
革命/転回(レボリューシオン)
岡和田晃
朗々と、しかし掠れた歌声が、響くはずのない空間に沁みわたる。掻き鳴らされる六弦の伴奏楽器(ギターラ)に合わせ、闇を切り裂いて声が轟く。
「ある男が扉(プエルタ)のところで、あなたを必死に待っていた」と。
これは呼びかけなのか、それとも、嘆きの声か?
ここは真夜中の大通りだ。百四十メートルもの高さのある、大理石を切り出した純白の四角錐(オベリスコ)が照明を受け、薄緑のような色合いで聳(そび)え立ち……そこからまっすぐにつながる場所である。草木も眠る時間、辺りは薄暗い。にもかかわらず、人々が詰めかける。いささか奇妙なことに、若者の姿はなかった。老人ばかりが集い、仮設の舞台(エセナリオ)を見上げているのだ。
視線の先では、もはや若くはないだろうジーンズ姿の女が、髪を振り乱して歌っている。それを、皆は聴いている。ある者は手足でリズムを取りながら、またある者は首を振りながら。情熱的なタンゴの歌詞を書いたことで知られる詩人の言葉を、旋律に乗せて、女はたどたどしく反芻(はんすう)している。叶わぬ恋、引き裂かれた情動を歌っているかに思えても、別の意味が重ね合わされている――集まった者らは一人の例外とてなく、そのことに気づいていた。
「あなたは熱烈に愛されていた。世界もあなたを愛していた。だけど、あなたは扉(プエルタ)にしがみつく。開けてほしいと訴える」
細い肩紐で吊るされた黒の下着(カミソーラ)。露わな胸の谷間に、鎖骨を伝って流れ落ちた汗の光が照り返っている。女は叫ぶ。
「すべての善きものにかけて、すべての無辜(むこ)なるものにかけて!」
聴衆は静まり返る。一瞬の沈黙の後、夜闇に似合わぬ大歓声が上がった。女の言葉は、確実に何かを訴えかけたのである。失われたはずの記憶が、聴衆の眼前には、ありありと呼び覚まされたのだ。
女は歌い止めたかと思うと、そのまま目を閉じ、黙って歓声に耳を傾けていた。やおら、楽器を激しくかき鳴らす。不意を突かれたためか、観客のもとに静寂が訪れる。女は演奏をやめ、楽器を台に立てかけると、マイクに向き直り、最後の言葉を口にした。
「そして気付いたの――昨日は人が死んでいなかった、と」
またもや歓声、と思いきや、割り込んできた警官たちにより掻き消された。警察(ポリシア)と書かれた防弾チョッキを着込んでいるが、出で立ちはむしろ兵士に近い。辺りを、感興の念ではなく当惑が覆った。闖入者(ちんにゅうしゃ)らは「中止、中止、中止だ!」と叫びながら、滅多やたらに警棒を振り回す。逃げようとして、人々が将棋倒しになる。銃声が鳴り、血しぶきが上がった。悲鳴に嗚咽が入り混じり、混迷の度合いはいや増してゆく。
女は呆然と、地獄絵図を見つめていた。傍らで音響を担当していた男が、無理やりその手を引き、舞台を駆け下りた。しかし、屈強な体躯の警官が割り込んでくる。男は張り倒された。女の身柄を確保することが目的なのは、火を見るよりも明らかだった。女はうなだれ、両手を挙げて恭順の意思を示す。それまで無表情だった警官が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
一瞬の後、警官は崩れ落ちた。こめかみに投石が命中したのである。滴り落ちる血。客席に陣取る聴衆たちが逮捕も恐れず、想いを代弁してくれた芸術家を守るべく決起したのか? いや、違う。漆黒というよりかは錆色の夜闇の向こうで、赫々(あかあか)と火が焚かれていた。警官が乗ってきた車がひっくり返され、それを乗り越えながら、別の群衆が雪崩れ込んできたのである。度肝を抜かれたのは、攻撃された官憲だけではなかった。むしろ、もといた観客の側が、呆気(あっけ)に取られていたのである。
現れたのは自分たちだったからだ――それも、いまだ若々しかった頃の。
すでに真夜中ではなかった。横断幕が掲げられ、そこには何やらメッセージが書かれているが、奇妙なまでに薄ぼんやりしていて、判読することができないでいる。警官たちは、新たに現れた敵勢へ向けて銃を向けるが、群衆の側が早い。次々と石礫が飛んできて、なすすべもなく打ち倒されていく。
――いま出来ないでいることを、かつての自分たちがやってのけている。
息を呑み、その様子を見つめていた群衆は、そのことを直観した。封印された記憶が、奔流のごとくよみがえってきたのである。かつてこの国は、正当な選挙で選ばれた政治家ではなく、クーデターで政権を奪取した軍人たちにより、長く牛耳られてきたのだった。わけもなく「反乱分子」とみなされた者らは、周囲から孤立せしめられ、ある日突然、重武装の兵士たちに家へ踏み込まれた。そのまま連れ去られ、行方不明者の宣告を受けた。
いなくなった者は、最初から存在しなかった――そう思い込むのを余儀なくされた。生き残った者らも、彼らを話題にしなくなった。さもなければ、次に「消去」させられ、存在を抹消されるのは、ほかならぬ自分たちとなるからだ。
歌に歌われた「扉にしがみつ」き、「開けてほしい」と訴えているのは、恋敗れた男ではなく、連行から逃げてきた者らのことではなかったか。「昨日は人が死んでいなかった」というのは、幾重もの皮肉(イロニーア)ではないのか。そのことを語る言葉が、歴史の断層を抉り、こじ開け、目の前の現実を変容させたのだ。摘まれたはずの革命の芽が、発芽したのである。
静かなる蜂起が進行していく。我に返った女は、何やら冷たいものが頬に触れたことに気づいた。雪だ。南半球のこの街ではありえないはずの雪が、しかも真夏のクリスマスに、しんしんと降ってきたのである。
【note】本作はブエノスアイレスの近現代史をモデルにしていますが、別々の時代を縮約しています。詩はオラシオ・フェレールのものを参考にしました。当地ではバスが二十四時間運行しているため、真夜中の野外イベントは珍しいものではありません。なお、二〇二五年十一月のPen Argentinaのイベントで、フェレールの詩を添えた曲が奏でられましたので、以下のリンク先にご紹介しておきます。
https://www.dropbox.com/scl/fi/e871kurpsdaskuepr3086/IMG_0581.MOV?rlkey=uvpyd0rgb34sn6aabrju1nmgj&dl=0(著者)
初出:「ナイトランド・クォータリー・タイムス」Issue26、2025年。掲載時より改題
