「カルタゴ余聞 2篇」服部伸六

カルタゴ余聞 2篇

蝶にならなかった蛹の悲劇
     服部伸六

 三年ばかり前、私は『カルタゴ――消えた商人の帝国』(現代教養文庫) という本を書いたが、この小冊子、あまり広告もされないのに、私の本としてはかなりの成功を収めた。8刷りを重ねたので、総計5万部ぐらい売れたことになる。
 私がこの本を書いた動機というのは、はじめのうちは人種偏見が歴史の中に現れる現象の根っこのところを抑えてみたいと考えたからであった。西欧人の世界支配の当初のキッカケが、ローマによるカルタゴ殲滅にあったのではと考えていたからだ。
 ところが、書き進んでいるうちに、どうもそうではなかったと考えられてきた。西ヨーロッパ文明の先駆者だったとされるギリシャとローマの時代、少なくともキリスト教社会として西欧が誕生する以前の、地中海を主な舞台とする世界には、いわゆるオリエントとオクシデント、すなわち現代のアラブ世界と西ヨーロッパの世界のような対立があったと考えることは少々無理ではないかと気がついたからである。
 たしかに、当時、地中海を取り囲む各地には国といえるものはあったが、しかしそれは、いずれも都市国家と称すべきもので、とても現代でいうところのネーションという呼称に値するものではなさそうにみえる。ギリシャ人の諸都市の間にも絶えず争いが絶えなかったし、ローマ人にしても、もともとギリシャ人と同朋の関係であり、異人種ではない。フェニキア人にしても、またその後身のカルタゴ人にしても、言語・風習を異にしていたかもしれないが、人種差別のようなきわだった異質性があったとは考えられない。
 そこで、紀元前の古代社会を考えるとき、現代風に国家とか国民とかを考えるのは大きな誤りであることに気がついた。
 カルタゴがローマに滅ぼされたのは、軍事国家として台頭しつあった若い国ローマの鼻先にあって、海洋通商で富を築き繁栄していたからのことで、ローマはこれを焼き滅ぼして、世界制覇の第一歩を踏み出したのである。ローマの背後にはエジプトのプトレマイオス朝のファラオがあった。後の話ではあるが、ローマのカエサル (シーザー) もアントニウスもエジプトの銀行家に借金をしていたといわれるから、ローマがカルタゴ征伐に要した資金もエジプトから出ていたのかもしれない。また、ザマの会戦での実際の勝利者であるマシニッサという土族の王も、エジプトにそそのかされてカルタゴを敵とするようになったといわれることから考えて、カルタゴを滅ぼしたのは、実際のところエジプトであったとも考えられる。
 ハンニバルには、そのようなカネにまつわる国際情勢が分かっていたのだろうか。たぶん、そのためだったのだろう、彼はイタリアの土地で大勝利を得ていながらローマに攻め込むことを躊躇した。ローマを孤立させて、戦わずして滅ぼすことを考えていたと解釈されているが、包囲作戦のための同盟を結んだ相手は、いずれも負け犬ばかりだった。マケドニアの王もシリアの王も、その後、ローマに負けてしまう。もしエジプトと和解していたら、ザマの敗戦もなかっただろうし、ローマ帝国の時代もくることはなかっただろう。ザマの敗戦から五十年のち、カルタゴは奇蹟的な経済復興をなし遂げるが、ローマの野望の前についに壊滅の憂き目をみることとなる。蝶のサナギは羽ばたくことなく焼き殺されてしまったのである。
 商人の帝国は、国際政治の舵とりをあやまってしまったのだ。カルタゴ救済に駆けつける友はついに現れなかった。カネ持ちには友はないということだろうか。原子爆弾による敗戦からやがて五十年を迎える日本を思うとき、孤立の危うさが気にかる今日この頃である。

[知識 1990年6月号 掲載]

