「ヴァール断章とそれにまつわる簡潔な報告 2/3」田林洋一

3

 全くだしぬけに信じがたい異変が起こったのは、クルツ中佐がサルバドーレ司祭を訪問して一か月以上経ったある嵐の日の夜のことだった。その日の午後、いつものように食料の調達に港に来ていた司祭の奇妙な様子を、数人のアルビニアの住民が目撃している。商売さえ済めばいつものようにそそくさと町に戻ってしまう商人と農民が、耐え難いといった様子で嘘か真か分からない噂を口角泡を飛ばして怒鳴り合っていた。彼らによると、司祭は心ここにあらずといった調子で焼き魚と干し肉、そして羊の肉を大量に買い込むと、目をぎらぎらさせながら「時は満ちたり、星辰の刻は来たれり」と呟いていたらしい。司祭の常軌を逸した言動にいちいちかかずらわっていてはきりがないと考えていた連中も、さすがにこの時ばかりは彼の憔悴しきった様子に度肝を抜かれたという。
「眼が異様に血走っていた。ほとんど真っ赤と言ってもいいくらいだった」商人の一人はそう言って肩を震わせた。
「とにかく魚の量が尋常じゃなかった。二人の壮年の男とはいえ、人間が食べる量じゃない。牛か馬でも飼っていれば話は別だが、そんな様子も見えん」年老いた農民の一人も彼に同調して付け加えた。「しかも、魚の頭は全部残しておくように厳命していた。ベルルスの奴らは、いつも魚の頭を切り落とす。だから奴らは渋ったが、司祭は頑として意見を曲げなかった」
 天候は既に荒れ模様の気配を見せ、黒雲が西の空を覆った。二人はどちらからともなく顔を見合わせると、体を落ち着かなげに左右に振り、慌ただしく準備を整えて暖かい家族の待つ町へと帰っていった。雨がぽつぽつと降り始めたのはそのすぐ後だった。にわかに空が曇ると、半時を置かずして土砂降りになり、雷が暗闇の中縦横に駆けて空を引き裂いた。
 サルバドーレ司祭は雨に打たれるのも構わず、買い占めた魚や肉を自分の家屋に運び込んだ。「次こそは成功する。刻は満ち、条件も整っている」と独り言をぶつぶつ呟く。その眼は変わらず狂気を宿していた。
 それから、クルツ中佐と司祭が激しい討論を繰り広げていたのを、ベルルスの住民たちが窓ガラスの影を通して目撃している。彼らの口喧嘩はいつものことなので、アルビニア出身の人間は誰も注意を払わなかったし、廃頽(はいたい)の臭いを漂わせているベルルスの連中はもっと無関心だった。彼らは呆れたようににたにた笑い、そして肉の腐ったような、すえた臭いを漂わせる家屋を疎ましげに見つつ、涎を垂らして去っていった。
 司祭と軍人の口論は真夜中まで続いた。雨は間断なく、そして容赦なく降り注ぎ、雷鳴は突発的に夜空を駆けた。中佐はヒステリックな口調で、このような冒涜的な方法を用いてまでヴァール断章に関わり合いになる気は一切ない、と言い切った。一方、司祭は星辰の刻が都合よくこちらに動いている以上、こうした機会を失うのは馬鹿のすることだとこちらも強い口調で糺し、議論は平行線を辿った。もっとも、ベルルスの住民はもちろん、アルビニアの人間ですら、ヴァール断章が何なのかをさっぱり分かっていなかった。加えて当然のことながら、「こちら」とはいったい誰のことを指すのか、あるいは「星辰の刻」とは何なのかを分かる人間は、少なくとも界隈には全くいなかった。
 議論は白熱し、両者とも譲らなかった。夜半を過ぎ、嵐が最高潮に達した時、事態は急変した。司祭が明らかに動揺したような気配を示し、きょろきょろと怯えた目で周囲を伺い、そして手を上げて強い調子でクルツ中佐を制した。彼もつられて口をつぐみ、耳を澄ませるような仕草をした。強烈な雷光が付近を照らし、辺りは昼よりも明るくなった。司祭の住むあばら家も、光に照らされて一瞬周囲から浮き上がった。
