
いったい自分になにが起きたのか、しばらく理解できなかった。
確か、友達とお茶をしながらおしゃべりしていたはずだ。どうして一人で、しかも床に寝ているのだろう。友達はどこにいるのだろう。
彼女の名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。体がまるで縛られているように重たい。
起き上がろうとしてもがいているうちにテーブルにぶつかり、スマホが降ってきて頭を直撃した。衝撃に目が眩(くら)む。スマホってこんなにも重かっただろうか。
反射的に頭を押さえようとして、柔らかい赤のクレープデシンに包まれた腕が目に入った。なぜこんなものを着ているのだろう。絹のドレスなんて一枚も持っていないのに。でも、このドレスはどこかで見たことがある。どこでだったろう。
それを思い出したとき、自分がどうなったのかに気づき胸の底から恐怖がこみあげてきた。そんなばかなことが、まさか。
悲鳴を上げようとしても唇は動かなかった。
*
みどりが丘レジデンスエリアに建つマンション群には、市街から広い一本道が通じている。その道に、ぽつりと赤い点があらわれた。濃い緑の中をまっすぐにこっちへ向かってくる。まゆはエリア内にある公園のすべり台の上で、それを見つけた。
(アサコさんが来た)
点はみるみる大きくなり、赤い車に変わる。アサコにまちがいない。まゆは顔をしかめた。
同じクラスのるいちゃんが、すべり台の下でしきりに「まゆちゃん早くおりてよ」とくりかえしている。まゆが聞こえないふりをして見ているうちに、アサコの車はかろやかに近づいてきて公園の横でとまった。すぐにドアが開き、すらりとしたアサコが降りてくる。
「こんにちは、まゆちゃん」
アサコは、七歳のまゆの目から見てもそうとわかるほど背の高い人だ。いつも朱赤の口紅をつけ、いつも襟の大きく開いた黒い服を着ている。短く切りそろえた髪の下から、ミルク色のうなじがほっそりとのびている。
「ママはおうちにいる?」
アサコはすべり台の下までやってきてまゆを見上げた。長いまつげにふちどられた大きな目は灰色みを帯びており、マネキン人形の目を思い出させる。
まゆは黙ったまま一回だけうなずいた。
「そう、ありがと」
アサコは朱赤のくちびるから白い歯をのぞかせると、車にもどった。後ろの座席には、まゆの家に来るときにはかならず持っている四角い黒い箱が見えた。あの箱はキットというのだ。
キットの横には見なれない紙袋があった。まゆの一人くらいすっぽりと入ってしまいそうな、大きな袋だ。何が入っているのだろう。
「ねえ、まゆちゃん。今の人だれ?」
アサコが行ってしまうと、るいちゃんが尋ねてきた。
「知らない」
「うそ。まゆちゃん今お話してたじゃない」
「でも、知らない」
るいちゃんは、ふしぎそうな顔をしてまゆを見た。まゆはむくれ顔ですべり台を降り、砂場の砂をけとばした。
アサコがいつごろからママを訪ねてくるようになったのか、まゆはおぼえていない。まゆが小学校に上がると同時に、まゆの一家はこのみどりが丘のマンションの一つにひっこしてきた。そのころにはもう、アサコは週に一回はまゆの家に来るようになっていた。
それより前のことは、もうまゆの頭の中ではおぼろになってしまっている。アサコは 「アイル」の人だから、ママが「アイル」を始めてからなのはまちがいないのだが。
夕方、まゆがるいちゃんと別れて家に戻ると、アサコはちょうど帰り支度をしているところだった。
テーブルの上にはまだキットの中身がいっぱいに広げられていた。色とりどりの粒や水がつまったガラスの小びんやパレット。細いチューブやスポイトのようなもの。みんな「アイル」の製品だ。
「アイル」というのは「化粧品や健康食品のダイレクトセリングメーカー」なのだと、以前ママがパパに説明していた。それがどういうことなのか、まゆにはよくわからない。だが、アサコがその「アイル」のコーディネーターで、新しい商品を紹介したり注文をとったりする仕事をしているのは知っていた。つまり、ママはアサコのお客さまなのだ。
アサコは商品を一つずつていねいにキットの中におさめていく。ママもおしゃべりをしながらアサコを手伝っていた。