カルタゴの悲劇の女王

――ソフォニスベの物語
    服部伸六

   三人の悲劇の女王
 紀元前の北アフリカに悲劇的な死に方をした三人の美しい女王がいたと言えば、誰でも想い浮かべるのは、まずクレオパトラのことだろう。だがすぐ、では後の二人はいったい誰だということになる。
 まず、その一人はチュロス (今のレバノンのティール) から移民を引き連れてカルタゴに植民地を造ったフェニキア人のエリッサ (またの名をディドオ) 女王であろう。彼女はカルタゴ建設の後、愛人となったローマ建設の英雄アエネーイスが神のお告げに従ってイタリアへと往ってしまったことに絶望して、自分から火に飛び込んで死ぬという悲劇の女王である。
 三人目の美女が、これから私がその物語の概要を語ろうとしているソフォニスベという才色兼備の女王である。

     北アフリカのベルベル人の首長
 ソフォニスベはカルタゴがローマに敗れて衰亡への道を歩みはじめていた紀元前200年代の世紀末に、カルタゴ王 (王といっても、カルタゴでは世襲ではなくて民主的な選挙で選ばれたシュフェテスという名の元首) であったハスドリュバルの娘として生まれている。カルタゴはローマに対抗するため、乗馬に巧みな騎兵で名高い内陸のヌミディア国の王ガイヤの協力を取りつけようと娘をガイヤ王の三番目の息子マシニッサと縁組みすることにした。そこでソフォニスベは王家の者にふさわしい教育を受けたのだった。

  崖の上の市街。コンスタンチーヌ

 マシニッサは、後にカルタゴのハンニバルとザマの平原で雌雄を決する戦いの主人公となる男であるが、このときはまだ彼の国はカルタゴと同盟関係にあって、彼もまたカルタゴで教育を受けている。
 ヌミディアには、もう一つのベルベル人の国があって、都を現在のアルジェリアの東部にあるキルタ (現在のコンスタンチーヌ) に置いていた。その王スファクスとガイヤ王とは共に天を戴くことのでき難い間柄であった。
 マシニッサは成年に達すると、カルタゴ軍に協力してスペインに遠征したもののローマ軍に敗れて命からがら故郷へ逃げ帰った。そのころハンニバルはローマ軍を圧して南イタリアに君臨してはいたが、スペインに残した彼の弟の軍はローマの若い将軍スキピオに押されっばなしだったのである。マシニッサが故郷のザマの近くまで乞食同然の姿でたどり着いてみると、父王は死に、王位には兄が就いていて、都は仇敵スファクスの軍に包囲されていた。
 そのころ、ローマのスキピオがカルタゴ征服を委任されて、カルタゴからほど遠くないウチカの港に上陸し、戦争の準備をしていた。カルタゴの104人からなる議会は上を下への大騒ぎとなり、スファクスを味方に取り込む作戦が議論されていた。ハスドリュバルの娘の美しいソフォニスベをスファクスに嫁がせて味方にしようという案が、父のハスドリュバルが欠席している間に議決されてしまったのは、そのためである。幼いころ許婚の約束があって、マシニッサに嫁ぐはずであった彼女は政略の具にされてしまったのだ。彼女は、泣いてスファクスの宮廷へ連れていかれるが、やがて幸せな日常を送ることになった。
 一方、マシニッサは、にわか造りの農民兵5000と500の騎兵を整えてスファクス軍を追い払い、王位につく。その上で夜陰にまぎれてスキピオの陣営に忍び込み、同盟の密約を結んだ。ここにローマとマシニッサ対カルタゴとスファクスという、それから50年あまりもの間、地中海を前にしたアフリカの岸に同盟の構図が出来上がることになった。

   カルタゴの近く、チュニスの海水浴場

     毒杯をあおる美女

 紀元前202年、両同盟の軍はメジェルダ河のほとりの平原で戦うことになる。が、スキピオの戦術が勝ちを奏して、スファクスはキルタをマシニッサに明け渡して西へ向けて敗走した。マシニッサはそこで少年のころ別れたまま会うことのなかった、色香まっ盛りの女王を宮殿の奥に見出したのだった。二人は若いころの愛情を蘇らせて、その晩ベッドを共にして語り明かした。