 その途端、絶叫が響き渡った。その声は嵐の音を圧し、ベルルスの村全体に響き渡った。何が起こったのか、その瞬間を目撃したものは誰もいなかった。ベルルスに滞在していた哀れなアルビニアの漁師は、その叫び声に驚いて目を覚ました。そして恐怖に満ちた瞳で窓から外を透かし見たが、バケツをひっくり返したような雨で視界が全くきかず、雷鳴は相変わらず寸断なく轟いた。この漁師は驚愕のあまり毛布をかぶってベッドに再度飛び込んだものの、安らかな安眠が訪れることはなく、明け方、嵐が過ぎ去るまでがたがたと震えて毛布の端を噛み締めることしかできなかった。
 絶叫の後、恐ろしいまでの沈黙が辺りを支配した。死すらも凌駕するような静寂と、耐えがたいまでの悪臭が周囲に充満し、サルバドーレ司祭の家屋のドアの下から何やらどろどろした、冒涜的なまでに不潔な何かが流れ出した。赤茶けたような、ピンク色にほんの少し黒い絵の具を垂らしたような液体が玄関先から溢れ出し、瞬く間に軒先の地面と、そして小道を濡らした。植物が腐敗したような瘴気が立ち込め、さすがの倦怠的なベルルスの住民たちも我知らず起き出して、鼻をくんくんと言わせた。そしてしかめ面を作りながら、慌ただしくベッドから起き出すとドアに固く錠をかけ、そして訪れることのない眠りを求めて寝所に戻った。
 アルビニアの漁師は恐怖のために真っ青になり、そして続いて襲った悪魔的な臭気に吐き気を催した。彼も他のベルルスの住民と同じことをした——つまり、玄関や窓の鍵を固くかけて無視を決め込んだのだ。だが、彼は唾棄すべきほどの恐ろしい雰囲気に飲まれ、右手でシーツを握りしめながら、左手で何度も十字を切った。「慈悲深き神よ、お助けください」これが彼が発することのできた唯一の言葉だった。粘液のような桃色の液体が、司祭の家屋周辺だけでなく広くベルルスの道路を覆ったのを発見したのは翌朝のことだったが、漁師は朝が来るまで決して寝床から動こうとはしなかった。恐らく、いかなる手段を用いても彼をベッドから引き離すことは不可能だったろう。
 翌朝、べとべとする粘液に覆われた街路地を見てベルルスの住民たちは一様に嫌な顔をし、そして変わり果てた司祭の家を見て、更に顔を醜く歪めた。サルバドーレ司祭のあばら家は屋根から地面までねばねばした正体不明の液体で濡れており、異臭を放っていた。通りかかった野良犬の一匹が神経質そうに吠えたて、唸り声を上げながら牙を剥き出した。それでも家自体には近づこうとせず、奇妙な痕跡を地面に見出すと、尻尾を後ろ足の間に隠してきゃんきゃんと弱々しく後ずさりし、そして去っていった。
 野良犬が発見し、ベルルスの住民が首を傾げてのっそりと見返し、そしてアルビニアの調査隊が慌ただしく検分した「痕跡」は、動物の足跡に似ていた。だが、具体的にどのような動物の足跡なのかということについては、アルビニアの住民たちの限られた知識では全く想像もつかないものだった。ぱっと見には、大きな鳥か、あるいは蟹の爪を思わせる鋭いかぎ爪の跡がついていたが、大きさが人の頭ほどもある痕跡も見受けられた。いくつかの足跡はまた別の箇所についており、章魚(たこ)か烏賊(いか)の触手のようなイボ状の突起が見られたが、これもまた尋常でない大きさだった。アルビニアの役所はただちに調査隊という名の仰々しい、だが実態は鉄砲やピストルといった粗末な武器を手にした農民と漁民の寄せ集めに過ぎない集団を派遣し、「調査」に当たらせたが、腐った臭いを発する粘液にも、不可思議な足跡にも全く当惑させられてしまい、結局いずれも正体不明という結論に達した。
 そして、調査隊がもっとも気にしたのは、粘液だらけの廃屋に閉じ込められたクルツ中佐とサルバドーレ司祭の安否だった。朝を迎えても建物からはこそりとも物音が聞こえず、二人はどうなってしまったのかと住民たちはこそこそと噂し合った。そして、顔を見合わせてかぶりを振りながらも調査隊の活躍を期待した。隊のうちの一人が、ありったけの勇気を振り絞って聖職者の家のドアをノックし、反応がないと分かるともう一度戸を叩いた。一行は顔を見合わせ、覚悟を決めたように粘液だらけのドアノブに手をかけて一気に扉を引き開けた。