ママもアサコもよく似たミルク色の肌をしている。だがそれ以外は、二人の姿かたちは正反対だ。ママはアサコより頭一つ小さく、黒目がちのやさしそうな目をしている。体つきも、太っているというほどではないが丸みを帯びていて、細長いアサコとはまるで似ていない。なのに、二人で並んでいると姉妹のようにそっくりに見えるからふしぎだ。
まゆが入ってきたのに気がつくと、二人はぱたりと話をやめた。
「お帰りなさい、まゆちゃん。おてて洗って、お洋服着替えてらっしゃい」
ママは、まるで邪魔者をおいたてるように、まゆを洗面所へと連れ出した。そして自分はすぐにリビングルームに引き返し、アサコとのおしゃべりに戻る。
「ターミナルが気に入ってくれてよかったわ」アサコが言う。
「手間ひまかけてくれたんですもの。ここまでにするの、大変だったでしょう?」ママが答える。
「まあね。でもそれがコーディネーターの仕事だもの。気に入ってもらえたら苦心のしがいもあるわ。それはそうと、あのゴミはどうしてきたの」
「放ってきたわ。それとも、あれも使うつもりだった?」
「まさか。ほかにあるじゃない。もっといいものが」
二人は声を合わせてくすくす笑った。
蛇口から流れ落ちる水を指ではじきながら、まゆはアサコに早く帰ってほしいと思った。アサコが来ているあいだは居場所がない。自分の家が自分の家でないような気になる。
まゆが部屋でのろのろと着替えをしているあいだに、ようやくアサコは帰ってくれた。
「じゃあ、あれ大事にしてね」
最後にそんな声が聞こえた。窓から外を見ると、ママは玄関先まで出てアサコを見送っていた。
ふりかえったママは、まゆがのぞいているのを見つけて笑って手をふった。まゆは急いで部屋を飛び出し、玄関まで駆け降りてママを迎えた。
アサコは美人だがどことなく近づきがたくて、まゆは苦手だった。それに、アサコがいるあいだママはちっともまゆにかまってくれなくなる。
だが、アサコが来るといいこともある。アサコが来た日はママがとてもきれいなのだ。
そばに寄ると、ママの髪がまゆのほっぺたに触った。花のような甘い香りがする。ママがまゆの顔を両手ではさんで頬ずりする。ママのほっぺたは子供のまゆよりもずっと柔らかくてつるつるしている。
ママは、学校に来てもかならずみんなに注目される。美しいママはまゆの自慢だ。
だが、ほんの少し前――少なくともまゆが幼稚園にいっていたころにはこんなことはなかったような気がする。だとすれば、ママがきれいになったのはやはり「アイル」を始めたおかげだ。アサコが少しくらい苦手でも、まゆはがまんしなければならない。
「おい、あれどうしたんだ」
めずらしく早く帰ってきたパパが、寝室へ着替えに入るなり、ママに尋ねた。
「まゆのか? どうしてこっちの部屋に置いてあるんだ」
夕ごはんの最中だったまゆは、自分の名前を聞いて耳をそばだてた。
「汚れるから……」
ママが答える。まゆは椅子から降りて、パパとママの寝室へ飛んでいった。
部屋の中には、まゆと同じくらいの大きさの人形が座っていた。人形は、金と銀の糸でふちどりをした青いベルベットのドレスを着ていた。栗色の髪があめ細工のようにつやつやと光っている。
声を上げて近寄ろうとしたまゆを、ママがあわてて止めた。
「さわらないで、まゆちゃん。ごはん食べてたのに」
「だいじょうぶだよぉ。手よごれてないもん」
「だめ。洗ってらっしゃい」
ママは前にも一つ、大きな西洋人形を持っていた。まゆ本人はよくおぼえていないのだが、どうやら小さかったまゆが汚してだめにしてしまったらしいのだ。
「せっかくアサコがくれたお人形なんだから、ママ大事にしたいの。まゆちゃんもう大きいんだもの。わかるわね」
まゆは、アサコの車の中にあった紙袋を思い出した。あの袋に入っていたのはこの人形だったのだ。
「アサコさんて誰だっけ。高校のときの友達か」
「それ誰のこと? アサコは『アイル』の人よ」
「ああ、あの化粧品の……」
「化粧品だけじゃないけどね」
パパは、ママに「アイル」の健康食品を毎日食べさせられているが、それを届けてくるアサコにはあまり関心がないようだった。
「それよりこの人形、狭いのにここへ置いとくつもりか。リビングに飾ったらどうだ」
