった。
葬儀の際、それまで諸々お世話になったことを含めて、竹内さんに言った。
ありがとうございました、と。
竹内博既刊
『特撮をめぐる人々 日本映画昭和の時代』
『定本円谷英二随筆評論集成』