 途端に、むせかえるような汚臭と胞子がドア奥から立ち込めた。例の粘液は家屋内も侵食し、侵入者を歩きにくくしていたが、調査隊は——誰を先頭にするかでしばらく揉めた挙句——意を決して足を踏み入れた。入ってすぐ左にある椅子に、茶色いチュニック姿の男が背もたれにもたれかかるように半ば倒れて座っていた。元々は屈強な戦士であったであろう壮年の男は、しかしこの一か月の不養生でやつれ、頬がこけていた。顔は恐ろしいまでに醜く歪み、名状しがたい恐怖に直面してそのまま狂死したことが分かった。アルビニアの住人の一人が、——変わり果てた姿ではあったが——服装や僅かに残った面影、そして顎の輪郭などから、この男こそドイツからやってきたヨハン・クルツ中佐だと断言した。
 彼の対面に座っていた法衣姿の男の恐ろしさもまた、やつれ具合や狂乱の度合いという点では既に死体となったクルツ中佐といい勝負だった。元々細かった手足は更に細くなり、ほとんど枯れ木の如き様相を呈していた。誰かが軽く指でつついただけでも、ひびが入って折れてしまいそうだ。そして、人々から奇異の目で見られ、遺棄されていたサルバドーレ司祭は、哀れにも——と言って良ければ——生きていた。半開きになった口から涎が幾筋も垂れ、左右の黒目はあらぬ方向を見つめていた。そして、ぐったりと両脇に垂れ下がった両腕を時折チックのように痙攣させ、正視に堪えない顔面はひきつったような笑みを浮かべていた。思い出したように頬をぴくぴくと動かす様から、まだ息があると思われたが、その凄惨な様子はむしろ死を迎えた方が安らかで救いではなかったのかと思わせるほどだった。
 調査隊の一人であるアルビニア出身の男が、拳銃を片手に司祭の肩にそっと手をかけた。いきなりやせ細った骨ばった手のひらで腕を掴まれたので、彼はぎょっとなって後ずさった。だが、司祭は手を離そうとはしなかった。虚空を睨み、目は裏返っていたが、何とか口を開こうと途切れ途切れの言葉を発した。
「あの断章だ……遂に解明した。あの木簡に書かれた意味……」
 男は荒々しく腕を振りほどくと、司祭は震える手で地面を指差した。そこには、クルツ中佐が持ち込んだ例の木簡が、床の端に積み上げられていた。正体不明の粘液は、その木片にもべっとりとついていた。と、司祭は甲高い悲鳴を上げて哄笑し、それから再びぐったりと首を落とした。調査隊は、サルバドーレ司祭が発狂したものと断定して当局に通報すべく、呪われた家屋を後にした。クルツ中佐の死体には、恐怖と嫌悪のあまり、誰も見向きもしなかった。

4

 調査隊からの通報を受けたアルビニアの当局は、本格的な調査を開始すべく人員を派遣したが、そのあまりに奇怪な状況に全く途方に暮れてしまった。まず、彼らの貧弱な装備と——そしてあまり認めたくないことだが——迷信に凝り固まった頭脳では、粘液の正体が何なのか、どのような物質でできているのか、残された足跡のような窪みは何なのか、そして木簡はそもそもどこから来たのかなども全く見当がつかなかった。そして、肝心のクルツ中佐の死因やサルバドーレ司祭の発狂の原因も皆目不明だった。アルビニアではあまり学問が発達しておらず、行政機関はもっぱら人治的な統制に頼っていたため、当局は力不足を認めてより大きな調査機関に頼ることに決めた。町から最も近い、権威ある学術団体はフィレンツェにあるフィレンツェ大学であることは誰もが認めるところだった。町長は——能面のような顔をしたベルルスの村長の渋々ながらの許可を得て——フィレンツェ大学に調査団を派遣するように殺気立った調子で電報を打った。
 おりしも第二次世界大戦の真っ盛りで、同盟国ドイツ軍の神がかった活躍に比べれば幾分影が薄いのは否めなかったが、イタリアの景気と士気は湧きに湧いていた。フィレンツェ大学の一部の教授陣は、全精力を戦争に傾けるべきだと主張したが、この頃はまだイタリア国内で戦争に対する楽観論が広がっていた。学長は国内の行政も疎かにしないという臣民向けのパフォーマンスも込めて、化学の権威であり、国際的にもその活躍が認められているロレンツォ・カサピエトラ教授と、言語学の気鋭の研究者であり、ラテンアメリカ諸国の言語に特に通じているバルトロメ・アザロ教授の二名を中心とした調査団を組織し、急ぎベルルスに派遣した。