  古代カルタゴのガラス製の御守り

 ところが、スキピオは、この美女を戦利品と見なしてローマに連行すると言い出し、マシニッサに引き渡しを要求した。悩みに悩んだ挙句マシニッサは、自分の幸福を犠牲にしてヌミディア王国の安泰のためにと、毒杯を妻に渡すという解決策をとらざるをえなくなる。彼は妻の遺骸の横で一晩中泣き明かしたと伝えられている。

   カルタゴは亡びベルベル人の王は残る
 この話をローマの古典から拾いだして悲劇に仕立てたのがフランスのコルネイユである。ヴォルテールもそれを試みている。
 私はローマの歴史書の古典の抜粋を少しばかり読んだだけで、コルネイユもヴォルテールも読んではいないが、アフリカ史の専門家で作家でもあるマリ=フランス・ブリズランス女史の小説《ベルベル人マシニッサ》を読んで、悲劇の詳細を知ることが出来たのだった。《ベルベル人マシニッサ》というこの小説は、北アフリカの原住民ベルベル人の諸部族がこれまで信じられているような蛮族ではなく、エジプトと同じように太陽神を信仰する団結の強い部族であったと、その風習を詳しく紹介している。ただ彼らはノマード (遊牧の民) であったから、テントを担いで移動したので、都といってもカルタゴのように六階建てのビルをつくるには至らなかったのだ。ハンニバルとスキピオ=マシニッサ連合軍の大会戦が行われたザマにしても、今はその場所もハッキリしないのである。
 それなのに、この小説のなかでは王宮があったとされているが、それがどの程度のものだったのかはハッキリしない。それに引き換えキルタの王宮の方は、マシニッサとソフォニスべの愛の場面で詳しく描かれている。著者の学識からいってこれを信用するしかない。

     ザマはどこだ
 昨年 (1990) 私はチュニジアに旅をした。しかし団体ツアーの一員としてであったため自由行動はとれず、長年の私の懸案であったザマのあったという地方を訪れることは、かなわなかった。残念であったが、私がその時接触できた人からも詳しい話を聞くことも出来なかった。
 ザマというのは、言うまでもなく、ハンニバルとローマのスキピオが対決した会戦の野である。紀元前202年、初老の年に達していたカルタゴの名将ハンニバルと若武者のスキピオとがこの平原で戦ったのである。
 この戦いでローマ軍に勝利をもたらした最大の功労者はマシニッサであった。このとき彼は53歳になっていたが、ローマの側につき、最強の名高い騎兵を指揮してハンニバルの軍の中央突破を敢行し、敵を敗退させた。スキピオがどのような餌でマシニッサを参戦させたか、その詳細は明らかではないが、ローマがマシニッサに北アフリカの領有権の確認を保証したことは間違いないだろう。その証拠にスキピオは戦後のカルタゴとの講和条約で、カルタゴにマシニッサの国に兵を出すことを禁じたからである。
 若き日に結んだ妻との約束を、またしても破らねばならなかった老将の心の内に、どのような思いが去来したことだろうか。国事と自身の安泰のためには若い日のセンチメントはひとかけらの値打ちもなかったのだろうか。
 しかしマシニッサの君臨した国もやがて滅びたし、ローマもまた滅んだ。20世紀になり第二次世界大戦の最中、チュニスに来て北アフリカ戦線を視察にきた英国の宰相チャーチルが、側近に「ザマに案内してくれ」と言ったという。側近たちには何もわからなかった。昔、そこにマシニッサの宮廷があったことなどは無論のこと、西欧が東洋を破り、結果、今日のような西欧優位の世界が在ることも理解出来なかったのである。

[地中海文化の旅3 1993年 河出文庫 所収]