「でもねえ……」
「だいじょうぶ。まゆ絶対よごさない」
ママは少しのあいだ心配そうにまゆを見ていたが、やがて小指を立ててまゆの前に突き出した。
「約束よ、まゆちゃん。大事にしてね」
「うん。約束」
まゆと指切りをすると、ママは人形をやさしく抱き上げてリビングルームに連れていった。まゆには、人形がなんとなくうれしがっているようにみえた。ひとりぼっちで暗い寝室においてけぼりにされたら、人形だってさびしいだろう。
おなかが痛くて、まゆは夜中に目をさました。まわりは真っ暗だが、自分の部屋のベッドに寝ているのだとわかった。夕ごはんの後で人形と遊んでいたはずなのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
まゆは息をつめて痛みが行き過ぎるのを待ったが、消えるどころかだんだんとげを出しておなかの中を転げ回り始めた。
「いたぁ……」
まゆは泣きべそをかいて起き上がった。きっと、パパのおみやげのプリンを食べすぎたせいだ。ママの言うとおり、一つだけにしておけばよかった。
部屋を出ると、リビングルームに明りがついているのが見えた。パパかママがまだ起きているのだ。まゆは足音を忍ばせ、ドアの音をたてないようにこっそりとトイレにすべりこんだ。ママの言うことをきかないでおなかをこわしたのだ。しかられるに決まっている。
でも、ママにばれなければいいのだ。箱の中にはまだプリンが残っていた。黙っていれば、あしたも食べさせてもらえる。
まゆは水を流すタイミングをねらって、リビングルームの声に耳をすませた。聞こえてくるのはママの声だけだ。ママが話をしている相手はパパではないらしい。
「はい、確かに……アサコから受け取りました。はい、はい……ターミナルの準備ができしだい……ええ。お越しをお待ちしておりますわ」
ママは電話をしているらしい。アサコの名前が出るところをみると「アイル」に関係のあることだろうか。
(まただれか来るのかな。アサコさんみたいな人だったらやだなあ)
ママの言葉に気をとられた拍子に、まゆはうっかり水を流すボタンに触れてしまった。大きな音がひびき、ママの声がぴたりと途切れた。
「まゆちゃん? パパ?」
するどい声と一緒に、スリッパをはいた足音がドアの外までやってくる。まゆは精いっぱい普通の顔をこしらえると、トイレのドアを開けた。
「まゆちゃん、どうしたの」
ママは目をいっぱいに見開いてまゆを見下ろした。ふだんは目立たないママの白眼が青白く光って見える。ママは怒っている。まだなにも嘘をついていないのに、どうして怒るのだろう。まゆの顔を見ただけで、ママにはわかるのだろうか。
「おなか痛かったの……」
「そう」
ママは短くそれだけ言うと、すぐに背を向けてリビングルームに戻ってしまった。まゆは、後をついていくこともできず、部屋に戻ることもできず、廊下に突っ立ったまま首を伸ばしてママのようすをうかがった。
「申し訳ありません。娘が起きてまいりましたので、これで失礼させていただきます」
ママが使っていたのはスマホでも家の電話でもなかった。ママやアサコがコンタクトと呼んでいる、タブレットのような形の機械だった。アサコが持っているのを見たことはあったが、ママまで持っていたとは知らなかった。
「まゆちゃん、こっちへいらっしゃい」
ママはコンタクトを置いてまゆを手招きした。
「起きてたの? ずっと」
「ううん。さっき目がさめたの」
「おなかこわしたの?」
まゆは黙ってうなずいた。
「そう。――いらっしゃい」
ママはまゆをキッチンに連れていった。冷蔵庫から牛乳びんほどの大きさのプラスチックのボトルを取り出すと、その中の茶色いカプセルを二つカップに入れ、ポットのお湯で溶かした。ココアのような飲み物ができあがる。
「はい、まゆちゃん。これ飲んで。ぐっすり眠れるわ」
まゆは、きょとんとしてカップとママを見比べた。
このカプセルはソルベントという名前で、「アイル」の製品だ。体の調子がよくなるからといって、ママが毎日パパに飲ませている。そのチョコレート色がとてもおいしそうに見えて、まゆは一度でいいから飲んでみたいと思っていた。だがママは、子供には早すぎるからと、飲ませてくれたことはなかったのだ。