 調査団は、カサピエトラ教授を筆頭にアザロ教授、二名の助手、そして三名の補助員の計七名で構成されていた。当初、カサピエトラ教授一人に一名の助手——この助手は数々の雑用をこなす役割も同時に与えられていた——の二名という、とても調査団とは呼べない人員を配置していたが、事を重く見た執行役員の一人が、学長の反対を押し切ってアザロ教授を招聘した。その執行役員は、元来第二次世界大戦などという戦争ごっこを重視してはいなかったし、むしろ純粋に学術的見地からヴァール断章と呼ばれる未知の文字ないしは文書の解読に専心したいという希望を持っていた。彼はフィレンツェ大学の中でもほぼ最年少と言っていい、だが、研究成果を精力的に発表しているアザロ教授に白羽の矢を立て、七十手前のカサピエトラ教授の補佐役としての使命を滔々と語って聞かせた。彼はいちいち頷きながらご宣託を拝聴し、そして、親子ほど年の離れた二人とはいえ、アザロがカサピエトラ教授に対しても率直に物申すことができる闊達な性格だということが分かると、安堵の溜息をついて助手と補助員までつけるという、戦時下では考えられない大盤振る舞いに着手した。
 カサピエトラは大量発生した粘液と、生き物の足跡と思しき痕跡の調査、そしてアザロはヴァール断章の解読——こちらはほとんど絶望視されていたと同時に、さして期待もされていなかった——を担当することになった。要請を受けた十日後、調査団は汽車と馬車を使って、まずはアルビニアで大まかな状況を掴んでおこうと考えた。
 総勢七人の「お偉方」の来訪に肝を潰した町人たちは、我先にと自宅に引きこもって接触を一切絶つ者と、逆に好奇心から積極的に話しかけようとする者たちとに二分された。とはいえ、後者の人間たちも大抵はほら吹きの他の「事情通」から吹き込まれた与太話を繰り返すだけで、調査団の益になるような情報は何一つなかったと言ってよい。業を煮やしたカサピエトラ教授とアザロ教授は、伝聞による情報ではなく実地調査のデータに重きを置く方針に転換し、ベルルスに赴いたが、そこで驚愕の事実に直面した。
 ベルルスの住民たちは怠惰で粗野でどうしようもないことは教授たちも知悉していたであろうが、救いようがないほど迷信深いことまでは考慮に入れていなかった。ほとんどの住民はクルツ中佐の死とサルバドーレ司祭の発狂に関して興味を抱こうとはしなかったが、ごく一部の、特に近所に住んでいた者たちは荒廃した家屋を見て眉を顰めた。そのうちの一人の大馬鹿者が、全ての元凶は余所者たる中佐が持ち込んだ正体不明の木切れ——彼にとってヴァール書簡はそれ以上でもそれ以下でもなかった——にあると勝手に断定し、路上をうろつきまわる浮浪者二人をウイスキーひと瓶で買収し、木片を回収させた。そして、こともあろうに学者にとっては貴重なデータと物的証拠となる木簡を、海に投擲して永遠に葬り去ってしまったのだ。その大馬鹿者は、自分のしたことを得意げに周囲に吹聴し、これで全ての災厄は取り除かれたと啖呵を切った。だが、相変わらず粘液は生臭い瘴気を発し続け、残された足跡の正体は杳として知れなかった。やらかした若者は、のっそりと現れたベルルスの中年の三人組に袋叩きにされた。そして、半死半生のまま路上に放り出されたが、彼はうつろな目を虚空に向けて地面に横たわったままだった。
 頭を抱えた調査団が失意のうちにベルルスを発とうと港場に赴くと、僥倖(ぎょうこう)と言ってもいい偶発的な事件に出くわした。漁港は相変わらずやる気がまるで感じられない村人たちの溜まり場だったが、のろのろと水揚げした大きなマグロを、彼らが血まみれの蛮刀(とでも呼ぶしかない粗悪な刃物)で解体していた。と、漁師のうちの一人がマグロの腹を捌いていた際に、コツコツという耳慣れない音が響いた。明らかに、刀の刃が何か硬いものに当たっているのだ。調査団の教授連を胡散臭い目で見ながら、この漁師が蛮刀を一気に引き下ろすと、切り裂かれた胃袋から大量の木片が転がり落ちて、カラカラと音を立てて血と魚の体液にまみれた波止場に零れ落ちた。カサピエトラ教授は目を剝いた。これこそ明らかに、迷信深い若者が海に投げ捨てたヴァール断章に他ならなかったからだ。
