
シミルボン再録
歴史は更新されなければならない
「ENIAC神話の崩れた日」
クラーク・R・モレンホフ著
最相力、松本泰男翻訳
工業調査会
大野典宏 評
本書は,本当の意味で世界最初のディジタル・コンピュータ,ABCマシンを開発したジョン・V・アタナソフが,長い裁判(米国の地方裁判史上最長)の末,1939年の開発時点から30年以上も経った1974年10月19日にその名誉を回復するに至るまでの詳細な記録である(アナログの計算機はもう少し歴史が古い)。
本書の著者,モレンホフはピューリッツアー賞の受賞経験もある敏腕ジャーナリストである。その著者が2万ページにもわたる裁判記録からまとめあげたこの物語は,アタナソフの伝記であり,アタナソフとENIACの開発者モークリー両者の人間ドラマであり,同時に法廷ミステリーである。アタナソフの生い立ちに始まって,アタナソフが如何にしてコンピュータを考えつくに至ったか,ABCマシンの開発,アタナソフとモークリーの関係,モークリーのアイデア盗用と名誉の独占,特許をめぐる巨大企業の思惑,裁判における弁護士たちの追求,判決,そしてアタナソフの名誉回復にいたるまで,決してあきることはない。
裁判において真実が次々とあばかれていく様は非常にスリリングでページをめくるのがもどかしく,次々に証言をひっくりかえすモークリーの態度にニヤリとし,判決の部分には感動できた。読みながら,素直に怒りたいところで怒り,笑いたいところで笑える,かなり良く書かれた物語である。
この裁判の面白いところは,結果としてアタナソフがコンピュータを発明したということが証明されるわけなのだが,もともとの裁判の目的が発明者の特定ではないことだ。裁判の焦点はモークリーが持つENIACの特許が,果たして正当なものなのかを解明することにあるのだ。つまり,以下のようなアイデアを本当にモークリーが考え出したのか,特許を取得するだけの資格があるのかどうかを判断する裁判なのである。
(1) 2進数によるディジタル方式(計数型)
(2) 論理・演算回路の採用
(3) 演算回路と記憶装置との分離
(4) 記憶素子にコンデンサを使用し,今で言うリフレッシュ(本書のなかではジョギングと呼んでいる)をおこなっている(これはDRAMの原理そのもの)
これらはディジタル・コンピュータの原理そのものであり,現在使われているコンピュータも例外ではない。もし,この特許を無効であると主張するならば,これらのアイデアは出願時点ですでに既知のものであったことを示さなければならなくなる。ということは,これらのアイデアがアタナソフのものであることを証明できれば,モークリーの特許を無効にできるわけである。この裁判は,このように正義まっとうするなどといった古風な理由によるものではなく,つまるところ巨大企業の利権争いでしかない。その副産物としてアタナソフの名誉が回復されたという経緯が非常に現代的で興味深い。
この判決が出されてからもう45年以上も経過している。だが,いま身近で目にするコンピュータの歴史解説の多くでは未だに最初のディジタル・コンピュータはENIACだと書かれている。日本で本書が出版されてしまった以上,もう知らなかったではすまされない。誤解は正されるべきである。
(ただし、ディジタルコンピューターの定義によって解釈が変わるので、反論がなされている事実は指摘しておく)
(初出:シミルボン「大野典宏」ページ2020年2月29日)