「いいの?」
「今日だけよ。まゆが正直だったから、ごほうび」
ママは、いつものやさしいママに戻ってほほえんだ。まゆはほっと胸をなでおろした。
チョコレート色のソルベントは、まゆが思っていたとおり、とろけるように甘くておいしかった。まゆはふわふわとした幸せな気持ちになり、ここちよく眠ることができた。
新しいお客さまへの不安もママの怖い目も、頭の中からきれいに消えていった。
みどりが丘は校区のはずれにあり、学校と家のあいだは子供の足では一時間近くかかる。帰り道で一人はなれ二人はなれ、とうとうまゆは一人になった。いつもなら近くに住むるいちゃんが最後までいっしょなのだが、るいちゃんはもう三日も水ぼうそうで学校を休んでいる。
まゆはマンションに続く坂道をできるだけゆっくりと登っていた。今週に入ってから、アサコはまだ一度も来ていない。今日あたり来るのではないだろうか。ひょっとしたら、もう来ているかもしれない。家に帰るのは気が重かった。るいちゃんがいてくれれば夕方まで一緒に遊んでいられるのに、今日はそれもできない。
ランドセルを背負ったまま、まゆは公園に入っていった。
公園はがらんとして、誰もいなかった。まゆは一人で砂場に座り込み、棒きれで砂に落書きをして時間を過ごした。
砂の上にふと影が落ちた。顔を上げると、いつ現れたのか、砂場の前に一人の女の人が立っていた。膝に手をあてて中腰になり、ねばっこい視線でじっとまゆをのぞきこんでいる。まゆは棒きれを放り出して腰を浮かした。
まゆが歩き出すと、女の人は同じ歩調でまゆの後を追ってくる。
まゆが駆け出すと女の人も駆け出した。後ろから手が伸びてまゆの肩をつかまえる。悲鳴を上げようとしたまゆの口を、女の人は両手で押さえてふさいだ。
「まゆちゃん、逃げないで! 声を出さないで!」
いきなり名を呼ばれて、まゆの体の力が抜けた。まゆがおとなしくなると相手も腕の力をゆるめた。
「おばさん、まゆを知ってるの?」
「知ってるわ。高岡まゆちゃんでしょう」
「おばさん、だれ?」
「まゆちゃんのママのお友達よ」
女の人はしゃがみこんで、目の高さをまゆに合わせた。まゆは、おそるおそる女の人を観察した。
七歳のまゆには、大人の年はわからない。男の人はみんなおじさんに、女の人はみんなおばさんに見える。それでも目の前の女の人は、ママよりかなり年をとって見えた。目尻には細かいしわが何本もより、泥水がはねたような薄茶色のしみがいっぱい散っている。後ろで一つにひっつめた髪の毛は、ぼさぼさで竹ぼうきの先みたいだ。
「猿渡ゆう子というの。ママはおうちでおばさんの話をしない?」
聞いたことのない名前だった。まゆが知っているママの友達は、アサコだけだ。まゆが首を横に振ると、猿渡ゆう子は鼻がくっつきそうなほどまゆに顔を寄せた。
歯が悪いのか、ゆう子の息はいやな臭いがした。まゆは体をねじって息がかかるのを避けようとしたが、ゆう子にはその理由がわからないらしく、まゆを逃がすまいとしてしっかりと捕まえた。
「じゃあ、まゆちゃんは? まゆちゃんは、おばさんをおぼえてるわよね。知ってるわよね。よく遊んであげたものね」
違うとは言わせない。そんな口調だった。ゆう子の目はぎらぎらと光り、すがりつくようにも脅しているようにも見える。
この人は頭がおかしいんだ。
まゆはとっさにそう感じた。まゆのママの友達だと思い込んでるんだ。そうに決まっている。まゆのママが、こんな汚いおばさんと友達のはずがないもの。
まゆは力いっぱい頭を振り肩を揺すって、ゆう子の手をふりきった。
「まゆちゃん!」
ゆう子はまた手を伸ばしてきたが、今度はまゆの方が速かった。公園の出口へ一目散に走りながら、喉いっぱいに悲鳴を上げた。
まゆの悲鳴の届くところに人がいる様子はなかったが、ゆう子は大声にひるんでまわりに気をとられ、まゆを追う足がにぶった。まゆはそのすきに一気にゆう子を引き離した。
「まゆちゃん、待って!」
ゆう子の声はどんどん遠ざかり、聞こえなくなっていく。
「まゆちゃんのママを助けたいのよ……」
「アイル(下)」に続く。
この作品はフィクションであり、実在の企業とは関係ありません。