 運命的な偶然と、そして必然的とも言える調査意欲に駆り立てられて、彼は全てのヴァール断章を回収するように補助員の一人に命じた。漁師は相変わらず胡乱(うろん)な目つきで不審げに教授たちのしていることを見ていたが、ぼそりと「俺たちの仕事を邪魔してほしくねえな」と呟いただけだった。興奮し、書簡に夢中になっていたカサピエトラとアザロは、その言葉を聞いていなかった。助手の一人がその言葉をかろうじて耳にし、彼を宥(なだ)めるために一枚の二十リレ金貨を差し出して、「調査研究のご協力」をお願いしたいと申し出た。漁師は金貨を歯で噛むと、あざ笑うようにして場所をどけた。
「『ご協力をお願いします』だとよ!」彼は周りの漁師仲間に金貨を自慢げに見せながら言った。「賢い教授様たちが、わしらに頭を下げおったぞ!」
 さして興味もなさそうに一部始終を見ていた他の漁師たちが、自分たちの作業を再開した。そして、もう一人の年配の漁師が釣り上げたマグロの胃袋にも、断片的ではあるが、ヴァール断章の木片が認められた。カサピエトラはそれを見つけるや否や、漁港の全ての作業を「調査協力」という名の元に中断させた。不平不満をぶつぶつ言うけだるげな、それでも仕事をさぼりたくて仕方がない人間の屑とも呼ぶべき連中が鼻を鳴らすと、同行していた助手が一人一人に鋼貨を一枚ずつ手渡して、事を穏便に運ぼうとした。「兄ちゃんよ、わしら、喉が渇いているんだがね」と言い出した比較的若い、しかし生気が全く感じられないごみ収集業者(この男が、「ごみ」と称する物品から金になりそうなものをちょろまかし、高額で売りさばいていることは公然の秘密だった)に対し、助手と補助員は近くの酒場まで行って、ひどい味のするエール酒を数パイント手に入れ、彼らを宥めるためにそれらを渡してやらねばならなかった。
 集められた木簡はほぼ完璧に復元され、調査再開の目途が立った。多くはマグロの胃液でべとべとに汚れていたが、実害は皆無と言って良かった。二匹のマグロの腹の中から出てきた材料がほぼ全てだったが、欠けていると思われたものも、サルバドーレ司祭の家屋を漁っていると大抵見つかった。かくして、ほぼ万全の体制を整えた調査団は、改めて木簡とそこに刻まれている謎としか言いようのない文字ないしは碑文、それとも伝達のために簡素化された抽象的な絵画だろうか、とにかく彫り込まれた文様の解読に取り掛かった。
 この解読作業には、もちろんバルトロメ・アザロ教授とその助手一名が中心となって取り組んだが、当初はなかなか思うとおりに行かなかった。ヴァール断章を持ち込んだヨハン・クルツ中佐は死亡し、恐らくは解読の依頼を受けたであろうフランチェスコ・サルバドーレ司祭は発狂してしまって、物の役に立たない廃人となり果ててしまった。木簡の出土先などの地理情報や年代などの基本的な情報を含め、目ぼしい手がかりが全くないまま翻訳作業を進めるのは、自分の娘にせがまれてお星様を取ってくるのと同じくらい不可能なことだった。木簡に刻まれた文字も、そして月の出ていない夜に輝く星も、ともに実在していることに疑いはない。だが、その神髄を掴んだり自分の所有物としたりするには、単に存在以上の取り掛かりが必要なのだ。ヴァール断章にもお星様にも、その肝心の「取り掛かり」が欠けている。
 アザロ教授はベルルスとアルビニアの住民に辛抱強く調査協力を求め、クルツ中佐がポーランドからヴァール断章を持ち込んだことを突き止めると、まずはそこから調査を開始することにした。古代教会スラヴ語の知識はごく断片的なものでしかなかったが、彼はベルルスに設置した仮設のテント兼調査基地に専門書を大量に運び入れ、明け方まで貪るように読みふけった。重要な手掛かりはほとんど見つからず、数日は徒労のうちに過ぎた。キリル文字でもグラゴール文字でもないことは明らかだった。それ以外のヨーロッパの文字でないこともほぼ確実だった。そこでアザロ教授は方針を変え、既知の言語の文字と単純に比較対照するのではなく、むしろ未知の、そして欧州に捉われない文字も渉猟するように心掛けた。彼の身に、あたかも旧約聖書のダニエルが降臨したかに思われた。
