
シミルボン再録
自由と多様性は常に、そして絶対に正しいのか?
「不平等の再検討 潜在能力と自由」
アマルティア セン著
池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳
岩波書店
評:大野典宏
著者であるアマルティア・センは、1998年にノーベル経済学賞を受賞しているが、経済の分野のみならず社会科学に多大な影響を与えている人物である。
活動領域は不平等の研究、自由主義の研究など、数多くの分野にわたる。
センが大きく影響を受けたのは、彼の故郷であるインドでの体験が大きいという。
インドで大飢餓が起こった際、飢餓で正気をなくした人たちが暴動を起こした。ヒンズー教徒とイスラム教徒との諍いで多くの死者が出た。この現象はなぜ起こるのか? なぜに貧困という現象が起こるのか? なぜ社会全体の富が配分されないのか? 当然のこととして疑問が湧く。そこがセンの出発点である。
その根源を考える場合、避けて通れないのが不平等と社会福祉の不全である。
これを無くすことはできるのか? 人の自由と平等、社会福祉の実現は同時にできるのか? かなり難しい問題である。
現在、SNSにおける議論の多くは、自由の保証と、被害者の保護が正面からぶつかっていることに起因している。
もちろん、自由は大事だ。しかし、法律が被害者(人権侵害を受けた人)を守るために存在するのであれば、その線引きはどこなのだろうか。
最近、「多様性」という言葉が免罪符になってしまっている。もともと多様性とは、少数派の保護を目的とし、社会の中に受け入れるために用いられた言葉である。
しかし、今では「表現の多様性」、「金銭的格差も社会の多様性」といった具合に、不平等や明らかに間違っている結果への免罪符になってしまっている感もある。
ここで、センの言葉を引用する。
どの領域で平等が追求されるのかを区別する意義は、究極的には人間の多様性に関係している。われわれは非常に多様なので、ある領域における平等は、しばしば他の領域における不平等をもたらす。「何の平等か」という問いの意義は、われわれがみな(身体的、知的能力と障害、疫学的な脆弱性、年齢、そして福祉と自由をもたらす社会経済的な基礎において)異なっている経験的な事実に基づいている。
多様性にもさまざまな種類がある。もし全ての多様性に配慮しようとすれば、完全な混乱に陥ってしまうというのもおかしなことではない。実践的な必要からわれわれのとるべき道は、特定の多様性には目をつぶり、より重要な多様性に注目することだろう。このちょっとした世俗的な知恵をあざけるべきではない。事実、不平等の研究において実践的な推論と行動を志向するのであれば、計り知れないほどの多様性の多くを無視せざるを得ない。それぞれの場面で問われるべき問題は、「この文脈で重要な多様性は何か」ということである。
――同書、第八章「階級、ジェンダー、その他のグループ」より
センの言葉を正しいのだと仮定すれば、「多様性」や「自由」はその時、その場所で起こっている問題の要素を分解し、十分に分析したうえで結論を下さなければならないということになる。
したがって、そのような言葉を免罪符として使うことは、ある種の誤魔化しでしか無いということである。
「芸術や表現を殺す」というのはとても強い説得力を持つように感じる。だが、それが特定の誰かにあまりにも多大な不公平を負担させるような場合には慎重に考えなければならない。
つまり、「ヘイトスピーチ」が表現の自由に含まれないのは、それは「意見の多様性を殺す」ことよりも、その表現による社会的な危害のほうが大きいため。と結論できる。
信条を抱くのは良いことだし、主張することも自由だ。だが、その場、その時に社会全体に及ぼす危害という名の不平等とのバランスを考え直すときが来ている。
私はそう確信している。
(初出:シミルボン「大野典宏」ページ2020年3月2日)