 この工夫はある程度実を結び、更にラテンアメリカの言語に精通していることも味方した。ヴァール断章に刻まれた文字は、アステカ文字やマヤ文字との関連は見出せなかったが、同じメキシコのベラクルス州で発見されたエピ・オルメカ文字と僅かの類似を見せ、オアハカ州で発掘されたニュイニェ文字とは輪郭が似ているように見えた。そして、グアテマラ南部で栄えたイサパ文化の文字とは鏡像関係にありながらも、それ以外は奇妙なほどの一致を見せた。アザロ教授はこの発見に自信を得て、更には得意な研究分野であることも手伝って、今まで大学に所蔵していた自分の蔵書の大半を調査基地に持ち込み、更に新たな書物を大量に買い込んだ。今の大戦で、アメリカ合衆国がラテンアメリカの先住民の言語を暗号として用いていたことも幸いした。イタリアは当然のことながらアメリカ合衆国の暗号戦略を見破っており、彼はその分析のために国から大量の研究資金を援助されていたのだ。
 持ち込んだ文書の中には、取り扱いが極めて危険なものも数多くあったので、調査団は現地の住民たちの基地への立ち入りをおおっぴらにならない程度に禁じた。その中には、あまりにも知性が発達しすぎて時代がついていくのが千年遅かったと言われる、スウェーデンの狂える修道女ソフィア・ローゼンバーグが著した狂気の『ティポタ文書』もあった。原本はアテネ国立考古学博物館と大英博物館、それにミラノ大学図書館の三か所にだけ保管されており、写本はいくつか出回っていたが、どれも数が圧倒的に少なく、おまけに断片ばかりで研究の役には立たなかった。アザロは原本のコピーをミラノ大学から取り寄せ、コピーの束が到着するとひたすらその解読に勤しんだ。「お偉いさん方」の奇行に興味をそそられた住民たちも、自分たちが踏み込める範囲内に刺激になるようなものが何もないと分かると、現れた時と同じようにだらだらと、そして未練がましく去っていった。
 イサパ文化の文字とヴァール断章の文字との間に有機的な関連が見出せるようになると、アザロは更に関わりのありそうな未解読の文字との照合に着手した。メキシコの首都メキシコシティの郊外にあるティオティワカン文字と比較検討した結果、納得のいく解答こそ得られなかったものの、それでも「類似の残滓」とでも呼びうるような共通点が微かに認められた。オト・マンゲ語族のミシュテック語で用いられたとされているミシュテカ文字、及び、言語学的に共通点こそないものの、文字体系が極めて似ているアステカ文字との対比は更に有意義だった。前者については十分な資料が存在せず、従って想像の範囲内でしかなかったが、ティオティワカン文字を起源に持つことがおおよそ推察できた。そして、これらの絵文字とも言うべき文字体系の中で対応しうる母音Aが、ヴァール断章に記載されている抽象的な曲線を成す「文字」と一致しているように感じられた。
 アザロ教授はこの発見に歓喜すると同時に、狂暴的なまでの疑念を抱いた。欧州の、特にポーランドに端を発すると思われるヴァール断章と、古代に用いられたイサパ文化の文字にこれだけの論理的整合性と類似性が認められるのは、いったいどうしたわけか。時間的・空間的な距離を考えても両者の交流は不可能と思われたが、この文字の特徴を勘案すると、単なる偶然ということは考えられなかった。彼はただちに調査団長のカサピエトラ教授に事の仔細を報告した。だが、彼はアザロの「大発見」に賛辞を送りはしたものの、見せかけの興味を示すだけに留まった。カサピエトラ教授が文化人類学や文字学を軽視していたわけではない。彼には彼の、奇抜で、そして恐るべき発見があったのである。